第九話 闇に浮かぶ月
参加者は蜘蛛の子を散らす様に四方八方に逃げた。人数では警察が負けている。だが、サーベルを抜き、腰を抜かした参加者を次々と捕獲していく。だが主催側も抜け目がなかった。
どうやら逃げ道は確保していたようだ。
奥の方で、人が床に吸い込まれるように消えていく。一階まで伝って下りる何かがあるのだろう。外へ逃げればもう捕まえる事はできない。
「逃げても無駄でござる‼ 別部隊が外で控えている故、ここでお縄についた方が怪我は少ないでござるよ‼」
相良の警告は嘘ではなかった。
——ドンッ、バチバチッ
騒がしい煉瓦の建物内部にまで響く外の音。
「火薬だ‼」「砲弾だ‼」とヘナヘナと諦めて座りこむ者、それでも逃げようと必死にもがく者、そして徐々に床には血の海が出来始めた。
その地獄絵図の様な場で、敢志は「ジョヴァンニ‼」と必死に叫んだ。彼の姿は敢志の横からは消えていた。一抹の不安を覚え、会場の前方を見るが逃げ惑う参加者に、それを取り押さえる警察官の群れでそれらしき人物が見当たらない。
目印の梔子色の髪も今は真っ黒だ。
「ジョヴァンニ‼」
地獄を作り出している役者たちは、皆向かうは同じ方向。その波を横に裂く様に敢志は走り抜けた。
「うわッ?! すみませ……くそッ」
血塗れた死体に躓き、苦虫を噛み潰す。そこから目を逸らし、足を踏み出す。そんなに広くないはずなのに、大量の人間が行く手を阻み進めない。
もう叫び声も聞こえない。脳内では必死にあの男の名を呼び、二つの目玉を血管が千切れるほど動かしながらもつれる足をジタバタさせた。
——ジョヴァンニ、ジョヴァンニ、ジョヴァンニ‼
胸騒ぎがする。まさかもう……そんな絶望的な思考が過った時だった。
「ジョヴァンニ!」
いた。やはり会場前方にいた。西洋の衣装を身に纏い、敢志お手製の面の横顔が見える。
必死に手を伸ばす。
だが、横を向いているジョヴァンニが後ずさりをする。
「?!」
ジョヴァンニの目の前、敢志の左側から相良が姿勢を低くして独特な居合いの構えをとっていた。
あれが放たれれば、ジョヴァンニの腹は紛れもなく掻っ捌かれる。
敢志は刀を取り出し、右手で鞘の根元を握る。親指で柄を上にチャキッと弾き、鞘から手を離し持ち手ではなくそのまま刃を握る。
手の平からは血が滲んでいる、だが今は何も感じなかった。
鞘は突進していく敢志に取り残され、床にコロンと転がった。
相良が右足を踏み込んだ。
「切り捨て御免‼」
それと同時に敢志が二人の間に割り込む。
——カキィィィンッ‼
西洋と東洋の刀が制止の音を奏でる。それは持ち主の腕にも伝わり、相良は予期せぬ衝撃で腕が痺れ、敢志は刃で皮膚を抉った。
体勢を立て直したのは相良が早かった「はあッ‼」と天にサーベルを振り上げる。敢志は次こそ持ち手を握り、防御の構えに入った。
「相良さん‼」
「?!」
二度目の衝撃は怒らなかった。
「伊東殿?!」
刺客の狐の面がズレ、そこから覗く見知った顔に、相良は勢いがついたサーベルを床に振り下ろした。
安心したのも束の間、相良の後ろで参加者の男が小刀を振り上げる。
「国家の狗があああ‼」
反応する相良と敢志。だがどちらの防御も間に合わない。相良が両手を広げ、後ろの2人を守ろうとする。
そして……
——パンッ‼
「ぐああああああ」
小刀が男の手から零れ、その場に倒れ込んだ。膝をかばう様に蹲っている。
腕を広げた相良が、男に飛びかかった。
「逮捕でござる!」
縄をかける相良も何が起こったか分からなかった。同じくその場に立ち尽くす敢志の鼻を嫌な臭いが擽る。後ろから漂うそれを追うと……
「ジョヴァンニ……」
嫌な金属が小さな入り口から白煙を上らせていた。焦げ臭い香りは事後の臭い——拳銃を持つ手からは火傷の跡が覗いていて。信じたくなくても、その凶器を使ったのはジョヴァンニだと知らしめる。
そして今の発砲音で会場は更に騒然となっていた。流石の警察も狐の面を被った男が拳銃を持っていては迂闊に近づけない。
そこへ参加者に縄をかけ終えた相良が近づき、制服の上着を敢志にかけた。
「これを。少なくとも参加者とは間違えられまい。できればお面も取っていただけると助かるでござる。あとで話はゆっくりと、ではッ‼」
相良は阿鼻叫喚の中へ戻っていた。
すぐさまジョヴァンニに駆け寄る。
「どこへ行っていたんだ! 心配しただろ! それに……それは……」
それ以上は言えない。
何故ならジョヴァンニの手も震えていたからだ。敢志はそれを宥めようと刀を捨て去り、手を重ねた。ヌルリと生暖かい物が触れ、ジョヴァンニもハッとなる。
「君こそ、あの中に突っ込んでくるなど」
「仕方ないだろ。身体が動いてしまったんだから。とにかくジョヴァンニが無事でよかった」
この場に不釣り合いな安堵の表情を見せる敢志に、ジョアヴァンには面を取り、「すまなかった」と謝罪した。
聞きたいことは他にもあったが、二人は会場の隅へと移動した。少しばかり逮捕の手伝いもし、数刻後には、鉄臭さに覆い尽くされていた。
応援に駆け付けた後続の隊の指揮もとる相良は終始走り回っている。流石に警察でも参加者でもない二人は追い出される事となったが、ようやく息を吸う事ができた気がした。
「……」
煉瓦倉庫の奥に広がる海原までジョヴァンニはフラフラと歩き出す。その後ろをついていく敢志。まだ倉庫からは男たちの声が聞こえ、窓から洩れる明かりは人影を映していた。そこを一瞥し、敢志はジョヴァンニが話し出すのを待った。
「商売人の君ならこれが何かぐらいわかるだろう」
商売人でなくとも今のご時世、外国から伝来した殺傷能力抜群の小型の武器を知らぬ者はいない。
「拳銃だろ? こんな間近で見たのは初めてだよ」
「……多分、父さんのものだ」
「君の? でも君は記憶が」
「多分……と言っただろ? 私の記憶の出発地点で既にこれは私の手元にあった。そして……」
新月で月明りがない代わりに、ジョヴァンニは倉庫から洩れる明かりで拳銃の持ち手を敢志に見せた。
「触ってもいい?」
「構わない」
一礼してから受け取る。初めて拳銃に触れた瞬間、その冷たさに敢志は悪寒が走った。確かにこれが発砲した後、火薬の臭いが充満したのに、今はそんなものを感じさせない冷たいだけの金属になり果てている。そして持ち手には……
「A・Gilverts」
金でそう彫られていた。
「何となく父さんの名前な気がするのだ。ずっと肌身離さず持っている。弾は六発。そのうち一つはさっき使った。残りは五発。絶対に使わないと決めていたのだが……」
ジョヴァンニは敢志から拳銃を受け取る。
「君同様、私も気が付いたら身体が動いてしまっていた」
自信に呆れる様に苦笑いをするジョヴァンニ。
「手の傷は本当にすまなかった」
そう心配する目線の先には雑に布が巻かれた敢志の右手。
「あ? これ? 大丈夫だよ。直ぐに治るって。ジョヴァンニこそ血が苦手なのに大丈夫だった?」
「私が? 血が苦手?」
「確か蒸気機関車で、俺が蛮カラ男に斬りかかった時叫んでなかった? てっきり血が苦手なのかと……」
「ああ、あれか。あれも懐かしいね。そしてまさか君と出会って起こった事件二つがここに繋がっているとは思わなかったよ」
血の話を逸らし、ジョヴァンニは目を細めて煉瓦倉庫を見る。
「とりあえず、一件落着と言っていいのではないか?」
「蒸気機関車と牛鍋の件はね。この闇市場の主催者によってはまた荒れそうな気がするけど……」
敢志もジョヴァンニと並んで煉瓦倉庫を見つめる。そして視線の先で何やら動いた。
「伊東殿! ギルバーツ殿!」
相良のちっとも疲労を感じさせぬ声が海に吸収されていく。
「さあ! 説教の時間でござる!」
「うわあ。行きたくないな。でも仕方ない、怒られに行くか」
と伸びをした敢志。その横ではもう一度海を見つめるジョヴァンニ。
「先に行くよ」
「ああ」
敢志の草履の音が遠ざかる。
残されたジョヴァンニと真っ暗な海に月は映っていない。だが、新月の海に突如月が現れる。月はジョヴァンニの懐に隠されていた。
「……生麦事件」
ジョヴァンニの二本の指に挟まれて、後ろに深い闇を広げる月はその時をもう刻んではいない。
そして元の場所に——懐に金の懐中時計を隠し、踵を返した。
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