ドラゴナイズ・シンドローム
エスパー
Prologue 竜と少女と少年
なぜ歩いて学園に向かおうなどと思ってしまったのか。
短絡的な自らの行いを、ミリアは酷く後悔した。
央都『グロリアガルド』から東へ約二キロ。街道から少し外れた、緑豊かな大平原の一角に佇んでいるのが、ミリアが入学を果たした学舎、『
今日は待ちに待った入学式当日。
『
現在地は、大平原に向かう街道から外れた、雑木林の真っ只中。整備された街道と違って、少々凹凸の目立つ湿り気を含んだ地面。木々の隙間から陽光は差し込むが、昼間でも若干薄暗い。
人によっては通る事を躊躇いそうな林道だったが、大平原への近道だと聞いた事があったミリアは、然して気にしなかった。
だからここを通れば、すぐに学園へ辿り着けると思っていた。
予想だにしない障害が、目の前に現れるまでは。
『それ』と鉢合わせした瞬間、ミリアは反射的に立ち止まっていた。
六、七メートルほど先に、こちらの進路を妨害する形で佇んでいる異形の影。
薄緑色の鱗に覆われた、三メートル程の体躯。頭部に備えた太い角と、肉を噛み千切る事に特化した強靭な牙。四本足ではあるが、強靭な後ろ足で体重を支えて人間のように歩行している。後ろ足よりも若干細い前足に備わっているのは、獲物を捕らえるための鋭い鉤爪だ。
蛇のように長い尾は、まるでミリアを威嚇しているかのように、忙しなく動き回っている。
生まれて初めて目にする存在、という訳ではなかった。むしろ、かつて目にした事がある存在だからこそ、その恐ろしさを知っている。
遥か昔から、この世界を蹂躙し続けている魔物。
『竜』と呼ばれる、人類の天敵たる存在だ。
ミリアはすぐにでも逃げ出したい恐怖に晒されながらも、どうにか対峙している相手の様子を窺った。
もし背を向けて駆け出そうものなら、竜は確実に、ミリアを獲物と認識して追い掛けてくるだろう。
相手はそれだけ凶暴で、獰猛で、危険な存在なのだ。
だが動かずにいた所で、結果は火を見るより明らかだ。現に竜は少しずつ、ミリアとの距離を縮めつつある。低い唸り声を上げながら、品定めするかのようにミリアを睨み続けている。
もう駄目かも知れない。自分はここで、竜に襲われて死ぬのだろうか。
漠然とした死の恐怖がミリアの右手を勝手に動かし、胸元のペンダントを握らせる。
首から下げられた銀の鎖に繋がれている、花形の銀細工。中央に紅い宝石が埋め込まれた、ミリアにとって大切な宝物。
もう二度と、これを握り締める事はできないのか。憧れを抱き、目標としてきた『夢』も果たす事ができず、十五年という短い人生に幕を下ろす。
悲壮感が一気に押し寄せてきたミリアの心は挫け、いつの間にかその身体は、地面に腰をついていた。
竜の重たい足音が、その歩調の間隔が、徐々に速くなっていく。
最早現実を直視する気力すら失ってしまったミリアは、両目を固く閉じた。
その直後――
爆音が、炸裂した。
突然響き渡った音の大きさに身を竦ませてしまったミリアは、固く閉じていた目蓋をさらに強く引き結んだ。
何が起こったのかはわからない。
一瞬、竜が自分に噛み付いた音が鼓膜を刺激したのかとも思ったが、違う。
身体に痛みはない。それに気のせいでなければ、自分のすぐ傍に人間と思しき気配がある。
恐怖心と必死に戦いながら、ミリアはゆっくりと両目を開いた。
徐々に明瞭になる視界。その中に、見知らぬ人影が佇んでいる。
竜と自分の間に立ち塞がっていたのは、雲一つなく晴れ渡った天空のような、青い髪を生やした少年だった。
「……あなた、誰?」
呆然と呟いたミリアを一瞥することもなく、少年は落ち着き払った様子で竜を見据えている。
「……ペリドット級、ディノドラゴンか。学園の傍にも出没するとは油断ならないな」
少年の口から放たれた言葉は、ミリアの問いに対する返答ではなく、竜に対する独り言だった。
よく見ると、今まさにミリアを襲わんとしていたはずの竜が、数メートル離れた位置に倒れ込んでいる。
(吹き飛ばされてる……? じゃあさっきの大きな音は……)
少年が竜を凪ぎ払った衝撃音、だったのだろうか。いずれにしても、目を瞑っていたミリアには何がなんだかわからない。
「おい、あんた」
「はっ、はいっ!」
未だ呆けたままだったミリアを一喝するかのように、少年の冷静な声が響き渡った。
思わず立ち上がって姿勢を正すミリアに、少年は続ける。
「巻き添えになりたくなかったら、少し離れてろ」
そう言って少年は徐に、右手を腰の辺りへと伸ばした。
そこでようやく、ミリアは気が付いた。少年の腰に、鞘に収められたロングソードが下げられている事に。
しかも、それだけではなかった。
少年が身に纏っているのは、ミリアと同じ学園から支給されたブレザーだった。ミリアとの相違点と言えば、腰に下げられたロングソードと、ブレザーの左腕部分に付けられている緑色の腕章だ。
布地の腕章には、白い糸で小さな星が一つと、獅子の顔が刺繍されている。
(学園の制服に『騎士科』の腕章。じゃあこの人も……!)
ミリアが目を瞠るのと、少年がロングソードを引き抜くのは、ほぼ同時だった。
瞬間、地面を踏み砕かんばかりの勢いで、少年は竜に向かって突貫した。
躊躇いも迷いも一切感じられない、疾風のような挙動。だがそれは、相手の側も同じだった。
自身を吹き飛ばした少年を明確な敵と判断したらしい竜は、鋭い咆哮を上げながら襲い掛かってくる。
「ふっ!」
頭蓋を噛み砕かんと迫る竜の胴体目掛けて、少年は素早く袈裟斬りを放った。
直後、金属同士がぶつかった時のような、甲高い衝撃音が鳴り響く。竜が纏っている強固な鱗が、ロングソードの刃を受け止めたのだ。
「ダメだよ、逃げて! 普通の攻撃じゃ竜には――」
効果がない、と続けようとするミリアを無視するかのように、少年は剣を力任せに振り払った。
金属が擦れ合うような不快な音と共に、両者の間合いが開く。
「シュギャアアアアアアッ!」
異変が起きたのは、その直後だった。
苦しげな悲鳴を上げ、大きく後退る竜。よくよく見ると、左肩の辺りに真新しい傷口ができていて、そこから静かに、だが軽度とは言い難い量の鮮血が流れ始めている。
俄かには信じられなかった。あろう事か目の前の少年は、途轍もない強度を持っているはずの竜の身体に、強引な力業で傷を付けたのだ。
唖然とするミリアを他所に、少年は刀身の一部が紅く染まった剣を一払いする。
その行動が、手負いの竜に圧力を与えたのだろう。竜は踵を返して走り出すと、雑木林の中へと消えていった。
「――怪我はないか?」
しばらくの間呆然としていたミリアは、少年に声を掛けられてハッとした。焦点を戻すと、ロングソードを鞘に仕舞う少年と目が合う。
林道を吹き抜ける風に揺らぐ、やや長めの青い髪。目鼻立ちが整っていて端正な顔付きではあるものの、何の感慨も浮かんでいない様子の表情からは、少々近寄り難い印象を受けてしまう。
「あっ、はい。平気です。あの、ありがとうございます。おかげで助かりました」
「……礼なら必要ない。大した事をした訳じゃないからな」
少年から返って来たのは、謙遜しているかのような言葉だった。人助けをした人間は、大抵こういう台詞を口にするものだ。
だがどういう訳か、ミリアにはその言葉が謙遜には聞こえなかった。まるで、礼を言われる事を拒否しているかのような、冷たさが感じられた。
自分の感覚に内心で戸惑いながらも、ミリアは続けて少年に声を掛ける。
「私、ミリア・クロードライトって言います。あなたは?」
「……エルク・ディアフレールだ。自己紹介をするのもいいが、早くここから離れた方がいい。さっきの竜が、また戻ってくるかも知れないぞ」
「えっ? あ、あの……!」
酷く事務的な口調で言葉を紡ぐと、エルクと名乗った少年は、足早に歩き出してしまう。
遠ざかる背中をしばらく見つめていたミリアは、しかしふと疑問を感じた。
先ほどエルクが現れた際に生じた、竜を吹き飛ばすほどの爆風。あれは一体何だったのだろう?
あの瞬間、ミリアは咄嗟に目を瞑ってしまった為、何がどうなっていたのかは判然としない。しかしあの爆風は、エルクが現れた事で生じた現象のように感じられたのだ。
自然現象にしては不可解な強い風。しかもそれは、竜を吹き飛ばすほどの威力を持っていた。
仮にあの風が、何らかの力によって引き起こされた現象なのだとしたら。考えられる可能性は……
(まさか、魔術……? でも、そんな訳ないよね?)
自らの意見を内心で否定しつつ、ミリアは自分の胸元に視線を下ろす。
ミリアが着ているのは、紅と黒を基調とした学園指定の学生服。その左胸の部分に金色の糸で刺繍されているのは、守護者の証を表す楯の中心に、獅子と山羊の頭を持った想像上の生物である『キマイラ』が配置された、特殊な形の校章だ。そして左袖には、白と緑を基調にした腕章が付けてある。
ミリアが入学した学園、『
『魔術科』を選んだ者には、魔術師を表す山羊の頭が記された腕章が。
『騎士科』を選んだ者には、騎士を表す獅子の頭が記された腕章が。
各学科の生徒達に配付される。
この二つの内、エルクと名乗ったあの少年が付けていた腕章は後者、『騎士科』の生徒を示す物だった。しかも刺繍されていた星が一つという事は、彼も新入生である事を意味している。
『騎士科』の生徒が魔術を行使できるはずがない。
例え『魔術科』の生徒であっても、まだ授業すら始まっていない現段階に於いて、新入生の中に魔術を扱える者がいるとは到底思えない。
つまり、エルク・ディアフレールが魔術を行使した可能性は、万に一つもないはずなのだ。
(気のせいだったのかな……?)
やや首を傾げ、もう一度エルクの背中を見つめてみた所で、はたと気付く。命の恩人たる少年の背中が、かなり離れてしまっている事に。
「ち、ちょっと待ってよ!」
声を上げつつ、スカートに付いた土を急いで払い落とし始めるミリア。怖い思いをしたばかりだというのに、こんな所に一人取り残されるなんて堪ったものではない。
数秒で身なりを整えたミリアは、緩く波打った薄紅色の髪を風になびかせながら、少年の後を追った。
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