揺れる後宮

 カイエンは「このことをどいつにまでは話していいのであろうか」と悩んでいたのだが、実際のところは悩む必要はなかった。

 カイエンが皇宮を出る頃には、大公宮の面々の中で、「あのスライゴ侯爵アルトゥールとウェント伯爵の処刑」に立ち会わせられた、「もう逃げも隠れも出来ない大公宮の面々」プラス一名、にはことの次第が伝わっていたからである。



 お茶会で起きた事件の後、カイエンが後宮から出てくるはずの時刻になっても出てこなかったので、上級貴族のお付きだの護衛騎士だのの控える溜まり部屋で待たされていた護衛のシーヴはかなり気を揉んでいた。そこはサヴォナローラあたりの心遣いで、「大公殿下のご予定が変わったので待っているように」とは伝えられてはいたものの、シーヴは「何かあったな」と直感した。

 去年の春に始まった一連の騒動以降、大公宮周辺では「何かあった時の連絡網」を密かにあちこちに張り巡らせていた。

 それは、大公であるカイエンの周りも例外ではなく、皇宮の中にも「つなぎ」の人材を確保していた。要は皇宮の使用人を適当に買収しているのである。恐ろしいことに、すでにザラ大将軍や大公宮の執事のアキノに連なる、あのプエブロ・デ・ロス・フィエロスの縁者が多数、皇宮には出仕しており、また、クリストラ公爵家の息のかかった者も当然入り込んでいた。

 そのうちの誰かを捕まえようとシーヴが溜まり部屋をそっと出ると、すぐに一人の皇宮表の侍従の一人がすーっと近づいてきた。向こうも伝えることがあって、待ち構えていたと見える。

(あらあらあら。向こうから来ちゃったぁ)

 シーヴもこの頃、あのおフザケ上司のイリヤの影響が身に染み付いてきたらしく、心の声がおかしな具合になってきている。本人はもちろん、嫌なのだが、あの上司の洗脳力は恐ろしい。

「後宮にて事件発生の由。この先を右に折れて細い廊下へお入りください」

 侍従はシーヴと目も合わさず、すれ違いざまに小声で伝えてきた。

 この先の細い廊下。小部屋がたくさん並んでいる細い廊下のことだろう。

 とは言っても、指定された廊下へ入っても、部屋が続いているからどこへ入ったらいいのかわからない。それにこの日もシーヴは大公軍団の黒い制服だから、目立つのだ。

 そう考えつつも人気のない細い廊下を入っていくと、いきなり目の前の扉が開き、すごい力で部屋の中に引きずり込まれた。

 気配も何もない。腕を掴まれたが、掴まれたと気がついたときには、もう扉がしまっていたというくらいの力業の早業である。それでいてほとんど音がしないのもすごい。

 シーヴは若いが、その腕を見込まれてカイエンの護衛をやっているので腕に自信はある。それに二十歳になってからもまだ背が幾分か伸びているくらいで、小柄どころか大柄な方だ。そんな彼が一気に引っ張り込まれたのである。剣の柄に手をかけるいとまさえない。

「ひゃっ」

 シーヴには何に使われる部屋なのか、てんで分からない昼間でも薄暗い部屋だ。その理由は窓が小さく、それも分厚いカーテンで覆われていたからなのだが、シーヴの胡桃色の目には、とっさには何も見えなかった。

 見えたのは、二つの真っ青な光。それだけ。

 人の目は暗いところで光ったりはしないが、この青い目の持ち主のものは出来が違うらしい。

 思わず、変な声が出てしまったが、シーヴはすぐにそれが誰なのかはわかったので力を抜いた。

「ガラさん……」

 どうしてここにいるの? と聞きたかったが、シーヴもガラにかかっては皇宮の警備も隙間だらけ、ということは知っていた。きっと兄の宰相サヴォナローラのところへ来ていたのだろう。だがまあ、この獣人の血を引く、「人の形をしたイヌ」のでかい図体では堂々と表の廊下は歩けないからシーヴの方が呼び出された、ということだ。

「何かあったんですね?」

 ガラが手を離してくれたので、巨体を見上げながら聞くと、低い声が返ってきた。

「後宮で事件があった。大公殿下は無事だ。怪我人は事件を起こした女、一人だけ。兄は皇帝に呼びつけられた。大公殿下の退出は遅くなるだろう。俺は先に帰って大公宮の人たちに伝えておく。……大丈夫だ。伝えていい範囲は兄に指示されている」

「はあ」

 シーヴには口を挟む隙間も与えず、ガラは言うべきことを一気に言った。この人もすごいけど、宰相さん、すげえ、とシーヴは感心した。

 大公家のことを宰相が仕切るのはもちろん気になったが、シーヴも去年の事件で、なんでも知っている宰相サヴォナローラには今の大公家一家では逆らえない、ということは理解していた。悔しいが、これが大公のカイエンも認めている現在の力関係だ。

「あんたは大公殿下にくっついて落ち着いて帰ってこい」

 そう聞いたときには、シーヴはもう一度腕をつかまれたかと思ったらもう、部屋の外に出されていた。


 


 結局、カイエンが大公宮へと帰り着いたのは、もう夕暮れも過ぎようとする時刻であった。夏だから日が長く、市民の家では夕食も済むようなかなり遅い時間まで明るいが、すでに空は赤紫色の雲とともに暮れつつある。

 不安げな顔のオドザヤを皇太女宮へ送り、そしてミルドラとデボラをそれぞれの公爵家の紋章のついた馬車へ押し込んで去らせた後、カイエンは自分も馬車の上の人となった。

 ほうほうの体でシーヴに助けられて、奥に一番近い、大公宮の大公私邸の入り口で馬車から降り中に入ると、そこには後宮での騒ぎを知らされた面々が黙って立ち並んでいた。

「ただいま……」

 カイエンも帰る道々、シーヴからすでにガラが大公宮へ伝えていることは聞いていたが、それでもそこに、静かに黙って待っていた面々の様子はちょっと怖かった。

 サグラチカや女騎士たちはいないが、その他の身近な面々がみんな揃っている。老若はあるが男ばかりだ。

 アキノ、ヴァイロン、イリヤ、それに教授とガラ。双子は仕事が忙しいのだろう。そこにはいなかった。

 そして、みんな揃って黙りこくっている。おしゃべりのイリヤでさえも。アキノは用心深く、他の使用人を遠ざけたのだろう。それなのに誰も口をきかない。

「お帰りなさいませ」

 やっとアキノがそう言うと、さっとヴァイロンが動いて、黙ってカイエンをそっと両腕に抱え上げた。実際、昼からこっち、後宮まで歩き、お茶会で立ち回りを演じ、それからまた皇宮の中を歩き、と歩き通しだったのでカイエンにはありがたかった。

「ありがとう」

 楽だけど、ヴァイロンは背が高すぎるので、床が一気に遠くなる感じだ。こいつはよくもこんな高い位置に頭を置いて生活できるな、と妙なところで感心する。

「あれ。殿下、お靴に傷ができていますよ」

 みんなでしずしずと奥のカイエンの居間の方へ向かっていると、足元から教授の声がした。いつものように質素な木の杖をついた教授がカイエンの履いた黒革の長靴ちょうかの先をじっと見ている。小柄な教授の目線はヴァイロンに抱かれたカイエンの、丁度足先の高さなのだ。

 大公宮の奥にある後宮だった区画に引っ越してきてから、教授はガラ同様、特に仕事が終わってからの夕方はカイエンの周りにいることが多かった。昼間はヴァイロンと一緒に帝都防衛部隊の訓練を監督している教授だが、仕事が終わって帰ってきてからは同じ場所で寝起きしているガラと一緒に行動することも多いようだった。

「ええ?」

 カイエンがはっとして自分の履いている大公軍団の制服に合わせた黒い革長靴を見ると、確かにつま先に薄く、一本筋の傷が出来ていた。

 それを見るなり、教授のすぐ後ろを、彼を支えるように歩いていたガラがそっと前に出る。

「ちょっと失礼」

 真っ青な目が確認したのは、カイエンではなくてヴァイロンの翡翠色の目だ。靴を履いているカイエン当人はまるで無視している。

 カイエンの長靴の先に鼻を近づけたガラは、すぐにふんふんとうなずいた。

附子ぶすに何か他の薬剤が混ざっているな。触らないほうがいい」

「ええっ」

 カイエンは心底びっくりした。

 あの、星辰の腹に杖をお見舞いした時に、倒れた星辰の両手の簪が自分の靴をかすっていたということか。 

「ええー? それって毒ってことぉ〜?」

 小声だが、間抜けな声を挟んだのは、もちろんイリヤだ。

 最近、私生活のほとんどをもこの大公宮で過ごしている、超激務の大公軍団軍団長は、恐れげもなく、カイエンの履いている長靴に顔を近付けた。

「ああ〜、つま先のところだねえ。ねえ、教授さん、附子ってなんだったっけ?」

 イリヤが振り向けば、教授が答える。

「トリカブトだよ。螺旋帝国ではよく毒殺に使うらしいね。こちらでも山の中へ行けば生えているよ……って、君、その顔は知っている顔だろう? なんでわざわざ私に聞くんだ」

 教授は灰色の目をやや尖らせている。知っていて聞いてきたイリヤの方もにらんでいたが、主な理由はカイエンがくぐった危険の度合いを理解したからだろう。

 カイエンはぞぞーっと背筋が寒くなった。あの時、星辰が自分の長靴を刺していたら自分は、と今更に怖くなったのだ。

「そーなのー。いやあ、シーヴあたりは知らないかなっと思ってさ。聞いてみたのよ。……この靴はもう履かないほうがいいかもねえ」

 とぼけたイリヤの声は今日も寝不足なのか、斜め上空を彷徨って消えたが、カイエン本人はもちろん、ヴァイロンやアキノも言われなくともそんなことはわかっていた。


 カイエンの居間に着くと、問題の長靴はアキノとヴァイロンの手によってさっさとカイエンの足から脱がされ、そのままアキノの手によって持ち去られた。アキノはしばらく戻って来なかったから、哀れな長靴は人気のない場所で、念入りに彼の手で焼かれて始末されたのだろう。

 その間に、カイエンやイリヤに向けてちょっと頭を下げてから、ガラの姿が消えた。

 皇宮に戻り、兄のサヴォナローラが行っているであろう、星辰とその女官の尋問をのぞき見に行ったのだということは誰にも明確だったので、誰もとがめるものはなかった。

 もう時刻はいつもの夕食の時間をかなり過ぎていたが、アキノが立ち去ると同時に現れた妻のサグラチカと女中頭のルーサに促されて、一同はカイエンの食堂へと場所を移した。

 カイエンの食堂には長い食卓があり、それはカイエンとヴァイロン、イリヤにシーヴ、それに教授がつくには十分な大きさだった。

 いつもはもちろん、一品ごとに給仕をするのだが、この日のサグラチカとルーサはそうしなかった。

「不細工なことですが、ご容赦を」

 そう言うと、すでに料理長のハイメが用意していた、前菜、スープ、サラダ、メインの料理、そしてパンやらデザート、そしてワインや食後の飲みものの準備まで、すべてをテーブル上に並べてしまった。

「アキノより、このまま今夜は下がるように言いつけられております。お皿はどうか、そのままにお願いいたします」

 そう言うと、サグラチカはカイエンの顔に一瞬だけ、心配そうな目をおいて、下がっていった。下り際に、養い子のヴァイロンをちらりと見ることも忘れない。

 サグラチカが下がると、食堂の入り口を女騎士のシェスタがしっかりと閉めた。


「……みんな、適当に始めてくれ。シーヴ、すまないがワインを皆に」

 カイエンが一番上座からそう言うと、すぐにシーヴはサグラチカが栓を開けておいていったワインのところへ行き、カイエンから始めてみんなのグラスに注ぎ始めた。最後に自分のグラスに注いでから、彼は座った。彼は護衛騎士で大公の食事の給仕など管轄外だが、今日はしょうがない。彼がここでは一番下なのだから。

 それから五人は食事を始め、カイエンは皆がメインの肉料理を終える頃になってから、今日の後宮での出来事を話し始めた。もうガラから聞いているはずだが、当事者が話せばまた別な見方ができるかもしれない。

 カイエンが突進してくる星辰をとっさに杖で防いだくだりでは皆がひそやかに息を飲んだが、その後は静かなものだ。

 カイエンは隣のヴァイロンの目がぎらりと光ったのを見逃さなかった。ああ、また後で厄介だな、と思う。

「あ、俺、珈琲がいい」

 皆が口を開いたのは、食後の飲み物の準備にかかったシーヴに向かって、イリヤがそう口を開いてからだった。

「教授さんたら、サグラチカさん達にもしっかり気に入られてるよねえ。……今まで、殿下の前で珈琲が準備されたことなんかないんだよぅ?」

 イリヤは揶揄するように言う。

 ハウヤ帝国では貴族を中心とした上層階級は紅茶、中産階級以下では珈琲と、飲み物の嗜好が分かれていた。だから、先代のアルウィンの時代以前から、大公の食卓に珈琲が供されることなどなかったのだが、マテオ・ソーサがここに住み込んでからは変わってきていたのだ。

 教授はと見れば、「コイツ、今日も絡んでくるなあ」という顔でイリヤを見ている。

「そうだな。教授は意外に女ウケがいいなあ」

 カイエンがのん気にイリヤの軽口を受けてそう言うと、シーヴがカイエンの方をさっと見た。彼の前には陶器の紅茶のポットと珈琲のポットがあり、彼の手元には暖炉から持ってきた熱い湯の入った金属のポットがある。このために夏なのに暖炉には燠火が焚かれていたのだ。

「今日は私も珈琲をもらおう。まだ眠るわけにはいかないようだ」

 カイエンがそう言うと、

「酔っ払うわけにもいかねーの」

 余計なことをイリヤが付け足したが、異議を唱えるものはなかった。

 結局、シーヴは珈琲のポットだけに熱湯を注ぎ入れ、しばらく待ってからそれを目の詰んだ珈琲用の茶漉し越しに皆の陶器のカップに注ぎ入れた。

「いつもながら、いい豆ですねえ。豆の挽き具合も丁度いい」

 教授はそう言うと、香りを楽しむようにカップを鼻の前で燻らせた。彼は今日も何も入れずに珈琲を飲む。

「殿下ぁ、男妾さんたち甘やかしすぎー」

 そう皮肉りながら、それでも砂糖だけはしっかり入れて、イリヤも珈琲を飲み始める。

 そのタイミングで戻ってきたのがアキノだった。

「遅くなりました」

 頭をさげるアキノに、カイエンは聞いた。

「ガラはまだ帰らんか」

「はい。ですが、今宵はこちらにてお待ちになって、かの者の報告を聞いた方がよろしいかと」

 カイエンは疲れていた。

 お腹がいっぱいなった今、求めるのは暖かい清潔な布団だけだ。

 だが、ここに集った皆の顔を見てもそう言うわがままは言えない。

「わかっている。……アキノ、そなたも珈琲をどうだ?」

 アキノは畏まって、その場に控えた。

「恐れ多いことでございますが、今宵はこのアキノにもその真っ黒な液体が必要なようでございます」



 ガラが戻ってきた時。

 それは真夜中をとうに過ぎた時刻であったが、そこ、大公カイエンの奥の居間で待っていた面々の様子というのは、一言で言えば、「だらしない」としか言えない風景であった。

 執事のアキノでさえ立って控えていることはなく、窓際の椅子に放心したように座っていたし、大公殿下は長椅子でヴァイロンの膝を枕に眠っており、そばには飼い猫のミモまでもが丸くなっている。軍団長のイリヤはカイエンの反対側の長椅子に長ーく伸びていた。

 護衛のシーヴはその足元で、クッションを抱いて絨毯が敷かれた床に崩れ落ちている。教授はと見れば、カイエンとヴァイロンの横の一人がけのソファに小柄な体を丸めるようにして、ぐうぐう寝ているという始末であった。

「起きろ」

 最初から目が覚めているアキノとヴァイロンは微動だにしなかったが、ガラの低くておどろおどろしい地獄の声に他の面々は、はっとして目を開けた。

 さすがに熟睡していたものはいなかったようだ。

「ああ。戻ったのか」

 カイエンが眠い目をこすって起き上がると、ガラは音もなく彼らの輪の中へ入ってきた。

「第四妾妃は一通りの尋問の後、一旦、後宮の内牢へ入れられたが、女官への尋問はまだ続いている」

「何か吐いたのか」

 あまり期待せずにカイエンが聞くと、意外にもガラはきっぱりとうなずいた。

「第四妾妃は意識が戻るなり、さっさと吐いたそうだ。……すべては第三妾妃マグダレーナとの共謀だとな」

「はあ?」

 幾つかの口から、力の抜けた声が漏れた。

「なにか証拠があるのか」

 落ち着いた声でヴァイロンが聞くと、ガラは狼を思わせる凶暴な顔におそらくは苦笑い、なのではないかと思われる表情をのせた。

「あればもう、第三妾妃も捕らえられている。だが、全く嘘とも言い切れなくはなったようだ」

「なぜ?」

 ガラは一渡り、皆の顔を見てから答えた。

「俺は夕方に大公殿下の革長靴から附子の匂いがするといったが、それだけでなく他の薬剤も混ざっていると言ったはずだ。……その他の薬剤というのはカンタレラだったのだが、兄の信用する薬学者が見たところでも、凶器の簪の毒は同じだそうでな」

「もう、毒薬の成分を調べたって言うのかい?」

 そう聞いたのは教授。

「そんなに早くわかるものかね」

 教授の言い方は懐疑的だ。

 それを聞くと、ガラはアキノの方をちらっと見てから答えた。

「俺はフェロスの毒以外でも毒には詳しい。実は兄のそばにいる薬学者というのも、プエブロ・デ・ロス・フィエロスの出身だ。もっとも、祖父母の代で里を出ているそうだが」

 獣人の血を引くものを獣化させる毒、フェロスの毒についてはそこにいる皆が承知していた。去年、ヴァイロンが獣化させられそうになった事件は忘れようもない。

 ガラがそれを自在に操ることも今では周知の事実だ。教授も大公宮の身内になった時に話を聞かされている。

「では、その者には分析せずとも判別できる能力があるということだな」

 アキノが確認すると、ガラは黙って首肯した。

「カンタレラ、というのは?」

 カイエンが聞く。

 カイエンはその名前を何かの書物で読んだように思うのだが、とっさに思い出せなかったのだ。

「ベアトリアの王家で使われているという猛毒の名ですよ。成分は不明ですが」

 ガラより先に答えたのは教授だ。

「なるほど、附子は螺旋帝国で使われる毒で、カンタレラはベアトリアで使われる毒として有名だ。だから、二つの毒薬が使われているということで、……二人の妾妃さんたちの共謀、という自白を裏打ちしているってことですな」

 教授がそう言えば、イリヤも付け足す。さすがに目が覚めたようで、きびきびした声に戻っている。

「ひゃあ。確かに実行犯の第四妾妃は皇后暗殺に成功したって、捕らえられるのは必至ですものねえ。自分一人じゃ転ばない……そういう用意なのか、それとも本当に共謀なのか。これは簡単には決着がつきそうもないですねえ」

「その螺旋帝国からついてきたって言う女官も、簡単には真相を吐かないでしょうなあ。吐かずに獄死してくれれば、第四妾妃には有利になるかも知れん。まあ、やるからにはやった後のことも、その結果次第でいちいち相談済みでしょうしな」

 確かにそうだ。

 カイエンが阻止するとは思っていなかったとしても、そして首尾よく皇后を毒の塗られた簪で刺すか、傷を負わせるかしたとしても、体内に入る毒の量は調整できないのだから、死ぬとは限らないのだ。

 とすれば、第一の目的はアイーシャの腹の中の子供を流すこと、ということにはなりはすまいか。

 カイエンは背筋が寒くなった。

 恐るべし後宮。

 今まではどうだか知らないが、マグダレーナと星辰が入ってからの後宮は魔宮と化したようだった。オドザヤが皇太女宮に出てくれたのがありがたい。


 カイエンがそこまで考えた時、戦慄する皆の中から、寝惚けた声に戻ったイリヤが話しかけてきた。

「でもさあ、殿下ぁ」

 カイエンは渋い顔でそっちを見た。この声はろくなことを言わない時の声だ。

「なーんでまた殿下は皇后陛下をかばっちゃったのー」

 イリヤは問題の根本をついてきた。

「かばう必要なんてないのにぃ。殿下、あの人嫌いでしょ。……って言うか、殿下じゃ自分が怪我する可能性の方が高いっての、自覚してますよねえ」

 カイエンはとっさに返事ができなかった。その通りだったからである。

 イリヤはカイエンの側近として、彼女の出自についても同郷のアキノから聞いて知っているはずだ。

 それでも答えられなかった。

 それは、カイエン自身があの瞬間からずっと、疑問に思っていたことだからだ。

「わからない」


 アイーシャ!



 あの時、カイエンの頭に響いたのは、実の母が危ない、と言う認識よりも前に、アイーシャ、という存在への危機感だった。

「わからないんだ」

 言い募るカイエンの背中を、隣のヴァイロンがそっと撫でた。

「なんだろうな。……なにか声が聞こえて、動かされたみたいな感じだ。それで無鉄砲にも星辰の前に飛び出ちゃったんだよ」

「なんですか。その声って。……まさか皇后陛下のお腹の中の赤ちゃんの声? とか……」

 カイエンは首を振った。

「わからない。本当にわからないな。まあ知っての通り、実は皇后の腹の子は私の弟だか妹だから、そういうことも……あるのか、ねえ」

 カイエンは最後は自分でもわからなくなったので、普段は苦手なイリヤの小狡そうで甘ったるい美形面へ向かって聞いてみた。

 ないっすー。

 イリヤはそう言いたかったが、なんでかはわからないが、彼もまたそこで口をつぐんでしまった。

「これまた謎ばっかりの事件が起きちまいましたねぇー」

 そして、しばらくしてから彼が言えたのは、今年もまた起きた皇宮関係の事件への嘆きとも、諦めともつかない一言でしかなかった。






 一方。

 星辰の自白で微妙な立場に立たされていた、第三妾妃マグダレーナの宮では。


「あの女がなんと言っても、何を吐き散らかしても驚かないことよ」

 マグダレーナは重々しい、ベアトリア風の刺繍で真珠の縫い付けられた衣装を女官に手伝わせて脱ぎながら言った。

「きっと、あの螺旋帝国の女は私のせいにするわ。だって、それしか言い訳のしようがないですもの。……それにしても、なんで今、あの皇后を狙ったのかしら。それもお茶会のただ中で。この後宮の中で。……あの女、相当なお馬鹿さんなのかしら? いいえ。それでも今、やらなきゃいけないと思ったの? それにしても不細工なことね」

 まるで、彼女にはあの星辰のしたことの理由も、これから星辰がどうするかもわかっている、とでも言うようだ。

「でもまあ、あそこであの大公殿下がアイーシャをかばうなんて、誰にも思いつかないわよねえ。あれはしょうがないわ」

 重たい生地のドレスを女官の手に委ねると、他の女官が下着を外しにかかった。ベアトリア風の衣装を着るには、下着もそれなりにしっかりしていないと格好がつかないのだ。

「なんであの大公殿下はあの時、アイーシャをかばったのかしら? あの方にとってはただの長兄の妻でしょう? それをああして体を張ってかばうなんて!」

 マグダレーナの疑問はもっともな疑問だった。

 そして、その解答は、皇帝一家の秘密へと繋がっていたのだ。

「……絶対、おかしいわ。おかしい。大公殿下にはアイーシャをかばう理由があるのよ」

「あの大公殿下。……あの方は厄介な方」

 優雅な絹の、薄い夏の部屋着に着替え終わったマグダレーナはドレスを脱げば、さすがにこの頃目立ってきたお腹をそっとさすりながら、言った。

「あの方、あんなに皇帝陛下にそっくりな妹様で。でも、聞いたわ。すぐ上の前の大公だったお兄様に育てられたんだって。そして、その方にこそ、もっともそっくりであられるんだってね」

 マグダレーナの脳裏に浮かぶカイエンの顔は、皇帝サウルのそれと微妙に重なって揺れている。

「それなのに、去年の春に無理やり獣人将軍を男妾にさせられて、ひどい屈辱を受けたそうね」

 マグダレーナの栗色の瞳に金色の光がさした。

 彼女は女官に聞かれることにも頓着せず、また女官の答えも期待していないことは明確だった。これは考えをまとめるための独り言なのだ。

「知らなければいけないわ。このハウヤ帝国の皇帝一家の秘密を。だってそうでしょう。あの皇太女殿下より、陛下の末の妹だっていう大公殿下の方が皇帝陛下にそっくりなのよ。なのに、皇女たちには甘い皇帝陛下が、あの方には厳しいの」

 ベアトリア人の女官は、言葉もなく控えているばかりだ。と言うよりはもう慣れているのだろう。

「皇太女陛下はどうでもいいわ。あの方は皇后陛下にそっくりじゃないの。違うのよ。あれは皇帝一家の顔じゃないの。皇帝陛下や大公殿下、それにクリストラ公爵夫人の持っている、あの顔に秘密があるのよ。……これは間違いないわ」

 マグダレーナはひそやかに微笑んだ。

「私を迎え入れた時に、あの海神宮の大回廊を歩かせたのはいけなかったわね。あの同じ顔の肖像画が並んだ回廊をぼけっと歩いている、ここの貴族の奴らの頭はからっぽよ」

 そして、その朱色の唇を最後に出た言葉は確信に満ちていた。

「……この子があの回廊に並んでいる顔を持っていなかったら、私はおしまいだわ」

 そう言うと、マグダレーナは、もう一度自らの腹をその真っ白な手で撫でた。

「あなたにそろそろ最初の名前をつけてあげましょう。……そうねえ、……ちゃん。あなた、間違っても私に似て生まれてきちゃダメなのよ」

 マグダレーナはその肉感的な唇をにっと横に広げて微笑んだ。

「わかったわねえ」

 最後の言葉は彼女の口の中で消えていった。

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