第八話 汚れた大黒様

 新橋駅に停車後、敢志は素早く降車し運転室へと向かった。

客車と違い真っ黒なイギリスの落ち着いた外観をした車体、その運転室に近づくと少し熱を持っていた。中には操縦を担う機関手一人と火夫が二人おり、何かコソコソと話し合っている。更に近づくと、敢志の視線の隅に違和感のある光景がちらついた。

「デフレクターがない。」

この型の蒸気機関車は横浜からの帰りにいつも利用している。だから先頭の機関車の見た目も目に焼き付くほど覚えている。

いつもと違う機関車、そこには上昇気流を発生させるためのデフレクターがなかった。

デフレクターと呼ばれる徐煙板は、蒸気機関車の顔でもある前方、円形部分の左右側面に設置されている平たい鉄板だ。円形部分の上にある煙突から排出される煙を上へ逃がすために必ず必要になってくるのにそれがない。これでは上昇せず客車に煙が侵入してしまう。実際に今回の運行中、煙は下方に流れ窓の外に顔を出せる状態ではなかった。

「おい。」

野太い声がしてデフレクターから視線を外す。

「何してんだ。早く駅から出ろ。」

筋肉質な男が追い出すように手を忙しなく動かす。

「ウロチョロすんな。」

後ろからもう一人の火夫も顔を覗かせ、高い位置から見下ろしてくる。

しかし臆せず自分の役目を果たす。

「すみません。最後尾の客車までご同行願えませんか?」

二人の火夫は更に奥の機関手に視線を送る。

火夫より身なりの良い恰好をした制服姿の男が現れる。

「何故だ。」

「人が殺されたんです。」

「俺達には関係ない。」

「あります。」

はっきりそう答えたが、実際は無い。あの老人は全てを理解した風だったが敢志は何一つ分かっていない。

しかし自分が危機的状況なのに真実への道が分かっていない今、開くことは無理でも開く手伝いはしたかった。

だからこそ老人の頼み通り、この火夫達を連れて行かなければならない。

「一緒に来てください。」

機関手も火夫も頷かない。

「お話を聞きたいだけです。犯人に仕立て上げようとしているわけではありません。それとも…何かやましい事があるから同行できない…とか?」

敢志は我ながら意地の悪い言い方だったと心の中で苦笑いした。しかしこの遜ったようで脅しと同等の発言は効果覿面だった。

諦めたように顔を見合わせ男たちは運転室から降りてくる。

再度、デフレクターの有無を確認し、男達の後についていく。屈強な背中はどこか小さく見え、小刻みに震えている。そしてホームの微かなガス灯がヒラヒラ舞い落ちる何かの影を捉えた。一人の火夫のズボンのポケットから出てきたそれは…

「落としましたよ。」

「あっ?」

振り向いた火夫が敢志の握っている物を見て「やべっ。」と口を動かす。

「これ…十円紙幣ですよね?」

表に大黒像、裏に彩紋が描かれた十センチ四方の紙――それは十円紙幣だった。

「俺のじゃない。」

火夫が目を逸らしながら生唾を飲み込む。

「あなたのポケットから出てきたのを見ましたよ。かなりの大金ですが…」

営む菓子屋で従業員は雇っていないが、各職業の給料は知っている。劣悪な職場環境にもかかわらず低賃金な火夫なら、さらにその給料は世に知れ渡っている。

日給二円。それがこの重労働の賃金だ。

だが、この男は頑なに十円紙幣を受け取らない。万が一にも自分の物ではなかったとしても欲しくなるはずだ。

「どうぞ。」

胸に十円紙幣を押し付ければ、豆だらけの煤まみれの手がゆっくりと受け取る。

「あ、ありがとよ。」

その姿を見て少しだけ老人の「ポケットの中身」の意味が分かってきたかもしれない。


 最後尾の客車へ戻ると、別の駅員によって用意された布が死体を覆っていた。そしてやじ馬で残った乗客もちらほらいて、勿論蛮カラ姿の男も老人もいる。

敢志達が来て、老人は細く微笑みシルクハットを被り直す。

「役者は揃ったようだ。では…今回の謎の事件の全貌をご覧にいれよう!」

まるでショーでも始まるかのような言い方に少しだけ胸が高鳴る。

そしてその高鳴りの裏で自身の潔白に強い期待を抱かずにはいられなかった。

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