Act.1 竜と騎士と魔術師

 青い髪の少年エルクが、竜を撃退してから既に十分。学園を目指して歩き続ける二人の間には、重苦しい沈黙が降りていた。

 雑木林を先行するエルクと、その後を複雑な表情のまま追いかけるミリア。この位置からだと少年の表情が窺い知れない為、余計に不安な気持ちになってしまう。

(さっきからずっと黙ってる……。迷惑掛けちゃったから怒ってるのかな?)

 自分のせいで気分を害してしまったのかと考える反面、ちゃんと御礼は言ったんだから問題ないはずだ、とも思うミリア。

 あーでもないこーでもないと黙考する事数十秒。地獄のような沈黙を打ち破る為、少女はようやく、意を決して口を開く。

「……あの、聞いてもいいですか?」

「…………………………何だ?」

 随分長い間返事が返ってこなかった為、内心ミリアは泣きそうになっていたが、一安心して会話を続ける。

「エルクさんって、どうして『騎士科』に入ろうと思ったんですか?」

 妙な緊張感は拭えないながらも、ミリアはどうにかその質問を口から捻り出した。傍から見ていてもその様子は、さすがに緊張し過ぎではないかと思う程である。

「……敬語じゃなくていい」

「え?」

 エルクが返してきたのは、質問に対する答えではなく、ミリアに対する要求のような言葉だった。

 あまりにも突然の事で、事態が上手く呑み込めない。思わず呆けるミリアに対し、エルクは視線を交わさぬまま続ける。

「俺は敬語を使われるような大層な人間じゃないからな。普通に話してくれればいい。……まぁ、普段から敬語口調だっていうなら無理強いはしないが」

「ああ、えーっと、そういう訳じゃないんだけど……」

 ややぶっきら棒な言い方ではあるが、どうやらエルクなりに気を遣ってくれたらしい。話し方に抑揚はないし、振り返ろうともしないが、それでも少年の優しさは何となく感じ取れる。

 思っていたよりも怖い人じゃないのかな、とミリアは思う。

「わかった。じゃあお言葉に甘えてそうさせてもらうね、エルク」

 ごく自然に、柔らかな笑みを零すミリア。

 するとその時になってようやく、エルクは肩越しにミリアの方を振り返った。相変わらず無愛想な表情が、端正な顔に貼り付いている。

「『騎士科』を志望した理由、か。別に、人に自慢できるような大仰な理由はない。ただ強くなる為に入った。それだけだ」

「そっか……」

「そういうあんたはどうして『魔術科』に? 何か明確な理由でもあるのか?」

 軽い相槌を打ったミリアに対し、エルクは再び前を向きながらそう問い掛けてきた。

 答えを返そうとするミリアの手は、自然と胸元のペンダントへ伸びていく。

 指先で、埋め込まれた紅い宝石をなぞると、不思議と温かさを感じる気がした。

「私は、ずっと魔術師に憧れてたの。昔、助けてもらった事があったから」

「……竜から、か?」

「……うん」

 静かに頷くミリアの脳裏に、浮かび上がる過去の記憶。

 煌々と燃え盛る炎によって紅に染まる、見知った光景。平穏だったはずの日常が、いとも容易く消え去っていた。

 姿の見えない父を探して歩き回る、幼い頃の自分。服は泥に塗れ、火に撒かれたせいか所々黒ずんでいて、その足取りは鉛のように重い。

 愛する父の温もりを求めて彷徨い続けていたその時。ミリアの前に現れたのは――



『大丈夫かい?』

 頭の上から慈愛に満ちた声で優しく呼び掛けられ、ミリアはゆっくりと顔を上げる。

 見覚えのない青年が、周囲の地獄を忘れさせるかのように、静かにミリアを見つめていた。

『……あなた、誰……?』

『初めましてお嬢さん。ボクは――』

 屈託のない微笑みを見せる青年は、少女に優しく説き伏せるかのように告げる。

 自身が、何者なのかという事を。



「――この首飾りはね、その時助けてくれた魔術師さんがくれた物なの。お守りになるようにって」

 言いつつミリアは、ペンダントを優しく握り締める。これが自分とあの魔術師とを繋ぐ、唯一の証だ。

「あの時の魔術師さんみたいに、私も誰かを助けられる存在になりたい。だから私はこの学園に入ろうと思ったの。私みたいな境遇の人を、生み出さないで済むように」

 自分にどこまでできるかはわからない。だがそれでも、あの時の魔術師のように、誰かを助けられる存在になりたい。

 彼は自分を、絶望の底から掬い上げてくれた。

 あれだけ万能の力があれば、きっと何だってできる。誰だって助けられる。どんな苦境だって乗り越えられる。

 だって魔術師は――

「万能じゃない」

「! ……えっ?」

 瞬間、鼓膜を刺激する低い声に、ミリアは目を瞠った。

 まるで、心を見透かされたかのようだった。思わず立ち止まるミリアを見つめ、声の主であるエルクは、真剣な表情を浮かべている。

「多分、あんたが思ってるほど魔術師は……、万能な存在なんかじゃない」

「……どういう意味?」

 まるで嗜めているかのような言葉に、思わずミリアが首を傾げてしまった、その時。前方から吹いてきた風が、ミリアの視線を吸い寄せた。

 やや寂寥としていた林道とは打って変わり、前方に広がる緑豊かな大地。快晴の空の下、短い草の生えた平原には微風が舞い、緑色の絨毯を静かに揺らしている。

 眺めているだけで穏やかな気分になれるその景色の中。平原の中央を縦断している道の先に、灰身掛かった大きな建物が聳え立っている。

 竜迎撃要員育成特別機関、『騎士魔学園ナイツマジック・アカデミー』。

 大自然の中に佇むその学舎の姿は、異色でありながらも神聖な存在感を放っている。

「あっ……」

 一瞬景色に視線を奪われたミリアは、返答せずに歩き出すエルクを引き止める言葉が見つからなかった。

 ――魔術師は万能な存在なんかじゃない。

 数秒前に垣間見た少年の表情。切なげに揺れていたエルクの瞳が、声が、ミリアの心に強く刻み込まれる。と同時に、少女は僅かながらも理解した。

 竜によって大切なものを失った自分と同じように。

 きっとあの少年にも、何か抱えているものがあるのだろう、と。






 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 今より遡る事、百二十年前。この世界ミッドガイアは、とある災厄に見舞われた。


 たった一頭の、黄金の竜の出現によって。


 それまで『ミッドガイア』は、竜という存在に文明を脅かされつつも、人類の歴史を途絶えさせる事なく歩み続けていた。安寧に時を過ごしてきたとは言い難いが、それでもこの世界に滅亡が齎される事はなかった。

 黄金の竜が現れ、状況が一変するまでは。

 いつどこで、どのようにして黄金の竜が生を受けたのかは定かではない。

 まるで自然災害の如く、突如として『ミッドガイア』に現れたそれが人類に牙を剥いた時、異変は起きた。

 元々『ミッドガイア』に存在していた竜達が、黄金の竜の敵意に呼応するかのように、一斉に凶暴化し、荒れ狂い始めたのだ。

 予てから、人類と竜の間に争いがなかった訳ではない。だがこの出来事によって、人類と竜の争いは加速度的に激しさを増していった。

 だがそこから先の展開は、火を見るよりも明らかだった。

 ただでさえ手を焼いていた化物達が勢力を増した事で、辛うじて保たれていた世界の均衡は一気に崩れてしまう。

 鉄をも貫く鋭利な牙と爪の前に、身を守る盾や鎧は意味を成さず。

 爆撃すら物ともしない強固な鱗に対して、武力兵器は無力と化し。

 天空を疾風の如く駆け抜ける巨大な翼によって、逃走も撤退も叶わず。

 結果、多くの国が攻め落とされ、多くの民や兵士が次々と犠牲になっていった。

 世界が終わる。

 人類が、滅ぶ。

 いつしか誰もが、その圧倒的な戦力差を前に敗北を、死を確信し、恐怖と絶望に打ち拉がれていた。


 その状況を打破する、一組の希望ひかりが現れるまでは。


 黄金の竜が突如として現れたように、彼らが現れたのもまた、突然の事だった。

 片や、大剣を振るい全てを両断する、剛剣使いの騎士。

 片や、全ての英知を極め、賢者の名を冠した魔術師。

 まさしく人類を勝利へと導く希望の光となった二人は、元凶となった黄金の竜――『竜王』に死闘を挑み、災厄の象徴たる忌まわしき存在を、遥か北の大地へと封印する事に成功した。

『竜王』の封印によって、竜達の活動は沈静化し、世界は緩やかに、安息と安寧を取り戻し始める。

 だが、それで全てが終わった訳ではなかった。騎士と魔術師は、ある事を懸念したのだ。

 それは、『竜王』の復活。

 もし万が一、何らかの理由で『竜王』の封印が破れる事態が巻き起こったとしたら。その時こそ本当に、人類は滅亡の道を歩む事になってしまうかも知れない。

 それが五十年後か、或いは百年後か。封印があくまでも封印でしかない以上、楽観視する事はできない。

 自分達亡き後の世界を憂いた騎士と魔術師は、そこである対策を思い付く。


「ならば、新たに育て上げよう。我らの後継者となる人間を。勇敢な騎士と、偉大な魔術師を。残された後世の者達が、竜という破壊の権化と戦い抜いていく為に」


 二人の想いが、願いが、変革を齎した。竜に脅かされ続ける世界に、新たな光を灯した。

 騎士と魔術師が協力して創り上げた物。

 それは自分達の意志と力を受け継ぐ、希望を育む為の施設。

 創立から今年で百年という節目の年を迎える神聖な学園は、尊敬と敬愛の念を込めて、人々からこう呼ばれている。


騎士魔学園ナイツマジック・アカデミー』と――






 賢英歴五〇七年、四之月。

『央都』の商人曰く、毎年この時期になると、学園は否応なく活気に包まれるのだそうだ。

 実際、その通りだとミリアは思った。

 飛竜の巨体を思わせる程の大きな校門を潜り、高さ十五メートル程の外壁で囲まれた学園内を見渡すと、周囲には新入生だけでなく、上級生らしき生徒達の姿も見受けられる。

 やれ新入生歓迎! だの、遠路遥々ようこそ学園へ! だの、校舎のあちこちに飾られた垂れ幕や横断幕の多さたるや。終いには色取り取りの紙吹雪を撒き散らす生徒の一団もおり、まさしく学園あげてのお祭り騒ぎとなっている。

『央都』に辿り着いた時にも感じた事だが、やはりミリアが暮らしていた田舎町とは、活気も人の多さも全く違う。

(うわぁ……、合格した人ってこんなにいるんだ……。やっぱり男の人の方が多い、のかな?)

 学園への入学希望者は毎年かなりの数になると聞いてはいたものの、実際に目にするとやはり驚かずにはいられない。

 職員から渡された資料を読み耽る者。

 友人同士で入学できた事を喜び合う者。

 初対面の人間に声を掛ける者。

 反応は人それぞれだが、皆浮き足立っているのが傍から見ていてもわかる。事実、ミリアもその中の一人だった。

(ちゃんと卒業できるかなぁ……。今から不安だよぉ……)

 入学したばかりだと言うのに、随分と気の早い事を考えるミリア。緊張と興奮に打ち震える色素の薄い少女の右手は、自然と胸元の宝物へと伸びていく。

(私、ようやくスタート地点に立ったよ。頑張って、立つ事ができたよ)

 瞳を閉じ、静かに、そっと思いを馳せる。

 今は亡き父と母に。

 あの時、自分を救ってくれた魔術師に。

「――じゃあ、ここからは別行動だな」

 校門から一直線に伸びる石畳の道を歩いて、校舎の傍まで来た時だった。先行していたエルクが立ち止まり、こちらを振り返りながらそう口にした。

「そうだね。本当はもう少し話したいけど、学科が違うから一緒に行動できないだろうし」

「……」

 残念に思い苦笑するミリアとは対照的に、やはりエルクは感情の掴み難い表情を浮かべている。

 学園に着く直前の会話が脳裏を過った事も相まって、ミリアは何となく気不味くなってしまう。

「……えーっと、そうだ。助けてくれて本当にありがとう、エルク。これから会う機会があるかどうかわからないけど、とりあえずよろしくね」

「……ああ、よろしく」

 言葉とは裏腹に、握手どころか笑顔すら浮かべない朴念仁は、困惑している少女の事などお構いなしで、何処かへ向かって歩き出してしまった。

 一人その場に残され、ミリアは溜め息をついて頭を垂れる。

(やっぱり怒ってたのかなぁ? 全然笑ってくれなかったし、受け答えも素っ気なかったし……)

 暗い気分のまま顔を上げてみるが、件の少年の姿は人混みに紛れてすでに見えない。

 悪いがお前に興味はない。

 と、そんな風に言われた気がした。もちろんただの被害妄想である。……多分。

「なーに暗い顔してんのっ!」

「うきゃあっ!!」

 突然、背後から誰かに肩を叩かれたミリアは、驚きのあまり声を上擦らせて叫んでしまった。

 幸い周囲の生徒達が騒がしい為、好奇の目に晒される事にはならなかったが。

「お、脅かさないでよ。びっくりするじゃない」

 振り向くと、驚かせた本人の方が驚くという本末転倒な状態で佇む、『騎士科』の腕章を付けた女生徒の姿があった。

 やや短めに整えられた茶色い髪に、紫黒色の瞳の少女。物腰に男勝りな活発さが感じられる彼女とミリアは、当然顔見知りである。

 少女の名は、バネッサ・ベザリアス。

 今から半年ほど前、学園の入学試験を受けた際に『ある事』をきっかけに知り合った、騎士を目指す女の子だ。見た目は華奢だが、本人曰く腕っ節は強いらしい。そんじょそこらの男には負けないと豪語していた事を思い出す。

 そんな友人に、ミリアは苦笑しつつ返答する。

「もー、それはこっちの台詞だよー……。声掛ける為にわざわざ脅かす必要あるの?」

「あっははっ、ごめんごめん。周りに全然知り合いがいないから困ってたんだけど、偶然あんたを見つけてさ。会うの久しぶりだったし、嬉しくなっちゃって」

「えっ? 知り合いがいないって、セシリーは?」

「ああ、あの娘なら職員の人に資料貰いに行ってるから、そろそろ――」

「バネッサー」

 会話の途中で、どこからともなく可愛らしい呼び声が響いてきた。二人が同時に視線を向けると、丁度一人の女子生徒が、不器用そうに人混みを避けて出て来た所だった。

 磨き抜かれた宝石のように煌く翡翠色の髪を、三つ編みのツインテールにしているあどけない顔付きの少女。制服の左腕には、ミリアと同じ『魔術科』の腕章を付けている。

 彼女の名は、セシリー・ウィンチェル。

 バネッサとは同郷で幼馴染という事もあり、家族同然の仲なのだとか。

「待たせてごめんね。資料もらってきふぎゅっ!」

 小走りで近付いて来ていたセシリーは突然、勢い良く前のめりに転んでしまった。

 地面に突っ伏す哀れな少女を、思わず見下ろす事数秒。

「……だからどうして何もない所でコケるのよ、あんたは」

「なんて呑気にツッコんでる場合じゃないよ! 大丈夫!?」

 酷なほど冷静なバネッサに代わり、ミリアは慌ててドジっ娘を助け起こした。

 明らかに顔面から逝ったように見えたのだが、意外にもセシリーは無傷なようで、

「あっ! ミリアちゃん、久しぶり! 元気だった?」

 などとこちらの心配をする始末。

(初めて会った時にも思ったけど、結構派手に転んでるはずなのに、ほとんど怪我してないんだよなぁ……)

 嬉しそうに顔を綻ばせるセシリーを見つめつつ、ミリアはふと物思いに耽る。

 ミリアがこの二人と知り合うきっかけになった『ある事』。それがまさに、今起きた出来事と似たような状況だったのだ。

 合格発表の日、学園を訪れたミリアは、目の前で突然盛大に転んだ女の子を助け起こした事があった。その少女こそがセシリーであり、彼女に何度もお礼を言われている所に遅れて現れたのがバネッサだった。

 そんな顛末から、三人はすぐに意気投合したという訳だ。

 知り合って間もないとはいえ、相変わらずな友人達の様子に、自然と頬が緩む。

「って言うか、あんたの方こそ大丈夫なの? さっきまで何か沈んだ顔してたけど」

 不思議そうな顔のバネッサに問われ、ミリアは数分前の記憶を思い出した。二人の登場にしてやられたせいで忘れ掛けていた、とある少年の事を。

「ううん、大した事じゃないよ。入学できたのが嬉しくて、ちょっと緊張してるだけ」

「そうなの? じゃあセシリーと同じね。大変だったんだから、緊張し過ぎてゴーレムみたいに硬くなっちゃったこの娘をここまで連れてくるの」

「もっ、もう! 言わないでよバネッサ!」

 恥ずかしそうに慌てるセシリーを見て、ミリアはもう一度笑みを零した。

 二人に余計な心配をさせる訳にはいかない。妙な事で思い悩むのはこれくらいにしておこうと、ミリアは気持ちを切り替える。

 それにあの少年は『騎士科』の生徒だ。何かの間違いでもない限り、『魔術科』の自分とはそうそう接点が生まれる事もないだろう。

 とにかく今は、始業式の事を考えていればいい。

「ねぇ、そろそろ式が始まるんじゃない? みんな移動し始めてるよ」

 目の前で戯れている二人に呼び掛け、ミリアは同じ方向に歩いていく生徒達に視線を送った。資料を持ってきてくれたセシリーによれば、始業式は大講堂で行われるらしい。

 流れていく人波に紛れ、ミリアは二人と談笑しながら歩き始めた。

 式場となる大講堂は、学園敷地の西側の一角に建てられている。職員の誘導に従って、昇降口のエントランスから廊下を進むと、大講堂の入口が見えてきた。

 開け放たれている扉を潜って中に入ると、一脚につき十人は座れそうな長椅子が、講壇の傍から入口付近まで規則正しく並べられている。硝子張りの窓からは日光が降り注ぎ、講堂内は屋外のように明るかった。

 浮き足立った生徒達のざわめきが響く中、ミリアはセシリーと並んで席に着いた。どうやら『騎士科』と『魔術科』で席を分けているらしく、バネッサは途中で別の方向へと進んでいった。

「バネッサ、一人で大丈夫かなぁ?」

 集められた『騎士科』の面々に視線を送りながら、セシリーは心配そうな声を出す。

 隣の少女につられ、ミリアも視線を向けてみた時だった。

 ミリア達からそう遠くない位置に、見覚えのある髪の色の少年が、静かに着席しているのを見つけたのだ。

(あっ、エルクだ。……何か、全然嬉しそうに見えないなぁ)

 周りの生徒達は皆、多かれ少なかれ感情表現が豊かだ。嬉しそう、楽しそうといった感情が、その顔を通じてある程度伝わってくる。

 だが件の少年はどうだろう。心此処にあらずというか、まるで感情そのものをどこかに置き忘れてきたかのように、ただ黙して虚空を見つめ続けている。

 同年代であるのは間違いない。なのに、歳不相応の落ち着きが感じられる。

 いや、落ち着きというよりも、むしろあれは――

「ミリアちゃん。どうかしたの?」

 問われ、ハッとしたミリアは、隣の少女に焦点を合わせた。不思議そうな顔のセシリーに、ミリアは首を横に振って応じる。

「ううん、何でもない。ちょっとぼーっとしてただけ」

「そう? ならいいけど。――あっ、そろそろ始まるみたい」

 講壇近くに並んでいる教師陣の一人が、トランペットのような形の拡声器を手に、生徒達へ静粛を訴える。すると、周囲のざわめきが徐々に収まっていった。

 ふと壇上を見ると、いつの間にか三十代中頃の男が屹立している。

 整髪剤か何かで整えられた黒髪。左胸に校章が刺繍された灰色のローブを纏うその姿は、厳しい表情を浮かべているせいもあってか、厳格な雰囲気を醸し出している。

「ようこそ我が学園、『騎士魔学園ナイツマジック・アカデミー』へ。この学園の校長を務めている、オズワルド・ヴァレンティアだ。新入生諸君! まずは入学おめでとう!」

 講壇上に設置された小型の拡声器が、オズワルドと名乗った男の声を、広い講堂内へと響かせていく。

(あの人が学園長……。何か、凄く若く見えるけど――)

 と、やや不謹慎な事を思っていた時だった。

 壇上から新入生達を見回していたオズワルドが、その双眸が、ミリアを捉えて一瞬止まった――ような気がしたのだ。

(……今、目が合った……? いやいや、そんな訳ないよね)

 単なる自意識過剰だと一人苦笑していると、隣のセシリーが肩をつついてきた。

「ん、何?」

 声を潜めて問い掛けると、同じくセシリーも小声で、

「ねぇ、ミリアちゃん。あのオズワルドって人と、知り合いだったりする?」

 と尋ねてきたのだ。

 質問の意図がわからず、ミリアは僅かに首を傾げる。

「ううん、初対面だけど……。どうして?」

「えっと……、私の気のせいかも知れないんだけど、あの人今、ミリアちゃんの事見つめてなかった?」

「えっ……」

 ただの自意識過剰だと思っていた事を第三者から指摘され、ミリアは思わず目を瞠った。

 もう一度、壇上に視線を送ってみる。しかし学園長はすでに続きを話し始めていて、こちらを気にしている様子はない。

「……ごめんね、変な事言って。やっぱり私の勘違いだったみたい」

 しばらく学園長を見つめていたセシリーも、勘違いだと思い直したらしく、申し訳なさそうに謝ってきた。

 気にしていないと身振りで伝え、正面に向き直るミリア。

 しかしその胸中には、何か釈然としない気持ちが残り続けていた。






 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






「初めまして、新入生諸君。キミ達の学年主任を担当する、リンディ・マーフェスだ。もう聞き飽きてはいるだろうが、入学おめでとう。心から歓迎する」

 式が滞りなく終わり、校庭に集められた新入生を見つめ、厳格な表情の女性教師が声を張り上げている。

 長い栗色の髪を馬の尾のように纏め、姿勢正しく屹立するその姿は、教師と言うよりどこか軍人のような雰囲気を感じさせる。

 カッコイイ女性だなぁ、とミリアは半ば見蕩れながらそう思う。

「何かあの人、やたらと厳つい話し方するわね。女の人なのに」

「ちょっとバネッサ! 聞こえちゃうってば!」

 すぐ隣では、バネッサとセシリーが実に彼女達らしい賑やかなやり取りを行っている。

 それを横目に見つつ、思わず苦笑した時だった。

「――諸君らは、竜に遭遇した事があるか?」

 それは、唐突な質問だった。

 リンディが発した少々威圧的な口調のせいか、或いは彼女の意図を計りかねたせいか、生徒達の間にざわめきが生まれた。

 すると軍人然とした女性教師は、素早くこう付け足す。

「ああ、そう構えなくていい。この場で個人の事情を掘り下げようなどとは思っていない。諸君らはただ、私の話に耳を傾けていてくれ」

 実に手際良く生徒達の動揺を宥めたリンディは、軽く咳払いをし、話を続けていく。

「私が初めて竜に遭遇したのは、十歳の頃だった。当時私の住んでいた村が飛竜の群れに襲われてね。否応なく、奴らの恐ろしさを知る羽目になった」

 軽く目を伏せ、語り続けるリンディの言葉に、口を挟む者は誰もいない。

 いや、恐らくは挟む事ができないのだ。

 竜の存在を知らない人間はこの世界、『ミッドガイア』にはいない。直接的にしろ間接的にしろ、皆一度は何らかの形で関わりを持つ事になる。

 事実生徒の中の一人、ミリア・クロードライトも、竜との遭遇を経験した者だった。

 彼らは慈悲を持たない。

 彼らには容赦がない。

 時に人間を捕食し、時に文明を破壊し、全てを絶望へ陥れる負の象徴。

 目を閉じれば、ミリアの脳裏には今もまだ鮮明に浮かび上がる。為す術なく逃げ回り、無力に泣き叫ぶ事しかできなかった、あの地獄絵図が。

(でも……私は生きてる。今も、こうして)

 幼い頃の暗い記憶に浸り掛けていたミリアは、僅かに首を横に振って意識を奮い立たせた。彼女の視線は、自然と胸元の首飾りへと下りていく。

 ほんの少しだけ力を込めて、紅い宝石を握り締める。たったそれだけの事で不思議と気分が落ち着き、活力が湧いてくるように思う。

 頬に緩く笑みを湛えていると、前方から厳しげな声が響き渡ってくる。

「まるで死神を思わせるが如きその姿が、かつての私には途方もなく恐ろしいものとして感じられた。生を取り零し、死を手にするかのような恐怖を、感じたのだ」

 ミリアが視線を戻すのと、語り部であるリンディが生徒達を見回したのは、ほぼ同時だった。

 凛々しい表情を取り戻したリンディは、締め括りとしてこう切り出した。

「竜の恐ろしさを知っている者も、まだ知らない者も、この学園の生徒となった事がどういう意味を持つか、心に刻み付けておいてほしい」

 ミリアも、バネッサとセシリーも、残りの生徒達も、無言で耳を傾け続けている。

 口を挟む者は、誰一人としていない。

「これは戦争だ。我々と彼らとの、絶える事なき戦争なのだ。そして戦うからには、諸君は何が何でも勝たなくてはならない。それが竜と戦う者に課された最大の使命だ」

 肩に伸し掛かるかのようなリンディの重い言葉に、生徒達はみな緊張した面持ちで佇んでいる。

 一陣の爽やかな風が校庭を吹き抜ける中、リンディは気分を変えようと考えたのか、咳払いを一つ挟んだ。

「――さて、前置きはこれくらいにして本題に入ろう。今からキミ達には、我が学園の仕来りである『儀式』を受けてもらう」

(……儀式?)

 聞き慣れない単語を耳にして首を傾げるミリア。周りの生徒達も彼女同様、首を捻ったり、傍らの者と顔を見合わせたりしている。

 生徒達の反応を静かに見つめながら、リンディは続ける。

「『騎士と魔術師は共に在るべし』。この理念は、かつて『竜王』を封印した者達によって説かれたものだ。――そう。今から百年前にこの学園を創立した、偉大な騎士と魔術師の理念だよ。我らが学園の創立者達に敬意を払うため、彼らの理念に基づき考えられた仕来り。それこそが今から行う、諸君らのパートナーとなる者を選定するための儀式だ」

「パートナー……」

 妙な期待と不安に刺激され、ミリアは思わず『騎士科』の面々に眼を配ってしまう。

 大柄で筋肉質な風貌の男子生徒もいれば、少々華奢で、騎士には不向きとも思える女子生徒もいる。

 この中の誰かが、自分のパートナーになる。

 そう考えると、ミリアは緊張せずにはいられなかった。

 戸惑うミリアを尻目に、リンディからの説明は続く。彼女の右手にはいつの間にか、紫黒色の丸い物体が握られている。

「これは『精魔石エレメント・ストーン』と呼ばれる、魔術を行使する上で使用頻度の高い特殊な鉱石だ。『魔術科』の者は、今後授業で使う事もあるから覚えておくように。今からこの石を、一人一個ずつ取りに来てもらう。順番に優劣はないから、焦らなくていいぞ」

 リンディに促された生徒達が、次々に彼女の許へと歩み寄り始めた。

 ミリアも他の二人と一緒に、ゆっくり前へと進み出る。リンディの傍らに置かれている円台の上には、掌に収まる程の大きさの、紫黒色の鉱石がいくつも転がっている。それらは全て真珠のような光沢があり、よく見ると滑らかな球形ではなく、表面にやや凹凸がある。

 どれを取ろうか一瞬迷ったミリアだったが、とりあえず一番手前にあった石を右手で掴む。持ち上げると硬い感触と共に、中々ズッシリとした重みが伝わってきた。

「――よし、全員に行き渡ったようだな。ではこれより、パートナー選定の儀式を開始する!」

 丁度ミリア達三人が元の位置に戻ってきた所で、気合いの入ったリンディの掛け声が響いてきた。

(えっ! も、もうっ!? まだ心の準備が……!)

 内心でやや狼狽するミリアが、ふと地面に視線を落とした瞬間だった。


 ミリア達を囲むようにして青紫色の光を放つ何かが、地面に浮かび上がったのだ。


(! これって……)

 突然の出来事に生徒達のざわめきが広がる中、ミリアは即座に理解した。

 これは魔術だ、と。

 地面に出現した青紫色の正円の内側には、不可思議な形の記号や文字列が、何らかの法則に従って規則正しく配置されている。

 ふとリンディを見やると、瞳を閉じて何かを呟いている。

(あれが呪文の詠唱、なのかな……?)

 魔術師について漠然とした知識しか持ち合わせていないミリアには、そういった予測を立てるのが精一杯だった。

 だが同時に、胸の内から身体が火照るかのような高揚感が湧き上がってくる。

(もうすぐ私も、この神秘的な力を扱えるようになるんだ!)

 魔術師になりたいという、長年夢見てきた目標が、自分の手の届く所にまで来ている。そう実感できるからこそ、自然と笑みが零れ、足許から発せられる青紫色の光に愛おしさすら感じてしまう。

 先程『精魔石エレメント・ストーン』を手にした時とは、また違った意味で呆然としていたミリアの耳に、運命を決める声が響く。

「『魔術科』の生徒諸君。入学試験の際に、『魔力精製』のやり方は習っているな? その魔法陣の内側に立ったまま、キミ達の手にある『精魔石エレメント・ストーン』に魔力を流し込め。そうすれば自動的にわかるようになっている。キミ達の運命の相手となる者がね」

 自動的にわかる、とはどういう事だろう?

 内心で首を傾げつつも、ミリアは『精魔石エレメント・ストーン』を両手で、優しく包み込むように持ち直した。

 ゆっくりと瞳を閉じ、意識を手の中の鉱石だけに集中させる。

 魔力を込めるとは例えるなら、自分自身の熱を触れた何かに伝達させるイメージで行う、全ての魔術の基本となる事柄だ。

 ミリア自身、何度も失敗を繰り返したが、練習を積み重ねていく内に、今では呼吸するのと同じくらい容易にできるようになった。

 作業を終え、双眸を開いた次の瞬間。

精魔石エレメント・ストーン』の中心から紺碧色の光が発生し、それが弧を描きながら、魔法陣内のどこかへと向かって伸びていく。どうやら光の行き着く先は、前方に出来た人垣の向こうのようだ。

 ふと周囲を見ると、牡丹色、翡翠色、黄金色といった多種多様な色彩の光達が、眩いばかりに校庭を照らし出している。

「わぁ……!」

 色鮮やかな光景に、自然と頬が綻ぶ。周囲に光達は、まるで地上に虹が降りてきたかのようだ。

「――って、あれ? 二人共、それ……」

 光の行く先を確かめようと歩き出そうとした所で、ミリアは気付く。すぐ隣で発生している翡翠色の光が、やけに近い距離にある鉱石同士を繋いでいる事に。

 鉱石を持って互いに複雑そうな顔を浮かべているのは、もちろんバネッサとセシリーである。

 めでたくパートナーとして選ばれた相手が、自分のよく知っている人間だった事を喜ぶべきなのか、はたまたその逆か。

 いずれにしろ、二人は同時に観念したらしく、

「とりあえず、これからもよろしくね、セシリー」

「こちらこそ」

 と言いながら、互いの右掌を軽く打ち付けあった。

 そんなやり取りを見届けてから、ミリアは止まっていた両足を前進させた。

 手の中から溢れるこの紺碧色の光の先に、自分のパートナーとなる誰かがいる。

 その事実を再確認したからだろう。先程からミリアの心臓は、忙しなく高い鼓動を刻んでいる。

(誰だろう、私の相手。男の子かな? それとも女の子かな? ……どっちにしても、怖い人じゃありませんように……)

 祈るような気持ちで、ミリアは人混みを躱しながら、ゆっくりと自分の道標を目で追っていく。

 やがて視界が広くなった所で立ち止まり、少々乱れていた息を整えるミリア。

 顔を上げ、緩く弧を描きながら伸びている光の先を確かめる。すると、そこに静かに佇んでいたのは――


 透き通った青空のような色の髪を生やした、エルク・ディアフレールという名の少年だった。


 確たる現実を、事実を目の当たりにしたミリアは、しかしすぐにそれを受け入れようとはしなかった。

 光の行く先を何度も確認してみたり。

 両目を強く瞬かせたり、或いは擦ってみたり。

 が、最早何をどうしても無意味であると納得するまで、そう時間は掛からなかった。

 エルク・ディアフレール。

 あの少年こそが、自分のパートナーとなる騎士なのだ。

(これは……喜ぶ場面、なのかな?)

 ほんの数分前の、バネッサとセシリーの複雑そうなやり取りが思い出される。きっと彼女達も、今のミリアと似たような心境だったに違いない。

 相手が相手だけに、素直に喜ぶ事も出来ないまま、ミリアは恐る恐る、小動物のような足取りで青い髪の少年に歩み寄った。

「あ……あの、よろしくね。エルク」

 おずおずと口にしたミリアは、ふと顔を上げた少年と目が合ってしまった。

 やはり目付きの鋭さが気にはなるが、素直にカッコイイと言える顔立ちをしている。全く失礼かつ勝手な自己判断だが、間違いなく同年代の女の子にモテる容姿だろう。

 少年は右手の石とミリアの顔を交互に見つめた後、

「……ああ。よろしく」

 と静かに、短く呟くだけだった。

 相変わらず興味なさげなエルクの反応に、ミリアは思わず口を噤んでしまう。

 言うべき言葉が見つからない。何を話せばいいのかわからない。

 そうして一人悶々としている間に、無情にも試合終了を告げるリンディの声が響き渡る。

「どうやら全員パートナーは見つかったようだな。これから先、両学科合同での実習や試験がある場合は、必ず目の前のパートナーと共に臨んでもらう事になる。共にこの学園で学ぶ者同士、互いを高め合える関係を築いていってほしい」

 締めの言葉と共に、ポケットから取り出した懐中時計を一瞥したリンディは、再度声を張り上げる。

「それではこれから、両学科に別れて校内を回る。各自『精魔石エレメント・ストーン』を台の上に返却して移動を始めてくれ」

 足許に浮かび上がっていた魔法陣が音もなく消滅していく中、生徒達が次々に石を返却し、先導する職員に倣って校庭を後にしていく。

 立ち尽くすミリアの横を素通りし、生徒達の波に一人混ざっていくエルク。

 前途多難。

 それが少年の背中を見送るミリアの脳裏に浮かんだ、唯一の言葉だった。






 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






「ふーん。式の前にそんな事がねぇ……」

「でも良かったよ、ミリアちゃんに怪我がなくて」

 宿舎の三階。窓から射し込む西陽に照らされる室内。壁際に三つ並んだベッドや、真新しい作業机に収納棚。四角い間取りの部屋の中、ミリアを含めた三人は、思い思いの場所に腰を掛けている。

騎士魔学園ナイツマジック・アカデミー』は、全寮制の学舎だ。大平原を利用した広大な学園敷地の一角に、生徒達が寝起きする為の寮は設けられている。

 式の後も、学内の各施設の説明やクラス分けなど、新生活の準備が忙しなく過ぎていき、気付けば夕暮れ間近の時刻となっていた。

 職員によって、最後に学生寮へと案内されたミリア達新入生は、男子と女子に別れて部屋割りを決める事になった。そこで何の因果か、ミリア、バネッサ、セシリーの三人は、実に不思議な縁の強さを発揮し、同室という奇跡を招き寄せたのだった。

 夕食の時間まで自由時間となった事もあり、三人は荷物の整理を終えてから雑談に耽っていた。

 自分の出身地や過去の話、楽しい話や暗い話を続ける内に、いつの間にかミリアは、今朝学園を訪れる際に起きた出来事を二人に話していた。

 竜に襲われ掛けたと告げた途端、二人は大騒ぎになったが、よくよく経緯を説明すると落ち着きを取り戻し、安堵したように息を吐いたのだった。

 作業机の椅子の背凭れに身体を預けつつ、バネッサは視線を天井付近へと向ける。

「エルク・ディアフレール、か……。まぁ、確かに取っ付きにくそうな感じの人よね。感情が表に出ないって言うか、他人に興味がなさそうって言うか」

「あれ? バネッサ、エルクの事知ってるの?」

 首を傾げつつ尋ねると、バネッサは視線を戻して呆れたような表情を見せた。

「当然でしょ。私もあの人と同じ『騎士科』のAクラスなんだから」

「あ、そっか……」

 指摘され、今更のように思い出す。パートナーの選定後に行われたクラス分けで、ミリア達新入生はAからDの四クラスにそれぞれ割り振られたのだ。

 ミリアとセシリーが『魔術科』Aクラスなら、バネッサは『騎士科』Aクラス。そこに同じくAクラスのエルクがいるのは当然である。

 我ながら間抜けな発言だったと反省するミリアに対し、バネッサは意地の悪い笑みを浮かべてみせる。

「って言うか何何? パートナーになったばっかりだってのに、もう呼び捨てにするような仲になった訳?」

「だ、だって本人が敬語はいらないって言ってたんだもん! それに、『ディアフレールさん』だとちょっと長いし……」

「ふーん、まぁそういう事にしておいてあげましょう」

 したり顔でひらひらと手を振るバネッサ。その様子から察するに、今後もしばらくはこの手の話題で弄ってくるつもりに違いない。

 意地の悪い友人に、腰掛けているベッドから恨めしい念を送るミリア。すると、隣のベッドの端に座っているセシリーが口を開く。

「それにしても凄いね、そのエルクって人。まだ入学したばっかりなのに、一人で竜を追い払っちゃうなんて」

「うん、それは確かにそうなんだけど……」

 驚嘆しているセシリーに対し、ミリアは曖昧な相槌を返した。

 自分が助けてもらったのは間違いない。だがあの時の出来事に関しては、疑問や不明な点が残っているのも事実だ。

 ――魔術師は万能な存在なんかじゃない。

 どこか切なげに揺れていたエルクの瞳。本人に聞いた訳でもないのに、あの瞬間ミリアには、少年の過去の闇を垣間見てしまった気さえした。

 一体何があったのだろう、とミリアは思う。

 偶然にしろ運命にしろ、あの少年は共に学び合う大切なパートナーとなったのだ。ならば自分に、何かできる事はないのだろうか。

 助けてもらったお礼に。

 ほんの少しでも、彼が過去の柵から解き放たれるように。

「……ミリアちゃん。大丈夫?」

 いつの間にかぼんやりしてしまっていたのだろう。心配そうな顔をしたセシリーに問われ、ミリアはハッとする。

「あ、ごめんごめん。ちょっとぼーっとしちゃってた」

「……夕食が終わったら、今日は早めに休もうか。特にあんたは竜に襲われたんだし、夜更かしすると色々引き摺っちゃうわよ?」

「うん、そうする。ありがとう、二人共」

 どうやら二人は、竜に襲われた恐怖をミリアが拭い切れていないと思ったらしい。

 気を遣わせてしまった事を申し訳なく思いつつ、ミリアは部屋の窓から見える夕陽に視線を向けた。

 入学したばかりで弱気になってなどいられない。

『あの人』のように、誰かを守れる魔術師になる。

 その願いを叶える為に、できる事は何でもやろう。無論、エルクに何かしらの恩返しをする事も、今後の目標の一つだ。

 ミリア・クロードライトにとって、ここはあくまで出発点であり、終着点ではないのだから。

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