イリヤの回想

 あの人は怪物だった

 初めて会った時から

 そして、お終いに会ったあの瞬間まで

 あの人は人の身で歴史に関与する

 彼岸の微笑みで人を操る怪物だった


 あの人はあの男とともに

 俺たちの父親のように振る舞った

 そして

 俺たちの人生の一部を支配した

 確かに

 本当の親父よりも俺たちに及ばしたものは多かったかな


 危ないところだったぜ

 俺たちはすんでのところであの人に

 俺たちの人生すべてを引き渡しちまうところだった


 目の見えなくなっていた俺たちの前に立ちふさがったのは

 あの人が生み出した

 たった一つのまともなもの


 それは海の街の娘

 ただただ、自分の信じる通りに、まっすぐに生きるしかなかった女

 不器用で不完全なまま、おのれを変えずに生き抜いていった女

 上手に生きる方法も知らなければ、知ろうと望むことさえ無かった女

 そして

 俺たちがあの人を捨てて、その後に続くことを決めた

 ただ一人の女



 

 アル・アアシャー 「俺様たちの世界」より「預言者イリヤとセルバの英雄」








 それは、彼が十九の時のこと。

 ハウヤ帝国帝国軍人になってすぐ。上司、それも階級的にはるかに離れた上司の女と関係して、そこをクビになった時だった。

 珍しい鉄色の髪と、やや明るい鉄色の目をした、後の「大公軍団の恐怖の伊達男」。

 でも当時の彼は、まだ帝国軍の将校の一声で吹き飛ぶような存在だった。ただただ人並み外れて整った、それも甘い砂糖菓子のように人々を惹きつける顔を持って生まれて来ただけの、なんの権力も持たない若造だったのだ。

「へえ。君がイリヤ君? 帝国軍を追い出されたっていう? 災難だったねえ。君がそんなふうに生まれてきたのは、君のせいじゃないのに」

 あの時。

 初めて、あの人のたった一人の腹心に連れられて。

 あの人の前に立ったあの時。

 あの人は、きれいな噴水の縁に座って、彼ともう一人を見上げながら、そんなことを言っていたっけ。

 あのきれいな顔で。

 紺色の、きれいに整えられて肩を覆う髪。その下には真っ白な、嘘つきの微笑みが板についた、悪い悪いあの顔。

 アストロナータ神の神像にそっくりな顔。

 でも、それは、神とは正反対の場所にいる者の顔。悪魔のような後ろ暗い魅力を真っ白な皮膚に刻みつけ、深い深い暗黒の沼の表面にのせたような、整った顔だった。

 イリヤ自身もとっくに自覚していたように、彼はその辺には二人とはいない、誰もが羨み、欲しがる甘い美貌を持って生まれてきていた。そんな彼から見ても、あの人は必要十分に魅力的だった。美醜の面でも、人の気持ちを引きつけると言う意味でも。

 そこは、大公宮の奥庭だった。

 もともと、大公宮の建つ前にはこの場所には神殿の修道院があったところだ。

 白い壁の近くには真っ赤なブーゲンビリアの花垣が囲み、古びた噴水の周りは芝生で覆われている。噴水や池の翡翠色の水の中には青紫色や白色の睡蓮が花咲く。

 オレンジ色と紫色の極楽鳥花の周りには、青いハチドリが何羽も舞っている。

「かわいそうな子なんですよ。こんなふうに生まれたのはこいつのせいじゃないのにね。カスティージョ将軍は、こいつを帝国軍から追い出してしまったんです。さすがに何ヶ月も経って困ったのか、アキノのところへ現れたところを捕まえたんです」

 彼の横で言い募ったのは、あの人のたった一人の腹心。

 大公軍団団長、アルベルト・グスマン。

 思えば、あいつも。とてもとてもまともとは言えなかった。特に目立っていたのは、あいつのあの、金色の金属の円盤みたいな目だ。いつも、あの人だけを見ていた、あの目。

「そうなの? じゃあ、この子はアキノの里の?」

「はい。そうらしいですね。アキノは認めやしませんでしたけどね。まあ、そう思ってみれば顔や体の骨組みが似ていますよ」

 聞いているあの人は、そうかしら、と言うようにしばらく考えている風だった。 

「アルウィン様。こいつ、と言ったってもうすぐ二十歳ですがね。こいつ、大公軍団に入れていいでしょう? 仕込んで見たいんですよ。こんな甘い顔をしてますが、こいつは頭がいいんですよ。先へ先へと自分でどんどん考えが進められるんです。だから賭け事にも強くてね。いいでしょう? 私の後継者として」

 グスマンがそう言うと、あの人は悪い悪いあの顔に、満面の微笑みを浮かべたっけ。きっと、あの人の心の底で、あの時もう彼の生き様は決まっていたから。

「アルベルト、お前はそう言うが、もう後、何年もないんだよ。きっと、私は数年のうちには大公を辞めることになるだろうからねえ」

「そうでございましょうね。……だからこそでございます。大公軍団長である私の後釜も、それまでには育てておかねばなりません」

 ああ、そうか。

 グスマンは何があっても、この人から離れないつもりなんだ。

 この人は、この街の大公。

 そして、グスマンはその体の向こう半分。

 まだ、この時にはそんなことには気がついてはいなかった。気がついたのは、彼ら二人を何年も眺めて後の事だ。

(じゃあ、その時になったら、俺はどうなるの?)

 彼はその時、すぐにそう思った。俺はその時まで、大人に構いつけられないで生きてきた、放置されたまま体だけ大人になってしまった子供だったから。

 答えはすぐにあの人から与えられた。その言い方にはただの平民のイリヤには過分な気遣いさえ乗せられていた。

「この子をカイエンのものにするの? あの子は嫌うと思うけどなあ。きっと怖がると思うんだよ。……ごめんね、イリヤ君。君はちょっと過激なぐらい魅力的だからね。だから、あの子にはこういう子は……」

「合わないとお思いですか」

 グスマンはそう言うと、どう見てもいやらしいとしか言えない笑いをその恐ろしい顔に浮かべたっけ。一方で、彼は除け者にされたまま、見えない話を精一杯真面目そうに見えるであろう顔で、聞いていた。

「……確かに、カイエン様の最初の男には、これは不向きでしょう。カイエン様の初めてにはやはりあの一途なケダモノが向いていましょうね。ですが、第二第三の男にはこの者も悪くはありませんでしょう?」

 何も口にしないで、そこにありながら、彼は思った。

 カイエン様って誰だよ?

 答えはすぐに与えられた。

「カイエンの? お前も知っているだろうに。……アルベルト、あの子は私のたった一人の大事な子供なんだよ。古の星の運命を持って生まれてきた、たった一人の私の愛し子だよ。あの子は世界を手に入れてもいいくらいの運命に生まれてきた子なんだ。お前にとってもあの子は大切だろうに。そんなあの子に、このイリヤ君をお前の代わりに、残していくって言うの?」

「私はそうしようと思っております」

 グスマンは落ち着いていた。

「カイエン様は唯一です。殿下の他のお子様とは違います。だから、あえて選びたいのです。この……イリヤボルトを」

 彼は黙って聞いていた。

 カイエンというのが、この人の子供、それも一番大切な子供だということは理解できていた。

 古びた白い壁に囲まれた、静かな噴水の側で。

 真っ赤なブーゲンビリアと極楽鳥花の咲き乱れる中庭で。


 そこは。

 そこは、数年前。あのたった十二歳だったヴァイロンが、同じように彼の人生を支配する運命と呪いをアルウィンによってかけられた、その同じ場所だった。


「……わかったよ」

 彼の目の前で、あの人は諦めたようにうなずいた。

「確かに、カイエンは色々と足りないところの多い子だからねえ。……その足りないところを優しく補ってやれる子を選ばないといけないね」

 そう言うと、あの人は噴水の縁に座ったまま、イリヤの顔をじっとりとした目で見上げてきた。その目の色は灰色で、後に会った彼の娘のカイエンと同じ色だったが、光を反射する鋭さが全く違っていた。

 あの人の目は、カイエンのそれのようにきらきらと、時にはぎらぎらとその意志の強さを示すように輝くことは、なかった。

「イリヤボルト・ディアマンテス。古の預言者の名と、勇者の名を持つお前に、命じる。君はいつもカイエンの側にいて彼女を愛しみ守るものではない。君は夫としてカイエンの横に立つものでもない。……君は大公としてのカイエンを支えるものだよ。大公としてあの子が命じる全てに応える為に存在するのだ」

 彼は混乱した。

「た、い、こうの?」

 まだ会ったこともないこの人の子供の命じる全てに応える為に?

「そうだよ」

 それは、呪いの言葉、誘惑の言葉。

 甘い甘い声音の奥に隠された、彼を縛り、自由を奪う言葉。

 もう、彼のそばに立った、グスマンは微動だにしなかった。

「君もいつかはカイエンのものになる。あの子は色々と足りない子供だけれど、きっと君たちのようなものたちに愛される。君たちは君たちの世界を守る為にあの子を担ぎ上げるしかない日が来るから。だからあの子のそばにいるしかないんだ。そして、あの子は君たちの気持ちに答えようと必死になって生きる」

 もう、彼には何もわからなかった。

「今、君はこうして私の言葉を聞いているが、その時が来たら、私の言葉の縛りは切れる。そうしたら君は自由に生きるがいい。その時、カイエンが君のそばにいたら、君はどちらを選ぶかな? 魂の自由か、それとも?」

 あああ。

 彼は、イリヤボルト・ディアマンテスはその後のことは覚えていない。

 彼はそのまま、あの人の前から下がり、グスマンに連れられて、大公軍団の団長室で入隊の書類にサインさせられた。

 そして、数年間。

 彼は、イリヤは、グスマンの秘蔵っ子として職務につき、彼のやり方のすべてを教え込まれたのだ。

 大公アルウィンが偽りの死を演じて去り、大公軍団長アルベルト・グスマンも共に去っていった後、彼は大公軍団を引き継いだ。その頃には、まだ若いイリヤもグスマン同様に他の隊員たちに恐れられる、「大公軍団の恐怖の伊達男」になりおおせていたので、この人事に意を唱える者はいなかった。

 だが、たった十五の大公カイエンはどうにもならない大公だった。大公としては何も出来ない、ただの、十五の貴族の娘。

 彼女は挨拶に出たイリヤを、なんとも言えない目で見たものだ。きっと、まだ何も知らない乙女のカイエンには、彼は異様な美貌を以って周りを従わせる、異形の存在に見えたのだろう。年頃の少女として、本能的にそれを恐れたのかも知れなかった。

 カイエンはあまりイリヤには会いたがらず、不器用に大公の仕事の真似事をしては失敗する、という毎日を続けていた。すべての事情を知ってるはずのアキノは、なぜか沈黙を守り、カイエンにアルウィンの企みを知らせることもしなかった。

 後になって思えば、それはアキノの、「まだ何も知らないカイエンに、過剰な負担を一気にかけないため」の親心のようなものだったのだろうが。

 だから、それからの数年間、彼は自分のしたいように大公軍団を動かすことができた。だが、それはいつもなんだか虚しい気持ちを抱えたままで。持たされた権力を持て余しているだけの時間に思えた。


 だが。

 大公カイエン、十八の春。

 あのヴァイロンが、皇帝サウルの命令一つで、フィエロアルマの獣神将軍から彼女の男妾に落とされた。あの瞬間から。

 イリヤの人生は激しく動き始めた。

 カイエンはよちよちとした幼児の歩みのようではあったが、大公としての自分の努めを自覚し、一人の大公としてこの街を守る為に生き始めた。

 その時が、来たのだ。

 そのことは、瞬時にイリヤにはわかっていた。


 二年前のあの時。

 カマラを連れて、カイエンの庶出の弟だった、あの殺されたカルロスの身元を伝えに上がった時。

「イリヤ」

 カイエンはイリヤの顔を初めて、正面から見たっけ。

「おまえはグスマンの側か? それとも私の側か?」

 イリヤは躊躇の影さえ見せずに言ったものだ。

「いやですねえ」

 イリヤはわざわざ執務机の周りを回って、カイエンの前にひざまづいてやった。

「俺は大公殿下の軍団の軍団長ですよ」

 そう言って、カイエンの革靴に包まれた足先を手に取りさえした。

 カイエンは後ろにいるヴァイロンの気配を悟って、そっと、足を手前に引こうとした。

 イリヤは構わずに、満面の笑みで断言した。

「俺は殿下の父上なんかどうでもいいです。グスマンさんにはまあ、軍団長を譲ってもらった恩はありますが、それもどうでもいいですね。もう、俺は軍団長になっちゃったし。今、俺たちの俸給をくださっているのはあなた様ですから。あなた様、ハーマポスタール大公、カイエン様ですから!」

 この言葉には、カイエンもヴァイロンも戦慄したように見えた。

 この男の忠誠は買えるものだ。

 言い換えれば、本来は誇り高い一人の男が、小娘の革靴をおしいただくことが出来るほどに強固な忠誠を、買うことができるのだ。

 カイエンが大公である限り、そして傭兵ギルドに公平な対応をしている限り、自分は味方だと、イリヤははっきりと表明したのだから!

「おまえはグスマンの側か? それとも私の側か?」

 あの時。

 カイエンにそう、聞かれた時。

 イリヤは迷わなかった。

「俺は大公殿下の軍団の軍団長ですよ」

 あの時、そう、彼は断言できた。彼はアルウィンの生存を知っていたが、もう、アルウィンもグスマンも、カイエンの前に戻っては来ないと思っていたから。

 それは、まだアルウィンの呪いの中にあったままの返答だったが。

 あの時から。

 イリヤはカイエンに無断で事を決めたことはない。

 大公軍団の仕事の全て、重要事項の全てをカイエンに奏上し、その裁可を仰いで来た。

 そして、皇帝サウルの命令で設立した、帝都防衛部隊。その頂点に任ぜられた、元フィエロアルマ将軍のヴァイロンの存在もあって。

 大公軍団はカイエンの元に団結した。


 だが。

 彼方へと去ったはずの、「あの人」の影は消えなかった。


 あの人の遠謀でシイナドラドへと向かわされたカイエンは、深い傷をその体と心に負って戻った。

 イリヤよりも前に「あの人」に取り込まれていた、シイナドラドの皇子は彼女を性急に手に入れようとし、そして共々に傷ついた。カイエンは望まぬ子供を身籠もった上に失い、シイナドラドの皇子はその罪によって、彼の存在理由だった色違いの目のうち、血族の証であった灰色の片目を奪われた。

 この頃には、さすがにイリヤにはもう、あの人のしたいことがおぼろげに見えて来ていた。

 その、無邪気な悪意の中で幾人もが傷ついていくのも見て来た。

 許せない。

 そういう気持ちも、芽生えてはいた。

 だが、それでも彼はまだ完全に自由ではなかった。彼の手足にはまだ、あの人が絡め取って巻きつけた糸があって、あの人に繋がっていた。







 ハウヤ帝国第十八代皇帝サウルの崩御から数日後。皇帝の崩御はハウヤ帝国じゅうに公表され、国中は喪に服した。

 軍や軍団、神殿や市中の役所や治安維持部隊の場末の署まで、国旗を掲げた場所の旗は半旗となり、人々は祝い事を地味に行うか、自粛した。

 街を行き交う人々の服装までもが派手な色を避けた色味に染められ、繁華街や色街の絢爛たる光も影を潜めた。

 そんな中。

 皇帝サウルの身内の者が集って見送りの儀式である通夜を行い、彼との別れを済ませたのち。

 サウルの公式な葬式と、次代の皇帝の登極が、一ヶ月後の六月に定められたころ。

 まだ夜が明けて間もない時刻。

 大公宮の裏庭。

 一年に二回、春と秋に行われる大公軍団の隊員の募集と訓練。その一回目が行われている最中ではあったが、朝早く、まだ候補生たちの姿は見えない。

 大公宮の裏はハウヤ帝国建国よりも昔、この辺りがまだラ・カイザ王国だった頃に修道院があったところだそうで、その遺構が残っている。

 その遺された壁や建物の跡が途切れた、広大な芝生にところどころ石壁の名残が残る場所は昨年から、大公軍団の訓練場となっている。

 だから、あの、アルウィンが少年のヴァイロンをたぶらかした噴水のある庭部分はそのままだ。その部分は残したまま、広大な荒地のようになっていたところに昨年、突貫工事で作られたのが、新設の帝都防衛部隊の訓練施設なのである。 

 そこへ。

 大公宮の奥、後宮に近い、普段あまり使われることのない出入り口から、大柄な人影がゆっくりと裏庭へ現れる。

 五月の朝露に濡れる色とりどりの花々。白い石壁の取り囲む中庭は今、暁の藍色、そして紫から、昇りくる太陽の鈍い橙色に染め上げられている。

 生い茂る木々の囲む、これまた真っ白な大理石の埋め込まれた広場のような場所。その中央に見えるのは、古い古い時代の名残。だが、未だ壊れることなく水を噴き上げている噴水の周りには、オレンジと紫の極楽鳥花が咲き乱れている。

 気温はまだ低く、大公宮の中から出てきた人影も裾の長い毛織物のガウンを羽織っていた。

 そのガウンの色は、黒に近い灰色。

 ところどころに白い猫の毛がくっついているのがご愛嬌だ。

 背の高い、大柄な体躯はシイナドラド皇子で大公カイエンの夫となった、エルネストだった。

 エルネストは昼間には失った右目を隠している、あの黒い絹地の顔半分を隠す眼帯をしていない。その代わりに右側の顔を漆黒の長い前髪が覆っていた。

 彼がこの大公宮へ引っ越して来てから、まだ十日にもならない。引っ越し当日に、皇帝サウルが崩御したので、彼は落ち着く暇もなかった。

 それでも、大公宮の奥殿の中であれば行動は自由だったので、彼はどこまで行ったら引き止められるのかを知りたかったこともあって、あちこち歩き回った。だから、引っ越し早々にこの美しい裏庭にもたどり着いていたのだ。

 日が昇ってしばらくすれば、裏門に近い帝都防衛部隊の訓練施設が起きだすため、ここへも隊員の動く気配が届いてくることも、もう知っていた。

 エルネストがあの、子供のヴァイロンや、まだ十代だったイリヤがアルウィンに取り込まれた場所、裏庭の噴水へたどり着いた時。

 そこにはすでに先客がいた。

 真っ黒な大公軍団の制服を、きっちりと着込んだかなり背の高い男だ。

 襟元や袖口の細かく精緻な刺繍で飾られた意匠を見れば、それが大公のカイエンにかなり近しい身分にあることがわかる。

 外での職務が多いために、その顔は日に焼けて健康そうだが、元の顔色はかなり白いほうなのだろう。顔の形は男らしく、顎のあたりの線も直線的だ。だが、優しい曲線を描く眉の下の長い睫毛に縁取られた目や、まっすぐで細い鼻梁、そこから続くやや意地悪そうな唇まで、その顔の印象は「秀麗」という言葉がただ一つ似合うものだった。

 朝ぼらけの時刻の光の中では黒っぽいとしか見えないが、緩やかな曲線を描く髪は、やや長い前髪以外は短めに刈られている。

 エルネストはもう、この男が誰なのか知っていた。

 一見、秀麗そのものの顔が、一度相手を見て微笑めば、とんでもない破壊力を持っていることも。おそらくはかなり厄介な性格を持っていることも。

「おやおや」

 だが、エルネストの性格は、相手が厄介であればあるほどに闘争心を掻き立てられるという、これまた厄介なものだった。

 エルネストはずかずかと、真っ白な大理石の敷き詰められた、噴水の周りの円形の広場へ入っていく。

「毎日、お忙しい大公軍団長様にしては早起きだねえ」

 そこまで聞いて、初めて相手は噴水の縁に腰掛けた格好のまま、顔を上げた。

 もちろん、それは大公軍団団長のイリヤボルト・ディアマンテスの、もう意地悪そうな微笑みを用意した、甘ったるい顔だった。

「うるせえな。……この強姦魔が。不用意に俺の前をうろちょろしてると、逮捕、拘禁、拷問するぞ」

 そして、その口から出て来た言葉は、甘ったるい顔つきとはまったく反対の、喧嘩腰とでも言うべきもの。

 もちろん、これはエルネストによって傷つけられたカイエンのことを皮肉っているのだ。

 これにはさすがのエルネストも、一瞬だけ黙り込んでしまったほどだ。まさか、皇子である彼にいきなり、こんな口をきいてくるとは思ってもいなかったから。

 イリヤの方は、自分の言葉の効果に満足げに口元の笑いを深くした。

「今の殿下になってからもう、そうなってたけどさ。あの最高顧問の先生が来てから特に、軍団は弱い者に不埒な真似を働くヤツには厳しくなったんだよ。お陰様で女性隊員も順調に増えてるしな」

 マテオ・ソーサの言で大公軍団には女性隊員が募集されるようになり、そして、性的暴行事件を厳しく取り締まるようにもなっていた。

 そこまで言われて、やっとエルネストは気を取り直したらしい。

 エルネストはつかつかとイリヤの前まで歩いてくると、ぐっと手を伸ばして、イリヤの制服の襟元、精緻な刺繍の施された部分をつまみ上げた。

 そして、彼は、お返しとばかりに口元を歪め、いきなり爆弾を投げつけた。 

「前にガルダメスの館に来た時は、しけた地味な制服だったな。さすがにこの大仰な飾りのついた制服じゃあ来られなかったか?」

 彼の言ったことは、そこに見物人がいたら首をかしげるような言葉だった。大公軍団長のイリヤが、シイナドラドの大使であるガルダメス伯爵の元を訪れたことなど、もちろん、ないはずだから。イリヤもとぼけた声音でしっかりと否定した。

「なに言ってんの? 俺はガルダメスなんて奴に会ったことなんかねえよ。まあ、確かにシイナドラド大使公邸の警備は、親衛隊と半分こでやってるけどさ。俺は奴がハーマポスタールに赴任してくる前に打ち合わせで行ったきりよ」

 イリヤの顔には嘲るような笑い。言いながら、イリヤはエルネストの手を襟元から払いのけた。 

「その砂糖菓子みたいな甘ったるい面を、俺が見忘れると思うのか?」

 座っているイリヤを上から見下ろしながら、エルネストは挑戦的に続けた。

「お前は『盾』の代表として、二回、ガルダメスの公邸にいた俺の前に現れた。みすぼらしい下っ端の制服姿でな。この大公宮へ挨拶に来たヘルマンに、お前の来訪を耳打ちした侍従は殺されたって聞いてるぜ」

 この帝都ハーマポスタールに入り、シイナドラド大使公邸に入ったエルネストの元を訪れた、「盾」の男。彼は街の署長級の制服に身を包み、二度とも真っ暗な夜に現れたのだ。

「ズボラなことだな。そんな甘ったるい伊達男づらを見間違う奴なんていないだろう。ここへ引っ越して来た時はびっくりしたぜ。おんなじ顔が、偉そうな制服着て、大公軍団長様でござい、ってご挨拶だからな」

 実際、エルネストは驚いたのだ。

 「盾」の代表として現れた、あの一度見たら忘れられないような顔をした男が、大公宮の奥殿で「大公軍団長」として待ち構えていたのだから。

 ここまで言われても、イリヤの顔の馬鹿にしたような不敵な笑いは引っ込まなかった。

 それでも、事実を認めるのはやぶさかではなかったらしい。

 イリヤはいつもの、彼特有の軽い口調を崩すことはなかった。

「殿下がさあ、こんなに早くあんたをここに引き取るとは思わなかったんだよ。だってそうだろ? 自分を何度も犯した強姦魔を、わざわざ自分のそばに住まわせる女なんて、そうそう世間にはいないからなあ。ってか、普通はありえませんよ、皇子様」

 エルネストはあえて何も口を挟まずに黙って聞いていた。

 その事については、彼にも忸怩たる思いがあったから。

「……まあ、殿下はこの頃じゃあ、自分の気持ちは最後の最後で、周りの俺たちの気持ちを先に考えてくれるからな。まあ、苦労ってのは人間を偉くするよね。殿下の場合、ちょっと大変すぎたけど」

 イリヤはそう言うと、やっと笑いをその表情から引っ込めた。

「ここで二人きりで会えたのも、何かの運命だろうから、言っておくよ、皇子様。あんたはあの人の側から殿下の方に転んだんだろ? だから殿下は嫌でもあんたをここに住まわせる決心をしたんだろうからね」

 その頃には、朝日が地平線から顔を出し、あたりは明るい黎明の光の中にあった。

 エルネストの目にも、もう、黒ずんだ色でしかなかったイリヤの目が、緑がかった鉄色である事がはっきりと見て取れた。

「お前はどうするんだよ? あの人との連絡係の『盾』であるお前は? カイエンを裏切り続けて来たんじゃねえのか」

 エルネストが切り込むと、イリヤは甘さの失せた真面目な顔のまま、答えて来た。

「はっは。皇子様も言うねえ。……俺ももう、やっとの事でやめたんだよ。あの人に操られるのはな。あの人はとんでもなく魅力的で、俺はあの人の思惑で今、大公軍団長でござい、って威張っていられるんだけどさあ」

 エルネストに言われた表現をそのままお返ししながらも、イリヤは昏い目をエルネストの真っ黒な片目に向けた。

「今朝、ここに来たのは、思い出すためだったのよね。あの人にとっ捕まったのはここだったからさ。ここで、きっぱりさよならしとこうと思ったのよ」

 ベージュ色の光と、青い青い五月の晴天を見上げながら、イリヤは同じようにアルウィンに捕まり、そしてその手から逃れ出ようとしている男の顔を真剣な顔で見ていた。

「……ヘルマン、だったっけ? あんたの侍従に囁きかけた奴は、俺が始末したよ。あの宰相さんにはそれももう、承知の内だろうね」

 宰相サヴォナローラ。

 それもまた、アルウィンの手の中に長年、捕らわれていた存在だ。

「あの宰相さん、変なところで手が遅いんだよね。殿下には早く教えなきゃいけなかったのにさ。あの桔梗星団派の事は。あの人に続く、確かな道のりの道標なのに」

「だからお前がやったのか?」

 エルネストの背中側から登ってくる朝。星に変わって昼間を支配する、太陽の輝き。

「そうだよ」

 イリヤはそう言うと、エルネストに向かい合って立ち上がった。

 二人の背丈はそうして見ると、同じくらいだった。

(イリヤボルト・ディアマンテス。古の預言者の名と、勇者の名を持つお前に、命じる。君はいつもカイエンの側にいて彼女を愛しみ守るものではない。君は夫としてカイエンの横に立つものでもない。……君は大公としてのカイエンを支えるものだよ。大公としてあの子が命じる全てに応える為に存在するのだ)

 あの時、アルウィンが言った言葉が、イリヤの脳裏で一瞬だけ輝き、そして、消えた。

「皇子様、あんたは殿下の横に立つものだってよ。それでね、俺は殿下の命令する事、全部をこの手でし遂げなきゃあいけないんだってさ」

「それは、あの人が言っていた事だろう? お前はそれをそのまま実行するのか?」

 エルネストが囁くように聞くと、イリヤの顔にとぼけた微笑が戻って来た。

「しょうがないじゃないの。俺たちの立ち位置はあの人にもう、決められちゃってるんだもの。これから俺たちが出来るのは、あの人の決めてたことのその先でしょ」

 イリヤは昇りくる太陽に向かって、最後に言った。

「でもね。これだけは言えると思うのよ。明日は、俺たちのものなんだって。これだけは信じられるのよね。俺たちが殿下を囲んで一緒にいれば、襲いかかってくるあの人の悪事から、俺たちの周りの人たちを守れるんじゃないかって。これだけはね」


 エルネストは、イリヤが去って行った後も、そこ、古の噴水の縁に座り込んでいた。

 心配して探しに来た、侍従のヘルマンが彼を見つけるまで。 


   


 



 そして。

「サヴォナローラ、ちょっと話がある」

 皇帝崩御の発表の後、数日後。

 カイエンは、その葬儀の終わるまでの日程の調整や儀式の用意、オドザヤの即位へ向けたあれこれに忙殺されているであろう、宰相サヴォナローラの元を訪れた。

 彼女はあえていつものように、事前に訪いを入れることもなく、あえて多忙極まるサヴォナローラの執務室へ殴り込みをかけた。

 サヴォナローラはオドザヤの女帝としての即位に反対するであろう勢力を、皇子フロレンティーノをオドザヤの「推定相続人」とすることでなだめようと画策しているようだった。

 忙しいと門前払いを食うかと思っていたが、サヴォナローラはカイエンの訪れに直ちに対応して見せた。

「そろそろ、いらっしゃると思っておりました」

 宰相府の彼の執務机の前。

 ここで、何度重要な話を彼としたことだろう。

 カイエンは、いつものようにそこに用意された椅子に座りながら、言った。

「そうか。皇帝陛下の崩御で訪ねてくるのが遅れたが、これもいつまでも待てる話ではないからな」

 彼女には、彼を問いたださねければならない理由があった。

「桔梗星団派のことでございましょう」

 サヴォナローラもそれはもう、覚悟していたらしかった。

「話が早くて助かる」

 カイエンは、黒檀の杖の銀の握りの上に顎を乗せて、机の向こう側のサヴォナローラを見上げた。

「お前のことだけじゃないぞ。……伯母様やザラ大将軍、あの世代の方々の隠していることも教えてもらおうか。お前はあの方達の秘密にも通じてるのだろう?」

 サウルの死後、直ちに暴露された、あの「醜聞」。

 あれもまた、彼らの秘密にしている過去の遺産なのだから。

「そうですね」

 サヴォナローラは気の抜けたような顔でうなずいた。

「このことはサウル皇帝陛下も最期に私に言い残されて逝かれました。ご自分たちでは言えないことだからと」

 カイエンはぎゅっと目をつぶった。

 聞かなければならない。

 嫌でも、自分は彼らのいなくなった後も、この世界に残るのだから。

 この世界を守らなければならないのだから。

「そうか。それなら、教えてくれ」

 カイエンは灰色の目をまっすぐに、サヴォナローラの真っ青な目に合わせた。

「今こそ。今こそだ、サヴォナローラ。私はもうそれを聞く準備が出来た。だから教えてくれ」

 準備。

 それは、彼女にとって過酷なものでもあった。

 だが、カイエンもまた、今やリリたち次の世代へ伝えて行かなければならない立場となったのだ。

「私はもう、決して、逃げない。逃げられもしない。だから」

 カイエンの前で、サヴォナローラはやっと顔をあげた。

「わかりました」

 そうして彼の口から紡がれた物語。

 それは、悲しくも愛しい、先代たちの時代の残り香だった。

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