大議会は南方の覇者によって収束する
大議会は午後三時に再開され、子爵以上の貴族家の当主たちを飲み込んで、議事堂の扉は閉じられた。
皆が席に着くと、議長である元老院院長のフランコ公爵が大議会の再開を言い渡した。
それから数分後。
カイエンは議事堂の、円形状に階段席が中心部の元老院長席を囲む中、モリーナ侯爵とモンドラゴン子爵のグループの集まる一角を見つめていた。
そこで一人立ち上がり、腹の底から出しているのであろう、議事堂中に響き渡る大声で持論を展開している男。
それは、筋骨逞しい、ヴァイロンほどではないが充分に巨大な肉体を伯爵家の当主の礼服で覆った、五十がらみの男であった。
「……そもそも、このハウヤ帝国は初代サルヴァドール大帝の御世より、女帝の即位は認められて来なかった。だが、サウル皇帝陛下はこの三百年の伝統ある皇位継承の典範を改正なさった。我々、ハウヤ帝国貴族は皇帝陛下の家臣。このご決定には従うのみである! であるから、ご遺言により、第一皇女であられ、今は摂政皇太女であられるオドザヤ殿下の御即位を願われたサウル皇帝陛下のご遺志を、我々は粛々と実行するべきである。……だがフロレンティーノ皇子殿下のご成長後はどうするべきか!」
そこで男が言葉を切ると、一斉にモリーナ一派の貴族たちがけたたましく拍手を送る。とは言っても、この意見に目新しいところは何もない。
午前中の議論の中で、モリーナ侯爵がすでに、
(確かに、皇帝陛下は次代をオドザヤ摂政皇太女殿下に任された。だが、サウル皇帝陛下がれっきとした皇子、フロレンティーノ殿下を残されたことに変わりはない。で、あるからには、オドザヤ皇太女殿下の御即位後、殿下が皇配を迎えられた場合、そして皇子をあげられたとした場合。この場合に対してのことも、ここで決めておくべきことかと存じる)
と述べているのである。
だから、この五十がらみの伯爵の意見は、モリーナの主張を俺も支持するものであるぞ、という表明のためのものでしかない。目新しいことは何も言っていないのだから。
拍手を上品に手で抑えるような仕草を見せた五十がらみの伯爵は、巌のような体に険しいが闘犬のようにやや肉のたるんだ、だが冷酷な印象を与える顔を載せている。目の色が薄いのが冷酷な上に、酷薄な印象を与えていた。
「誰だ? あのでっかいおっさん」
カイエンの横で、面白そうに聞いているエルネストが聞いてきた。このハウヤ帝国へやって来て数カ月にしかならないエルネストに、議事堂を囲む子爵以上の貴族たちの名前と顔が一致しているはずもない。
「マヌエル・カスティージョ伯爵。……帝国軍コンドルアルマの将軍だ」
聞くなり、エルネストは口笛でも吹きたそうな様子をした。恐らくは、本当にそうしようとした自分を危ないところで止めたのだろう。
「へぇ。あの、でっぷりした怖い顔のおっさんは、ハウヤ帝国軍の四大将軍の一人ってわけかい?」
「そうだ」
カイエンはふと、オドザヤの横に控えているザラ大将軍の方をうかがった。
ハウヤ帝国の四大将軍の一人、コンドルアルマのカスティージョ将軍が、モリーナ侯爵の派閥に属していたとは。ザラ大将軍は知っていたのだろうか。知っていたとしてもおかしくはない。カイエンにしても、四大将軍の中で、カスティージョ将軍だけはこちらにはつかないだろうと思っていたのだから。
実は、その理由は、大公軍団の中にあった。
そのことをよく知っている、エミリオ・ザラは鷹を思わせる厳しい顔に、皮肉な笑みを浮かべ、面白そうな顔でカスティージョ将軍の演説を聞いていた。内心の思いを隠そうともしていない。
「四大将軍の他の三人。フィエロアルマのジェネロ・コロンボ将軍は平民出身だ。彼の前の将軍だったヴァイロンも、前の大公の後ろ盾があったとはいえ平民には違いない。そして、ドラゴアルマのブラス・トリセファロ将軍は男爵家の三男、それにサウリオアルマのガルシア・コルテス将軍は帝国の北方、自治領スキュラとの国境あたりの豪族の出身だ。……男爵家や豪族の息子でも、長男ではないから、爵位は持っていない。そして、一昨年まで近衛騎士団の将軍だったのがザラ大将軍だ。お前も知っているかもしれんが、ザラ大将軍はザラ子爵の弟だ。皇帝陛下はザラ大将軍に男爵の爵位を何度も与えようとなさったそうだが、ザラ大将軍は断っている。そして、……近衛騎士団は今もザラ大将軍が指揮なさっている」
「へええ。じゃあ、お貴族社会のご身分的には、この国の将軍たちの中で、あの伯爵家当主のおっさんが一番上ってことか」
カイエンはうなずいた。
「……隠しておくことでもないから、言っておくが、あのカスティージョ将軍は大公軍団に対しては厳しいお相手だ。だから、ああしてモリーナ派の論客として立っているのも、私たちは意外には思わない」
カイエンがそう言うと、エルネストの一つだけの黒い目が、興味深げに輝いた。
「それはまたなんでだい? 何か因縁でもあるのか」
「その通りだ。まさに因縁だな。それも、まあ生々しいこと極まりない因縁だ。……お前はイリヤが元は帝国軍人で、あのカスティージョ将軍のコンドルアルマにいたことは知っているか?」
エルネストの顔に、心の底から意地悪そうな微笑みが浮かんだ。
「ああ、それなら小耳に挟んでいる。あの将軍のことだとは知らなかったが、上司の女を寝取って大騒ぎになって、殺されかかって逃げ出して、それから大公軍団に拾われたってお話だったな」
カイエンはエルネストの耳の早さに辟易するような気持ちだった。もっとも、イリヤはこの間まではアルウィン一派がこのハーマポスタールに残した、「盾」の頭だったのだから、エルネストはこのことを、アルウィンやグスマンから聞いたのかもしれなかった。
そういえば、あのイリヤをとっちめるための朝餐の時も、大公宮の後宮にいる赤鬼青鬼だの、
「よく知っているな。その通りだ。イリヤが大公軍団の下っ端だった頃は、カスティージョ将軍も気がつかなかったようだが、五年前にイリヤは大公軍団長になっちまったからな。さすがに気がついて、それからは社交場だの皇宮だので会うたびに、意味深な当てこすりを言われて困ったよ。……私は別にイリヤの弁護なんかしなかったけどな」
カイエンはちょっと思い出してしまってから、すぐに思い出の引き出しを強引に閉めた。あの様子では、イリヤ本人にも嫌がらせの類はあったのではないだろうか。だが、イリヤ本人がそれを匂わせたことはない。
カイエンはカスティージョ将軍の方へ目を戻した。
「……そこで、我々が主張したきことは、オドザヤ皇太女殿下の即位後の未来についてである! まず、伺いたい。フロレンティーノ皇子殿下は御即位後のオドザヤ殿下の『法定相続人』となるのでしょうな?」
「来たな」
カイエンは身を乗り出したりすることはなかったが、ややその表情を緊張させた。
女帝として即位後のオドザヤの「推定相続人」として、フロレンティーノ皇子を立てることは、カイエンたちもすでに考えていたことだった。だから、彼女はカスティージョ将軍の言ったことに驚いたわけではない。
だが、カスティージョ将軍は「法定相続人」という言葉を使ってきたのである。
「法定相続人」とは、次の相続が決定した人物のことだ。だが、「推定相続人」は違う。
フロレンティーノ皇子を、オドザヤの「法定相続人」とすれば、オドザヤが結婚し、皇配との間に皇子が生まれた場合でも、次代の皇帝はフロレンティーノ皇子で揺るがない。
だが、カイエンたちが考えている、独身の女帝の「推定相続人」とするなら、女帝となったオドザヤが皇子を得た場合には、オドザヤの息子にも皇帝への道が開けるのである。
カイエンたちにしても、サウルの皇子であるフロレンティーノの即位を是が非にでも阻止しようとしていたのではない。
ただ、フロレンティーノ皇子の母親は、ベアトリアの王女のマグダレーナだ。未だ乳飲み子のフロレンティーノ皇子の養育いかんでは、ハウヤ帝国はベアトリア王国の外戚としての専横を許すような事態も想定されるのだ。そして、死を前にしたサウルが心配していたのも、まさにそのことだった。
「発言の許可を願う」
カスティージョ将軍が言葉を切った、その瞬間を逃さずに手を挙げて立ち上がったのは、クリストラ公爵ヘクトルだった。
(まずは議論が始まるでしょう。……我々の側の見解の表明は、私が致します。大公殿下は後押しをしてくだされば……)
カイエンに先ほど言った言葉通りに、クリストラ公爵はこちらの陣営の代表として発言するつもりらしい。
「ヘクトル・クリストラ公爵、どうぞ」
議長である、元老院長のフランコ公爵の声は落ち着いていた。
クリストラ公爵が立つと、カスティージョ将軍は自分の主張を最後まで言わずに邪魔されたことに、ちょっと苛立った様子を見せた。だが、伯爵家の当主が、三大公爵家の当主、それも先帝の皇女であったミルドラを妻とする筆頭公爵のクリストラ公爵に逆らうような愚は犯さなかった。
「まず、言っておくが、私としても、今、カスティージョ伯爵の言ったことの一部は支持したいと思う」
クリストラ公爵が簡潔極まりない口調でそう言うと、議事堂内は、一瞬、しんとなった後にざわざわとざわめき始める。「一部は」とただした部分に対する反応だろう。
「即位後のオドザヤ殿下の相続人として、フロレンティーノ皇子殿下を立てることには我らも異論はない」
クリストラ公爵がそこまで言うと、議事堂は再び、しんとなった。今度はざわめく声はない。
「ただ、『法定相続人』と決することには慎重を期したいと思う」
クリストラ公爵がそう言うと、すぐにまだ立っていたカスティージョ将軍は食いついてきた。
「これはこれは、筆頭公爵であられるクリストラ公爵様のおっしゃることとは思えませんな。歴とした皇子殿下がおられるのに、これをにわかづくりの女帝陛下の決定された後継と為さずにどうしようと言われるか!」
にわかづくりの女帝。
この言葉に、モリーナ侯爵一派の考え方がはっきりと出ていた。そして、摂政皇太女であるオドザヤに、父である皇帝サウルにそうしていたように唯々諾々と従う気持ちなどないことも。
生前は絶対的な権力を誇り、貴族たちをほとんど政治に関わらせなかったサウル。だが、その存在が無くなり、重しが取れた途端に、彼らは国の統治と政治に手を伸ばしてきたのだ。
「サウル皇帝陛下は、次代を摂政皇太女であられるオドザヤ殿下に託された。そして、サウル皇帝陛下はオドザヤ様の次にどなたを立てるのかについては何もお決めにならずに旅立たれた。未来は次代の皇帝となられるオドザヤ摂政皇太女殿下に任せるとの思し召しであった。……これは、間違いのないことだ。証拠をと言われるならば、ご遺言書を頂いた、我ら六名とオドザヤ摂政皇太女殿下宛の遺言書を公開してもよろしい」
クリストラ公爵の、明るい、彼の領地であるクリスタレラの平原の空のような目と、カスティージョ将軍の酷薄な白っぽい色の目が、がっきと議事堂の空気の中で絡み合う。
「何をおっしゃるか! 女帝冊立は、皇子であられるフロレンティーノ様のご成人を待つまでの、一時しのぎのこと。そんなことは改めて言うまでもない、当然のことではないですか!」
叫ぶように言うカスティージョ将軍は、鼻の下に蓄えた、きっちりと糊で固めた髭を虫の触角のように震わせて、クリストラ公爵に迫った。
聞きながら、カイエンは手袋をしている手に汗を握った。
彼らがオドザヤの即位はフロレンティーノ皇子の成人までの「中継ぎ」でしかない、と言い出したことは意外でもなんでもなかった。午前中に、モリーナ侯爵は、
(オドザヤ皇太女殿下の御即位後、殿下が皇配を迎えられた場合、そして皇子をあげられたとした場合。この場合に対してのことも、ここで決めておくべきことかと存じる)
と、主張している。
あれは、フロレンティーノ皇子をオドザヤの「法定相続人」とすることで、オドザヤの結婚や、結婚によって生まれてくるかもしれない皇子への相続をも、絶対にあり得ないことと決めておきたいという気持ちからだったのだろう。
「そうですかな。サウル皇帝陛下のご遺言書を受け取った、我ら六人もそうは思っておらぬし、オドザヤ皇太女殿下もそうお思いではないとお聞きしているが。皇太女殿下は、大公殿下とお二人で、サウル皇帝陛下のご臨終に立ち会われ、そこで帝国の次代の統治を完全に移譲されたとお聞きしております」
クリストラ公爵がそう言うと、モリーナ一派だけでなく、議事堂全体がざわめき始めた。
「何を言われるか! この度の皇位継承の典範の改正は、一代限りのことでは……。それに、どうしてそこに大公殿下が出てくるのだ!」
カスティージョ将軍が何か言いかけたのを抑えて、議長であるフランコ公爵の許可も得ずにモリーナ侯爵が立ち上がった。
「……ああ、あなた方は皇位継承の典範の改正後の文言を見てはおられませんでしたな」
クリストラ公爵は意識的に目を細め、声音に憐憫の気持ちを乗せて答えた。皇帝サウルの意向で決められたこの皇位継承の典範の改正は、宰相府のサヴォナローラの元でまとめられ、サウルの署名と国璽の押印をもって決められた。
改正の事実は公開されたが、その詳細な文言すべてを見ているのは、ほんの一部の人々、はっきり言えばオドザヤ本人と、即位後のオドザヤを支える柱として名指しされた、大公のカイエン以下、六名のみだったのである。
「ご覧になりたいとおっしゃるのならば、オドザヤ殿下の御即位後に、陛下のご許可の上で、サウル皇帝陛下のご署名と国璽の押された文書を元老院に公開いたしましょう。そこには、一代限り、などと言う文言はございません。反対に、『この改正以降は、皇位を継ぐべき皇子のおらぬ場合には、女帝の冊立を認めるものとする』という文言があるのですよ」
クリストラ公爵が言い切ると、議事堂を完全な静寂が覆い尽くした。
皇帝サウルの絶対的な権力を、そこに集まった貴族たちは今更ながらに実感していた。
「な、なんと」
モリーナ侯爵とカスティージョ将軍は、並び立ったまま、絶句した。
だが、立ち直ったのは歴戦の勇者であるカスティージョ将軍の方だった。彼の支配するコンドルアルマは主にハウヤ帝国の南部を守護しており、海賊国家の連合体である、ラ・ウニオン共和国との国境線でのいざこざを、ずっと制してきたのである。
「クリストラ公爵、なるほど、な。それではその文言は元老院議員として、後ほど確認させていただきましょう。……だが、皇太女殿下はともかく、大公殿下とお二人で、サウル皇帝陛下のご臨終に立ち会われ『帝国の次代の統治を完全に移譲された』などと言うお言葉には納得できかねますな! サウル皇帝陛下が、オドザヤ殿下と、それに大公殿下に、帝国の次代の統治を移譲なされた、などと言う世迷いごとの証拠はあるのですかな?」
カスティージョ将軍は唾を飛ばしかねない勢いで言い募った。彼も伯爵家の当主ともなれば、現大公カイエンの両親が、皇弟で前の大公のアルウィンと、サウルの皇后になる前のアイーシャであるという、公然の秘密は知っているだろう。だから、カイエンがオドザヤの姉で従姉妹であることも知っているはずだった。
「証拠、ですか」
クリストラ公爵は落ち着いていた。カイエンとオドザヤは、「とうとう来た」と、息を詰めた。
「では逆にお尋ねしよう。……みなさま、皇帝陛下の左手のお指に常に光っていた指輪のことは覚えておられような?」
その言葉が議事堂にこだまする。それが何度も円形の天井に共鳴して落ちて来た時、そこにいたほとんどの人々の目が、驚愕に見開かれた。
「あっ」
星と太陽の指輪。
それが歴代の皇帝の指を飾って来たことは、貴族である彼らには当然の事実だった。そして、星と太陽の指輪を譲られた者こそが、ハウヤ帝国の皇位を継いで来たことも。
「あれこそ、このハウヤ帝国の帝王の証でありましょう。あれをサウル皇帝陛下から受け取られた方こそ、この帝国の次の担い手となられる方です。このことには皆様、反論はございますまい」
クリストラ公爵がこう言い切ると、議事堂の中は異様な雰囲気に包まれた。そして、モリーナ侯爵とカスティージョ将軍は、各々に違った反応を示した。
「クリストラ公爵、あなたは、あれを! あれを、今、どなたがお持ちなのか、ご存知なのか」
こう言ったのはモリーナ公爵。
「フロレンティーノ皇子……皇子が受け継がれたのでは、なかったのか?」
こう質したのは、カスティージョ将軍だった。
おそらく、この二人が「フロレンティーノ皇子擁立派」とでも言うべきグループの中心人物なのだろうが、二人ともに皇帝の「星と太陽の指輪」はフロレンティーノ皇子が継承するはず、または、もうしたと思い込んでいたらしい。そして、二人ともに死せるサウルの遺体に指輪がないという事実は知っていたのだ。
これはおそらく、親衛隊長であるモンドラゴン子爵が気がついて彼らに知らせたのだろう。
カイエンは、彼らの言葉を聞きながら、思い出していた。
それは、彼女の受け取ったサウルの遺言書の言葉だった。
(……星と太陽の指輪が、もとより二つに別れるようになっていたこと。それは恐らく、この私の死後の混乱の時代のためなのだろう。では、この指輪が作られた時にもう、このことは予測されていたのかもしれぬ。
だが、恐れるな。怯むな。人々と時代の声を聞け。
そうすれば、お前たちは最後まで歩いていける。敵からお前たちの大切な人々を、街を、守れるだろう。人々の生きる場所を守り、山河を街を美しいままに残していくことができるだろう……)
「……星と太陽の指輪は、今、まさに星と太陽をそのお名前に冠する方々がお持ちです」
クリストラ公爵は、静かな声で言い切った。
しばらくの間、議事堂には針が落ちてもわかるような静寂があった。
それを破ったのは、意外な人物の声だった。
「
「ええっ?」
驚いた顔を隠すことも出来ずに、声の方を見上げたのは、モリーナ侯爵とカスティージョ将軍だった。
声の持ち主は、発言を始めたからにはしようがない、とでも言うようにゆらりと席から立ち上がった。
「私は、一度しか見たことがない。私はあの時、二十年前に公爵家を相続するために御前に伺候した時、皇帝陛下のお指に光る奇妙な指輪を間近に見る機会があった。あれは、一度見たら忘れられない奇妙な意匠であったな。そして、星の目は濃い灰色の、そして太陽の目には黄金色の
ここまで語った声は、決して大きな声ではなかった。だが、議事堂中の人々の耳に届いた。幾人かは、カイエンの目の色が灰色で、オドザヤのそれが金色に近い琥珀色であることにも気がついたようだ。
「そして、海神宮の大回廊に並ぶ、十七人の皇帝陛下の肖像画のお指に嵌っていた指輪と同じものだった。そして、『星と太陽をそのお名前に冠する方々』とクリストラ公爵がおっしゃるからには、今、あの指輪をお持ちの方はお一人ではないのだろう」
ここまで独り言のように言って、自分の座っている位置よりも、さらに上段を振りかぶった顔。
それは、再開した大議会では一言も口を挟まず、つまらなそうな顔で座っていたバンデラス公爵の珈琲色の顔だった。
「お二人があの指輪を受け継がれたということは、あの指輪を二つに分けたのか? はたまた、指輪はもともと二つに分かれるものだったのか……。まあ、どちらにせよ、サウル皇帝陛下はあの方々に次代の治世をお任せになったということだ。それを、皇帝陛下のお決めになったことを、臣下である我々が、その一部なりとも変えることは許されない」
今や、ナポレオン・バンデラス公爵の鋼鉄色の冷たい目は、なんの感情も見せないまま、カイエンとオドザヤの顔を見比べるように見ていた。そしてその目は、ぐりぐりと機械的に動いた後に、なぜかカイエンの顔の上で静止していた。
そして、バンデラス公爵の言葉が議事堂を埋めた貴族たちの中に浸透していくと、皆の視線が、ゆっくりとカイエンとオドザヤの方へ向けられる。それは恐ろしいもの、信じられないものを見た、という畏敬とも慄きともつかぬ、ぐらぐらと揺れる目の色だった。
カイエンは息を飲んで、バンデラス公爵の言葉を聞いていた。
なるほど、彼がいう通り、「星と太陽の指輪」を受け継いだことは彼女とオドザヤの切り札だった。だが、摂政皇太女であるオドザヤはともかく、臣下である大公のカイエンもが指輪を受け継いだこと。これは最初、宰相のサヴォナローラもザラ大将軍も、そしてクリストラ公爵夫妻も、元老院長のフランコ公爵も、「伏せておくべきでは」との意見だった。摂政皇太女のオドザヤが一人で受け継いだことにするべきだと言ったのだ。
それに一人、反対したのは、他ならぬ当事者のカイエンだった。
「オドザヤ皇女お一人に責任を被せて済ませるわけにはいかない。それに、真実が露見した場合に、失う信頼が恐ろしい」
カイエンがそう言うと、サヴォナローラとザラ大将軍が皮肉そうな笑みを浮かべて言ったものだ。
「嘘がお嫌いなのは存じておりますが、馬鹿正直だけでは今後の荒波は乗り越えられませんよ」
言葉にしてきたのはサヴォナローラの方で、これにザラ大将軍はにやにや笑ったままうなずいた。
「手札は一枚ずつ台上に出していくものですぞ。最初から切り札を切ってしまっては……どうですかな」
カイエンは二人の言うことは勿論、理解できた。だが、彼女はあえて持論を展開して反を唱えたのだ。
「私は、『青い天空の塔』修道院でのことが気になっているのだ。逃げた
「彼らはまだこの国に残っているとお考えですか?」
サヴォナローラの問いをカイエンは肯定した。
「螺旋帝国の前の王朝の遺児たちは、そもそもこのハウヤ帝国まで逃げてきたのだ。星辰はわざわざ後宮に入りさえした。それがまた故郷へ戻っていくとは思えない。『青い天空の塔』修道院の事件は天磊の仕業で間違いない。とすれば、一昨年の連続男娼殺人事件も、クーロ・オルデガが遺書で告白した一件以外は、天磊の仕業だった可能性が高い。前の大公一味はあんな危険人物を、それと知ってわざとこの国へ連れて来たのだ」
「……そうですね」
ここまで聞いて、サヴォナローラたちの顔が急に真顔になった。
「天磊や子昂はまだこの国にいるだろう。それならそれは、なんのためだろうな? それは、あの連続男娼殺人事件のように世間を騒がせ、人心を乱すためではないのかな?」
誰も、口を挟むもののない中、カイエンは自分の考えを続けていった。
「皇帝陛下の死後、私やミルドラ伯母様の醜聞が流された。あれは、モリーナ侯爵たちの一派の仕業かもしれないが、治安を揺るがせ、ああした噂を上手く使えば、社会不安を煽り、普通なら大人しくしている連中までもざわめき立つだろう。そんな連中に実は大公の私が星と太陽の指輪の半分を密かに持っている、そして、それを世間には隠している、などと暴かれたら、帝都の治安を預かる私の信用に関わらないか?」
サヴォナローラはさすがに話が早かった。
「なるほど、一理はありますね。反対に、サウル皇帝の臨終に際し、大公殿下が星と太陽の指輪の片割れを受け継がれたということになれば、女帝陛下の元、帝都ハーマポスタールの守護神として、お仕事がしやすくなると言うわけですね」
そうして。
カイエンたちは、この大議会で「星と太陽の指輪」の継承を切り札に、反対勢力を抑えることに決めたのだった。
息を飲むカイエンの前で、バンデラス公爵は駄目押し、とでも言うように話し続ける。
「……だから、私は最初に言ったではないか。『我々は、ただ、そこの摂政皇太女殿下のご意志に従えばよろしいのではないか? それが帝国の秩序というものではないのか』とな」
そこまで言うと、バンデラス公爵は急に話に興味を失ったように、すとんと椅子に座ってしまった。
「先帝から、帝国の皇帝の象徴である指輪を受け継いだ方がすべてをお決めになるべきだ。我々、臣下の者が、ご結婚だの次代の皇位継承についてどうこう決めて差し上げる必要などありますまい。第一、不敬でありましょう」
着席してから付け足されたバンデラス公爵の声は、本当に独り言のような大きさだったのだが、議事堂にいた皆の耳にその音声はしっかりと届いていた。
カイエンはバンデラス公爵の言葉を聞きながら、改めてこの、ハウヤ帝国南方の覇者を恐ろしいと思った。今や、モリーナ侯爵たちは喰らい付く当てを完全に失い、青い顔で固まっている。あの様子では、もう噛み付いてくることもないだろう。
「はっはあ。早速、えらいことになったねえ。あの公爵、女帝陛下とは言わず、『指輪を受け継いだ方』って言いやがったぜ。まあ『方々』って言わなかっただけ、ご親切なんだろうな。さあて、これでこの大議会とやらもお開きかな」
横から、カイエンの考えていたことをそのままにぼやいてくれたのは、もちろん、口の減らないエルネストだ。
「いや。元老院議員の三分の一以上の署名がある大議会召集請願書が出て、こうして大議会が招集された以上、まとまった結果を評定して決議しなければならん。バンデラス公爵のお陰で、もう、結果は見えているけどな」
カイエンが説明するまでもなく。
その後、議長であるフランコ公爵の主導によって、オドザヤの即位と、今のところはフロレンティーノ皇子をオドザヤの「推定相続人」とすることがまとめられた。それをフランコ公爵は評議にかけると宣言し、賛否は議員全員の「入れ札」によって評決された。
結果は満場一致。
曰く。
「ハウヤ帝国元老院は、摂政皇太女オドザヤ第一皇女殿下が皇位継承され、先代サウル皇帝の葬儀の後、即位されること、及び、推定相続人として、第一皇子フロレンティーノ殿下を指名されることを支持する」
オドザヤの結婚だの、結婚によって誕生するかもしれない皇子皇女の相続の権利などについては、新帝オドザヤの意志に従うものと決められた。故に、文言は極めて簡潔なものとなり、この決定はすぐに議事堂の周りに張り付いていた各読売りの記者たちによって持ち帰られ、早くも翌日の帝都の読売りの第一面を飾った。
この決議の内容は、男帝であったら当たり前の、誰も意見など差し挟む余地のないことであり、それが女帝となるオドザヤにも当てはめられたにすぎなかった。それでも、この決議は「新しい時代への革新的な決議」として読売りに載り、徐々に国民に受け入れられていくこととなる。
カイエンとオドザヤが継承した、「星と太陽の指輪」のことも数日後にはどこかから漏れて記事になったが、その記事は皇帝サウルの葬儀の記事と、それに続くオドザヤの即位の記事に埋もれてしまうことになる。だが、貴族階級の中では、大公カイエンが「皇帝の指輪」の片割れを受け継いだ、という情報はすぐに知らぬ人のいない事実となった。
決議書が読み上げられ、フランコ公爵によって閉会が告げられ、オドザヤの閉会の言葉で全てが終わる。
午前中の入場の時とは反対に、最初に摂政皇太女のオドザヤが、最初に宰相サヴォナローラと、大将軍エミリオ・ザラを引き連れて退場すると、次に大公のカイエンとエルネストが続く。
元老院議事堂から、カイエンとエルネストが議事堂の周りを囲む回廊へ出て来ると、すぐに後ろからクリストラ公爵と、そしてバンデラス公爵が退場して来た。元老院長で議長のフランコ公爵はカイエンたちとは違い、議事堂の真ん中に居たから、下の出口から退場したのだろう。
すでにそこには、クリストラ公爵の従者と、カイエンの執事のアキノ、それに護衛騎士のシーヴが控えていた。
オドザヤとサヴォナローラ、それにザラ大将軍は後ろを振り返ることもなく、海神宮へと戻って行く。明後日の葬儀の最終調整は、前日の明日に行われることになっていた。すでに、喪服の準備も、会場である海神宮の皇帝家の地下墓地に隣接した葬祭殿の準備も済んでいた。明日はそれをいちいち確認しながら、皇帝一家とそれに連なる者は葬儀のいわば「予行演習」を行うのだ。
葬祭殿での儀式に参列するのは、今日集まったのと同じ、子爵以上の貴族だが、葬儀には夫人も伴われて来るから、人数は倍増する。不手際があってはならなかった。
カイエンが、オドザヤたちの後ろ姿を見送っていると、クリストラ公爵の横をすっと通り抜けて、バンデラス公爵がカイエンとエルネストの横へやって来た。
カイエンははっとして顔を上げる。武人のクリストラ公爵やかなり大柄なエルネストと比べても、バンデラス公爵は見劣りしない長身だった。カイエンだけが彼らを見上げることになる。
「何か?」
カイエンはバンデラス公爵との挨拶は、午前中の大議会の中で済ませていたから、精一杯にこやかな顔を作った。
「少々、お時間をいただけますかな? 大公殿下」
バンデラス公爵の言葉は、簡潔だが、有無を言わさないような重たい響きがあった。相手に「否」と言わせず話を進めるのに慣れた者だけが持つ、これも能力というものなのだろう。
カイエンは思わず、どうしようかとクリストラ公爵の方を見そうになったが、ぐっとこらえて言葉を返す。
「何でしょうか」
これも社交術というもので、カイエンにもこの頃やっと身について来たものだ。この言い方なら、「時間はあまりないが、聞いてもいいよ。でも、この場でね」という気持ちが伝わる。それはこうしたことに慣れたバンデラス公爵や、クリストラ公爵へも伝わったようだ。
「伯父様、明後日のご葬儀のことは後ほど……公爵家の控え屋敷へ寄りますので、その折に……」
だから、カイエンがそう言うと、クリストラ公爵は、静かにうなずいて議事堂を出ていく。
「お前たちは、馬車のところで待っていてくれ」
そう言うと、アキノもシーヴも何か言いたげな顔をしたが、結局、最後には下がっていった。バンデラス公爵には従者もおらず、馬車止まりの場所も、それほどここから遠くはない。
エルネストだけは無言のまま、カイエンの斜め後ろにどっしりと立ったままだった。カイエンからは見えないが、ほとんど同じ高さからバンデラス公爵と顔を合わせているエルネストの顔には、面白がっていることが明白な、だが憎々しほどに図太い微笑みが浮かんでいるのだろうことは予想できた。
カイエンは回廊を見回し、六月の長い夕焼けの始まったオレンジ色の光の中を見回した。ちょうど、回廊の途中に小さな花壇を中心にして、大理石のベンチが囲んでいる場所があったので、そこへ向けて腕を伸ばした。
「あそこなら、座ってお話が伺えそうですね。この通り、私は立ち話には向かない体ですので」
こういう時に、カイエンは自分の体の障害を上手に使えるようにもなって来ていた。子供の頃には自尊心から言えなかったことも、大人になれば図々しく利用できるようになるものだ。
三人がそこへ向かい、カイエンとエルネストは、花壇を挟むと遠くなるので、バンデラス公爵の斜め横へ、直角に座った。
そして、座るなり、バンデラス公爵はとんでもない爆弾を、カイエンたちにぶつけて来た。
「先ほどは仲の良いご夫婦を見事に演じておられたが、私には何だか不自然に思われましてね。何よりも、こんなによく似たお顔立ちのご夫婦など、歴代の皇帝陛下の中で、しかもシイナドラドから皇后をお迎えになったご夫婦以外には見たこともないですからな」
バンデラス公爵は、用心深く黙っているカイエンとエルネストの前で、さらに言葉を積み重ねた。
「シイナドラドからの皇子の婿入りとなれば、本来は女帝となられるオドザヤ様のご夫君、皇配としての方が両国にとって適当なはず。ぼんやりとしていてお気付きでない方が多いようだが、歴代の皇帝陛下にシイナドラドの皇女が嫁いで来られたのは、シイナドラド所縁の初代皇帝サルヴァドール陛下の血を薄めないため。で、あるのに、この度の縁談は大公殿下が受けられた」
もう、カイエンにもエルネストにも、バンデラス公爵の言いたいことが見えていた。
「……オドザヤ摂政皇太女殿下がお相手では、よく似たお顔立ちのご夫婦が出来上がらない。今度のことはそれゆえでありましょう?」
バンデラス公爵はどこまで知っているのか。今、ここでこの話を出して来たことの真意は。
カイエンも、エルネストも、判断がつかぬまま、公爵の次の言葉を待っているしか、なかった。
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