運命の日 2
カイエンはまた、そこにいた。
あの夢の中。もう、夢の中で何回か訪れた場所に。
深緑と青黒い何かと、そして暗い灰色の渦が混ざり、内側で何かが蠢いているような、ドロドロした水のよどむ沼。
そんな沼の縁に、カイエンはまたしても一人で立っていた。
沼には、もう一つの睡蓮の花も咲いてはいなかった。
静寂。
もう、誰もここにはいないのか。
カイエンが諦めかけた頃。
沼の水面に、渦が生まれた。
二つの渦がお互いに巻あいながら、水面に波紋を広げていく。
カイエンが見ていると、水面に白っぽい顔が二つ、浮かんできた。
嗚呼。
まだ、あの子たちはここにいたのだ。
カイエンがそう、確信した時。
あの、カイエンの最初の肖像画にそっくりな二人の子供が沼の中から上がってきた。
だが、どうしたことか。
一人はぐったりとして一人では立つことも出来ないようだ。元気な方が、肩を貸し、引きずるようにしている。
「カイエン。カイエン」
もう一人を支えている方が、ふう、と顔を上げた。
その時。
カイエンは初めて気がついた。二人ともがカイエンと同じ紫がかった髪の色をしていることに。そして、元気な方の子供の目が琥珀色であることに。……それは母のアイーシャやオドザヤの目と同じ色だった。
琥珀色の目の子供が、もう一人を抱え上げるようにして、沼のほとりに座り込んだ。
「カイエン。この子はもう、自分の足じゃ立てなくなっちゃったよ」
言いながら、琥珀色の目の方がもう一方の顎に手をかけて、持ち上げる。それでもそっちの子供も目だけは開いていた。死んだ魚のような淀んだ目だったけれど。
その目の色は、両眼ともにカイエンとまったく同じ灰色だった。
だから、その子は子供の頃のカイエンと全く、本当に瓜二つだった。
「ごめんね。この子はこのままじゃ死んじゃう」
死ぬのか。
「だから、あたしがこの子を助ける」
「えっ」
カイエンが驚くと、琥珀色の目の子供は言った。
「あたしの半分を、この子と換える。この子が来てからずっと一緒だし、今はまだそんなに違わないから、きっとそれができる」
どうやって。
カイエンがそう思った途端に、子供の琥珀色の目がぎらぎらと光った。
「この子の目玉を一つもらう。そうしたら、半分こできる」
カイエンは笑い出しそうになった。
やっぱりこれは夢だ。馬鹿馬鹿しすぎる。目玉一つで人間二人が半分こ出来るはずがない。
「あ。馬鹿にしてるね」
夢の子供は怒ったように目を尖らせた。
「そうだよ。ここは夢。カイエンやあたしや、この子たちの夢の中。でも、カイエンとあたしは繋がっているから、カイエンが信じてくれればきっと、出来るよ」
子供の顔は真剣だった。
「カイエン。この子を助けたい?」
カイエンにはわからなかった。そもそも、この二人の目の色以外はそっくりな子供たちが誰なのかもわかっていなかった。
「その子は誰だ? お前は誰だ?」
カイエンが聞くと、琥珀色の目の子供は悲しそうに顔を歪めた。
「……言えない。あたしはここではまだ言えないんだよ。でも、わかって。この子もあたしも、カイエンと会うためにここまで来たんだよ」
カイエンと会うために。
「でも、この子はこのままじゃ、この場所に沈んじゃう」
それは嫌だ。
わけもなく、カイエンはそう思った。
自分と本当にそっくりなこの死にそうな子供をここに、こんな寂しい沼のほとりに一人でおいては行きたくない。
「信じて」
琥珀色の目の懇願に、カイエンは思わずうなずいていた。
「信じる。信じるよ!」
「ありがとう」
琥珀色の目の子供は微笑むと、何の躊躇もなく、己の美しい右目をその小さな細い指でくり抜いた。
カイエンは声も出なかった。
その瞬間。
琥珀色の目の子供の腕の中でぐったりしていた、カイエンそっくりな子供の姿が崩れるようにして消えた。
「ああ!」
崩れていく砂のような体に、カイエンが手を差し伸べた時には、もうそこには何もなくなっていた。
そして。
一人残った子供が、一人でカイエンを見上げた。
その目は右目が灰色で、左目が琥珀色に変わっていた。
「もう、カイエンは悲しまなくてもいいよ」
あっ。
カイエンは思い出した。
(この子はあたしが助けるから)
前の夢の中の、力強い声を。
(あたしなら、できるから)
自信に溢れた声。最初に会った時のあの夢で、この子は言ったんだっけ。
(だから、カイエンは……)
か……、く……ても……よ。
あれは、あの時の言葉は。
思い出して、一歩、子供の方へと踏み出したカイエンの前で、彼女はにっと微笑んだ。
「じゃあ、早く迎えに来てね」
「待って!」
叫ぶカイエンの体がすっと上方へ引っ張られていく。
ああ。引き戻される。
カイエンは強い力で現実世界へと引き戻される自分を感じた。
「あたし、リリ」
最後に聞いたと思ったのは、その子の名前らしきものだった。
「あたし、リリだよ。覚えていて! カイエン」
リリか。
カイエンは舌の上でその音を転がした。
「カイエン様!」
カイエンは、懐かしい声に引っ張られて現実世界に覚醒した。
目覚めたカイエンの前には、思っていた通りの顔があった。
ヴァイロンだ。
ああ、大公宮へ戻ってきていたのだった。だから、彼が悪夢から引き戻してくれたのだ。
「うん」
一睡もしていないのだろう、真っ赤に充血したヴァイロンの目を見てうなずく。
カイエンは大公宮の自分の寝室の寝台に寝ていた。
しばらく思い出せなかったが、自分がここへ帰ってきてすぐ、サグラチカとヴァイロンの腕の中へ倒れたことと、いきなり襲ってきた激しい腹痛のことを思い出した。
今はもう、腹は痛まなかった。
じゃあ、終わったんだ。
居なくなっちゃったんだな。
そう、思って周りを見れば。
クリスタレラからついてきてくれていたクリストラ公爵の侍医と、大公宮の奥医師が二人並んで寝室に入ってくるところだった。カイエンの意識が戻ったからだろう。
「うん。わかった」
カイエンはもの言いたげな医師たちを制して、先に言った。
聞きたくなかったのだ。
だって、夢の中であの子は消えてしまったんだから。現実からも消えてしまったのだろう。
「もう、大丈夫だ。……たぶん」
ヴァイロンの目をまっすぐに見て、そう言うと、カイエンの手をそっと握っていた男の顔がくしゃっと歪んだ。
「丸一日以上、昏睡状態であられたんですよ」
「そうか」
心配させたな。
カイエンはヴェイロンには言いたいことがたくさんあったのだが、今はまだ何も言えそうになかった。
でもいい。
だって、握られている手が単純に本当にただ、暖かかったから。だから、彼女は心底、安心できたから。
そのまま、二人の医者から、カイエンはとりあえず一週間ほどの安静を言い渡された。
体が弱っているので、回復を見て一ヶ月ほどをかけて普通の生活に戻っていくようにと指示された。
カイエンの看病には、乳母のサグラチカと執事のアキノ、それに女中頭のルーサが当たった。帝都防衛部隊長の仕事があるヴァイロンは、夜だけそばにいて看病することになった。彼は不満そうだったが、大公不在で四ヶ月がすぎた大公軍団には彼を休ませておく余裕はなかったのだ。
そんな中、ちょうど帰国して一週間ほどたった日に、突然、オドザヤが大公宮へやってきた。
「お姉様が、ハーマポスタールへお戻りになってすぐに倒れられたと聞いて……」
サグラチカに案内されて、カイエンの寝室に入ってきたオドザヤは、地味な、銀色に近い青のきちっとしたドレスを着ていた。
オドザヤの後ろには、女官長のコンスタンサがついてきていた。
カイエンはルーサに助けられて、いくつもの枕を背中に当てて半身を起こしていた。医師も、短い時間ならと面会を許可してくれたのだ。
「ああ」
だが、オドザヤはカイエンの顔を見るなり、顔色をなくしてしまった。カイエンのやつれぶりに驚いてしまったらしい。さすがにカイエンが倒れた本当の理由は知らされていないらしかった。
「皇后陛下のことは、聞いておりますよ」
顔をこわばらせてしまったオドザヤへカイエンの方から話を向けると、オドザヤは寝台の横に用意された椅子に座るなり、美しい琥珀色の目を伏せて涙ぐんでしまった。
「お姉様、すみません」
オドザヤも皇太女になってから、急激に大人びた。彼女はカイエンの言おうとしておることにすぐに気が回ったらしい。
「……大急ぎで帰って来てくださったと聞いております。ですが、お母様のご出産は予定よりも十日以上も遅れた上に、そのう……」
これも、カイエンはすでに聞かされていたので、苦笑してうなずくしかなかった。
「でも、遅れたおかげで、皇女殿下と私は同じ誕生日になれましたよ」
オドザヤもそれには小さく微笑んだ。彼女ももちろん、気がついていたのだろう。
「……それなのに、お母様は生まれたのが皇女で、しかも体に蟲があるらしいと聞かされて、逆上のあまり錯乱してしまわれて」
「はあ……」
カイエンはつい昨日、聞かされたばかりだった。
アイーシャが予定日を大幅にすぎて産んだのが皇女で、しかもカイエンと同じく蟲を体内に持って生まれてきたということ。そして、それを知らされたアイーシャが錯乱状態に陥り、未だに正気に帰らないということを。
「でも、皇女殿下の蟲は私のと違って、ほんの小さいものだと聞いておりますよ」
カイエンが言うと、オドザヤはため息をついた。
「そうなんですの。医師は本当に小さいもので、体の小さい赤子だから目立つだけだ、場所も足や他の臓器に影響するところではないし、これくらいなら健康にさしたる問題はないだろうと申しておりますのに……」
カイエンは思わず、オドザヤの後ろに立ったコンスタンサの顔を見た。コンスタンサはゆっくりとうなずいてみせた。
「そうですか。それはよかった。それでも、皇后陛下は逆上されたのですね」
「ええ。前にもお話ししましたけれど、長年のお酒のせいで少しのことで感情が爆発してしまうようになっていらっしゃいましたから」
オドザヤの言葉に、カイエンは思い出していた。
オドザヤが自分たち二人が姉妹だと知って、この大公宮へやってきた日のことを。その時、カイエンは初めてアイーシャが酒に耽溺しており、そのせいで感情の起伏が激しくなり、時に言動もおかしくなるということを聞いていたのだ。
あれは数ヶ月前のことなのに、もう遠い日のように感じられた。
カイエンは、話題を変えることにした。
「皇子の名前はもう伺っています。マグダレーナ様のたっての願いで、ベアトリア風の名前になったとか」
カイエンがそう聞くと、オドザヤもカイエンの意図を汲んで表情を改めた。
十一月に先に生まれたマグダレーナの皇子も、オドザヤには腹違いの弟だし、カイエンには従兄弟に当たるのだ。
「はい。……フロレンティーノ・レジェス・プリモ・デ・ハウヤテラ、と名付けられましたの」
フロレンティーノという名は、ベアトリアの首都、フロレンシアを想起させる。カイエンはマグダレーナをよく知っているわけではないが、なるほど、という感じがした。
ベアトリアの王宮でチェチーリオ王や王太子のフェリクスが言っていた通りなら、マグダレーナは祖国に大きく心を残しているのだろうから。
「私の誕生日と同じ日にお生まれになった皇女の方は?」
カイエンは何気なく聞いたのだが、オドザヤはわずかに顔を曇らせた。
「それですが……」
「どうかしましたか」
「こちらも、錯乱される前にお母様がお父様にお願いしていた名前があったそうですの」
「はあ」
「お母様は、お腹が大きくなられてから、お一人でお腹の子に名前をお付けになって、ずっとその名で呼んでいらっしゃいましたのよ」
カイエンはなんだか痛ましい気持ちがした。
自分と同じく蟲を体内に持った子を再び産むことになり、また、女児を三度続けて産んだことで錯乱したまま元に戻らないという、アイーシャ。
おそらくは今度こそは男児を、と念じて妊娠中、ずっと呼びかけていたのだろう。
カイエンは不思議な心持ちだった。こんな風に妊娠中のアイーシャの気持ちを推し量るなど、ほんのちょっと前までの自分なら出来っこないことだったからだ。
でも、今はなんだかわかる。自分は名前をつけることも出来なかったけれど。
「それで、その名前が入れられましたの。……本当は男の子の名前じゃないかと思うんですけれど。お父様もしょうがない、聞いてやらないとお母様がさすがにかわいそうだから、っておっしゃって」
「そう。で、どんなお名前に?」
「リリエンスール・エスペランサ・マキシマ・デ・ハウヤテラ、となりましたの」
「えっ!」
それを聞いた瞬間、カイエンは自分の耳を疑った。
(あたし、リリ。あたし、リリだよ。覚えていて! カイエン)
あの夢で。
あの、琥珀色と灰色の色違いの目をした、子供の頃のカイエンにそっくりな子供が、最後に言った言葉。
リリ。
リリエンスール。
これは偶然なのだろうか。
「お姉様?」
目を見開いて、口がきけなくなったカイエンを、オドザヤが不思議そうな顔で見た。
「ああ。お姉様もご存知なのね。……リリエンスールって、変わった名前だと思ったんですけれど、大昔の民話に出てくる妖精王の名前なんですって? 私、お母様がよくそんなことをご存知だったものだと思いましたわ」
その通りだ。
子供の頃から本の虫だったカイエンは、もちろん知っていた。
リリエンスールはこのハウヤ帝国ができる前、まだラ・カイザ王国があった頃のこの辺りの土地の民話の主人公で、百合の花咲き乱れる谷に住む妖精王の名前である。因みに、もちろん妖精王は男だ。
「そうですよ。……皇后陛下はそんなにまでして皇子のご誕生を願っていたんですね」
それを聞くと、オドザヤも暗い顔になった。
「ええ。そうですわね。あの、言いにくいんですけれど、お会いになればすぐに分かることなので言いますわね。……あの、フロレンティーノはお父様やお姉様にはあまり似ていません。髪の色も目の色もマグダレーナ様に似ているようです。でも、リリエンスールは違いますの」
カイエンはびくりと肩を震わせた。その様子を見て、オドザヤが慌てた。
「お姉様、ご気分が?」
「いや、大丈夫。なんともない」
カイエンが言うと、オドザヤはちょっと迷ってから続けた。
「リリエンスールは、お父様やお姉様によく似ていますの。これは大切なことなんですけれど、髪の色がお姉様と同じ紫がかった色で……」
オドザヤもカイエンの留守中にサヴォナローラに聞かされて、カイエンの髪や目の色がシイナドラドの星教皇の条件であることを知っている。
「それでね。目の色がちょっと変わってましたの。これだけはお父様とお母様、両方に似ているんですけれども……ちょっと珍しくて」
カイエンの心臓が跳ね上がった。
まさか。
「右目が灰色で、左目が琥珀色なんです。なんだか猫みたいなの」
あの子だ!
カイエンはまざまざと思い出していた。
あの夢の中で、あの子は確かに言った。
(この子はあたしが助けるから。あたしなら出来るから。だから、カイエンは悲しまなくてもいいよ)
ではあの、もう一人の灰色の目の子は確かに数日前にカイエンが喪った、名前もない子供なのだろうか。
(助けて)
(ここに、置いていかないで)
(ここは、いや)
(ここにいたくない)
(ここから連れ出して)
ここから、ここから、ここから。
あの、ただただ泣いているだけだった方の子供。
計算するまでもなく、最初にあの沼の夢を見たとき、すでにあの子はカイエンの中にいたに違いない子供だっのだ。
(じゃあ、早く迎えに来てね)
二人の子供が一つになったリリは、そう言った。
気がついた途端、カイエンの頭に、稲妻のように一つの真実と未来への展望ヴィシオンが降ってきた。
カイエンは心の底で、その時、運命の神の存在を信じた。
「そうだった、の、か」
「お姉様?」
不思議そうにカイエンを見て、手を握ってきたオドザヤの手をもう一方の手で抑えて、カイエンは言った。
「行かなくては」
「えっ?」
驚いて見ているオドザヤの前で、カイエンは布団をはぐり、もたれかかっていた枕から起き上がった。
そばに控えていたサグラチカとコンスタンサが驚いて駆け寄ってくる。
「カイエン様!」
「お姉様!」
カイエンはもう、片足を寝台から絨毯の敷かれた床に下ろしていた。
「カイエン様、いけません! まだお起きになってはいけません」
必死の力で押しとどめようとするサグラチカへ、カイエンは叫ぶような声で命じた。
「サグラチカ、大公軍団のブランカと女騎士のシェスタを呼べ。二人とも、小さな子の母親だ。だから今の私の状態もわかるだろう。ブランカは去年、私の供をして皇宮へ上がったこともある。勤務中だろうが、至急呼び出してくれ。……皇宮へ参る!」
「ええっ」
驚くサグラチカへ、カイエンは激しい声で言った。
「心配ならそなたも付いてくればいい。私はブランカとシェスタに交代で背負って行ってもらう。さすがに歩くのはまだ無理だからな。……とにかく、今すぐにでも皇宮へ行かねばならんのだ!」
「お姉様……」
「あなたは一緒に皇宮へ行ってください」
これは決定事項だと言うカイエンの凄みに、オドザヤはうなずくしかなかった。
サグラチカの方はカイエンの言い方の激しさで、何かを悟ったらしい。彼女はすぐざま、寝室を出て女中頭のルーサにブランカとシェスタを呼びに行かせた。
「カイエン様。なんだかわかりませんが、お国の大事だと、このサグラチカも理解致しました。お支度をいたしましょう」
忙しい一日だった。
カイエンが先ぶれを出したのち、皇宮へ上がったのは、もう夕方になった時刻だった。
カイエンは皇帝とサヴォナローラが待っているという部屋、あの二階にある皇帝の私的な謁見部屋に入る時、ブランカの背中におぶさっていた。
大公宮を出て馬車に乗り、皇宮で降りてここまで来る間、カイエンはブランカとシェスタに代わる代わる背負われ、あるいは抱えられて来たのだった。
その間じゅう、オドザヤは先ぶれのようになってカイエンが一刻も早く皇帝たちの待つ部屋に行けるように取り計らい、サグラチカはカイエンに声をかけ続けた。
オドザヤはここで自分の宮へ下がることになり、乳母のサグラチカとシェスタは謁見部屋の外に控えることになった。
先ぶれを出してあったので、皇帝サウルは宰相のサヴォナローラとともに、あの略式の謁見の部屋で待っていた。
皇帝サウルは何も言わなかったが、サヴォナローラはカイエンが急に皇宮へ来たことに何か思うところがあったらしい。
カイエンがブランカの背中から降り、よたよたと部屋に入っていくと、正面に座っていた皇帝サウルのみならず、サヴォナローラもはっとして立ち上がった。
ブランカは壁際に控えた。
カイエンがソファに座ってすぐに、サヴォナローラが話しかけてきた。
「大公殿下……」
サヴォナローラはとっくにパコやガラから、カイエンがシイナドラドからの帰途で高熱を発したこと、帰国と同時に体調を崩して寝込んでいることは聞いてたが、ここまでやつれ果てているとは想像していなかったらしい。それは皇帝サウルも同じだったのだろう。
二人の目線は、カイエンの左頬の傷跡にも当てられた。それは未だ赤黒く生々しい傷として残っていた。
「カイエン、そなた……」
カイエンは皇帝のあっけにとられたような顔を初めて見た。
「そのように動き回って大事ないのか?」
カイエンは心の中で笑ってしまった。
「火急の事態ゆえ、押して参上仕りました。お見苦しい点はご容赦を」
傷の未だ生々しい頬に微笑みを浮かべて言ってやると、先に宰相のサヴォナローラの方が正気に返った。
「大公殿下、急なお越しで驚きました。帰国と同時に倒れられたと聞かされておりましたので。……パコは、フランシスコ・ギジェンは、使い物にならないお供でしたね」
カイエンに驚かされたおのれを恥じるように、喉の痰を切るようにしてから話し始める。
「あの者は、大公殿下の御不例の理由を知っているのに、言えないと言ったのですよ。……シイナドラドでの交渉でなんの役にも立たなかったばかりか、私に隠し事をするなど、本当に使えない者をお供にしてしまったと、このサヴォナローラ、忸怩たる思いです」
「……そうか。パコは言わなかったのか。その様子だと、ガラも言わなかったようだな」
サヴォナローラは苦々しい顔でうなずいた。
「ええ。パコもガラも、すっかり大公殿下に骨抜きにされて。本当に役立たずの者どもです」
「そうか。じゃあ、私が自分で話そう」
カイエンは、パコとガラの心遣いを、心の底から感謝し、ありがたく思った。
彼らはまだ、ちゃんとした人間だ。ハウヤ帝国という大国の中枢に近い人間でありながら、愚かな、しかし暖かい心遣いのできる人間らしさを失っていないのだと知ったから。
それでも、サヴォナローラの言いようは癇に障った。
「まずは、皇帝陛下。フロレンティーノ皇子と、リリエンスール皇女のご誕生、おめでとうございます」
カイエンは忘れずに最初に皇帝への挨拶をした。サヴォナローラが絡んできたので、それもまだ言えていなかったのだ。
「そんなめでたい時にふさわしくない話だが。宰相は聞きたいようだから、話そう。気持ちのいい話ではない。皇帝陛下にはご不快でしょうが、お許しください」
礼をするために俯いたまま、皇帝サウルの首肯するのを気配で確認してから、カイエンは話し始めた。
「……私の体調のことだったな。なに、実を言えば病気ではないのだ。詳しくは後で報告するが、……私はシイナドラドで妊娠させられた。まあ、公平に言えば、これはあっちも意図してのことではないだろう。相手は例の第二皇子のエルネストだ。それがわかったのはもう、クリスタレラの大城に入ってからだった」
カイエンはこんな情けなくも悲惨なことをよくも平静を装って言えるものだ、と自分でも思ったが、もう自分自身は慄かなかった。それ以上に大切な事のためにここへやって来たからだろう。
カイエンが低い声で言うと、さすがのサヴォナローラの表情が固まった。瞬時には返答も出来ないようだ。
演技ならすごい演技だが、今回はそうではないだろう。
カイエンはあくまで皇帝ではなくサヴォナローラに話している、という態の口調で続けた。
「妊娠と関係があるのかどうかは分からないが、シイナドラドを出てすぐに大熱を出してな。それからも微熱が続いて、とうとうクリストラ公爵の大城の侍医に妊娠の可能性を示唆されたと言うわけだ。……だが、ご存知の通り、私の体の中には蟲という寄生器官がある。だから、いずれ流産すると言われた。それが、帰国と同時に現実になっただけだ」
カイエンが一気に言い切ると、そこを重い沈黙が支配した。
男性である皇帝サウルにも、サヴォナローラにも、女の体の痛みは本当には分からないだろう。だが、二人とも頭のいい男だ。カイエンの言ったことを理解してしばらくして、カイエンが今、ここにいることの異常さに思いが至ったようだった。
「……大公殿下。まさか、そんなお体でここへ? どうして?」
先に我に返ったのはサヴォナローラの方だった。
「必要だと思ったからな」
カイエンが答えると、今度は皇帝サウルがさすがに顔色を変えて聞いてきた。
「……オドザヤが大公宮で話したのだな。……アイーシャのことを」
「はい」
カイエンは皇帝の顔を見ないままにうなずいた。
「私、本当に今日ばかりはあまり長い間はこうして話してはいられないと思いますので、手短かに話します。……皇后陛下のご錯乱のことは伺いました。そこで、ご提案があるのです」
皇帝サウルも、もう落ち着いていた。
「なんだ」
「リリエンスール皇女殿下のことでございます。現在、オドザヤ皇女が皇太女に立たれております。オドザヤ皇太女の後に、いずれ、フロレンティーノ皇子が即位されるとしても、ここ、ハーマポスタールの次期大公になるのはお二人双方の妹にあたる、リリエンスール皇女となります」
「ふむ。そうだな」
皇帝サウルは、うなずきながらもやや意表をつかれたような顔をした。
ここ、ハウヤ帝国の首都、ハーマポスタール大公は世襲ではなく、時の皇帝の弟か妹がなると定められている。カイエンが今、大公なのはカイエンの出産後に当時の大公妃だったアイーシャが皇后に冊立されたために庶子になりかねなかったカイエンを救うため、祖父である当時の皇帝の末子の皇女とされたからである。
だが、カイエンを実際に養育したのは実父の前大公アルウィンであり、育ったのは大公宮の中だった。
「錯乱なさった皇后陛下の元での、皇女殿下のご養育はいかがかと考えます。……いずれ大公に立たれるご身分であることを考えましても、ここは私にリリエンスール皇女のご養育を任せていただけませんでしょうか」
カイエンが一気に言い切ると、サヴォナローラは少し考える顔になり、皇帝サウルは顎に手を当てて考え込んだ。
「……そなたの喪った子の代わりにか?」
残酷で言いにくいことを、すぐに言ってのけた皇帝を、カイエンは眩しいものを見るように、目を細めて見た。
そうだ。この皇帝の言葉は予想できていた。だから、こんな言葉に揺るぐことはない。
「そう、お考えになられても結構です。私がこのご提案をさせていただいたのは、それだけの理由ではありませんが」
「では、どのような理由だ? そなたの立場と似ていると思うからか?」
「……笑われても仕方がありませんが、リリエンスール皇女殿下は私と母を同じくする姉妹であり従姉妹でもございます。それに、これはただの偶然でしょうけれども、誕生日も同じです。なにやら因縁を感じてなりません。それに、先ほど申しました通り母であられる皇后陛下のことや、皇女殿下の将来のことを鑑みると、それがいいのではないかと愚考しただけでございます」
皇帝サウルはすっと目を閉じた。
「因縁か」
カイエンは答えた。あの夢のことはさすがに話せない。
「はい」
しばらくの間、皇帝サウルは黙っていた。
「……終焉を連れ来たる皇女が生まれた時、帝国は滅びの時を迎えるであろう、か」
しばらくしてその口を出てきた言葉は、カイエンには聞き取れないほどに小さかった。
だが、サヴォナローラの方は聞こえなくても、皇帝の言ったことがわかったらしい。
「皇帝陛下……」
何か言おうとしたサヴォナローラを、皇帝サウルは制した。
「いいだろう」
「大公カイエン、おのれの腕で次期大公を養育して見せよ。確かに帝国の将来を考えれば、次の大公にはリリエンスールを立てるしかないことは明白な事実である。それには幼い頃から大公宮の仕事を肌で感じながら育った方が良いだろう。……それに表向きは皇女であったそなたを、当時の大公であるアルウィンが育てたという前例もあることだからな」
カイエンは、ほっと息をついた。うまくいったらしい。
「リリエンスール皇女のこと、お許しいただけて、ありがとうございます」
カイエンは深々と皇帝サウルに頭を下げた。
それから、きっと顔をあげて言った。
もう、体力の限界が近づいていたが、これから言うことだけは今日、言わねばならないことだった。
「シイナドラドでのことは後ほど、詳しくご報告させていただきます。しかし、本日、これだけはご奏上致したきことがございます」
「なんだ」
気だるげに聞く皇帝へ、カイエンは爆弾を投げつけた。
「ハーマポスタール大公カイエンはここに告発致します」
カイエンは、なぜか、サヴォナローラの顔だけをしっかりと見ながら、はっきりと言った。
「……前ハーマポスタール大公、アルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタールこそ、シイナドラド、そして螺旋帝国を影で動かそうとしている中心人物である疑いがあると。そして、今後は、今度のことでシイナドラドの星教皇にさせられた私と同じ条件を満たす、リリエンスール皇女にも手を伸ばしてくる可能性があるということを!」
「根拠がございます」
カイエンは続けた。
「シイナドラドの第二皇子エルネストは私どもにはっきりと言いました。かの者は昔、あの桔梗館の集会に出ていたことがあると。つまりは鎖国中のシイナドラドから第二皇子がこのハウヤ帝国へ、前大公の手引きで隠密裏にやって来ていたと言うことです。また、前ハーマポスタール大公は五年前に自らの死を偽って行方をくらましました。以前、明らかになりましたシイナドラドと螺旋帝国の関係を鑑みますと、この五年間に螺旋帝国の革命に関わっていた可能性さえ出てまいります。……今度のシイナドラドでの私の星教皇即位の企みでも、かの者らしき人物を目撃しました。また、瑣末なことではありますが、シイナドラド第二皇子エルネストが私に対して異常な興味を抱いていた裏にも、かの者の示唆がありそうです」
ここまで話して、カイエンは、一度、長い話を区切って息をついた。
「ですから、私は前ハーマポスタール大公、アルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタールをハウヤ帝国への反逆の罪で告発するものであります」
今日、カイエンはもはや、アルウィンを父とは呼ばなかった。
それにもちろん、皇帝もサヴォナローラも気がついていたであろう。
その瞬間。
やせ衰えた姿でおのれの実の父親を告発するカイエンの前で、皇帝サウルも宰相サヴォナローラもただただ、言葉もなくそこにいるしかなかった。
カイエンはアイーシャには会わなかった。
皇后宮から、オドザヤに連れられて出てきたリリエンスール皇女の乳母らしい女から、カイエンはまだ首も据わらぬ、生後一週間ほどの赤子をそっと受け取った。
子供を故郷において奉公している、ブランカとシェスタの二人が、危なっかしいカイエンの腕を支える。
「あばぁ」
リリはカイエンに抱かれると、満足そうな顔をしたように見えた。
確かにその目の色は左右色違いのようだ。髪の色もカイエンと同じ、黒っぽい紫だ。
「お前がリリか」
カイエンは多分、自分が赤子だった時と同じような顔をしているのだろう妹に、現実世界で初めての声をかけた。
この子は妹で従姉妹だが、自分と誕生日も同じ子供だ。
勝手な思い込みでしかないが、あの夢の中でのこともあり、カイエンには誕生日もおのれと同じなこの妹が、自分の子以上の「運命の子」のように思えていた。
「リリ。もう離れないよ。ずっと、ずっと一緒にいよう。いや、いてくれよ」
(そうだよ、カイエン。見つけて。あたしを見つけて。そして、ずっとずっとそばにいて)
あの、夢の中の子供がこの子なのだとしてら、自分はあの子にやっと返事が出来たことになる。
カイエンはリリの暖かくて柔らかい、赤ん坊のほっぺたに自分の頬を押し付けた。
「……よかった。お前が生まれてきてくれて、本当に、よかった」
カイエンの次の大公になるであろう、後の女大公リリエンスール・エスペランサ・マキシマ・デ・ハーマポスタールが、女大公カイエンのもとで養育されることになった経緯は、以上のように様々な要因の絡まった末に決まったことであった。
因みに、リリエンスール・エスペランサ・マキシマ・デ・ハーマポスタールとは、「ハーマポスタールの最高の希望、リリエンスール」という意味である。
第三話「夏の夜の夢」了
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