第一章 天晶転輝

曇天穿つ蒼



 数千年もの遥か昔、この世界に滅亡の危機が訪れた。


 人類は幾年に渡って知恵と努力を積み重ねて進化した技術で世界を発展させてきたが、その技術から生み出された殺人兵器を使用した慈悲無き戦争が世界各地で同時に始まったのだ。戦争は瞬く間に世界の自然や建造物を破壊し、人の住む場所は全て瓦礫の山だけに変えた。

 更には生命を破壊する汚染物質が世界中に広がり、地も海も空も穢れ、文明は死に、生命は生き抜く力を失ってしまった。

 子孫を残すこともままならず、全生物は絶望の中ただ絶えるのを待つのみかと思われた。


 しかし突然、虹色に輝く一筋の光が空を貫いた。


 その強く美しい光は世界を照らし、世界中の穢れを瞬く間に祓ったのだ。

 世界を救ったその光の正体は――石だった。


 つややかな球体で、オーロラのようにとりどりの色彩を持った神秘的なその石は、世界を救ったことから≪神石――スペクトラ≫と呼ばれるようになる。

 それから神石スペクトラは無数の小さな欠片をその身から生み出した。

 やがてその欠片たちは光の力で自身を地上の生き物に似た形へと変え、それぞれが言葉を発し、世界を感じ、人間のように自己を示した。

 彼らは共通して宝石のように美しい瞳をもっており、神秘的なその姿を見た人々は彼らを神石スペクトラの子であり御使いだと崇め、奇跡の種族――≪輝晶精霊ミネレイ≫と呼ぶようになった。ミネレイは光の力で穢れを祓い世界の安寧あんねいを維持しながら、世界中のあらゆる生物との共存に成功する。

 そして光の力――≪輝力きりょく≫は、何百、何千年にもわたって生物の進化、発展、新たなる文明の開化、そして生活の支えとなったのだ。


「……こうしてミネレイは、世界で様々な伝説をつくりながら奇跡の種族として現在まで人々に崇められる存在となり――」


 小雨が地面を濡らす昼間、木造の小さな平屋の座敷で、眼鏡をかけた五十代の女が古びた書物を片手に語った。雨漏りが桶に受け止められるたびに響く水音と、書物の頁をめくりながら語る女の落ち着いた声だけの静かな空間だった。

 女と向かい合う様に、十代の七人の子供たちが机を挟んで座っており、机に広げられた本に落書きをしたり、筆記用具を手でいじったり、女の講義を黙って聞いていたりしている。


 そのうちの一人である茶髪の少年コウは、机に頬杖をつき自身の鉛のように重い瞼と格闘していた。

 微かな雨音と抑揚の弱い女の声が睡魔を強く誘っている。コウはとうとうそれに抵抗する気を失い、完全に瞼が閉じられようとしたが――パンッ、とコウの正面で小気味の破裂音が鳴り、コウはその音にぎくりと肩を揺らして目を見開いた。

 目の前には眼鏡の女が閉じた本を片手にコウを睨んでいた。


「コウ、居眠り一回につき教室掃除三日!」


 破裂音を鳴らしたのは、目の前の女だった。女が手にしていた本を勢いよく閉じた音だったのかとコウは理解したが、そんな事よりと勢いよく立ち上がり、女が言い放った言葉に食い下がった。


「まだ寝てない、ギリギリだった!」

「異論は認めません! 今週の掃除担当はコウに決まりです」


 コウの抗議はあっさりと一蹴された。反論の余地も与えられず、コウは悔しげな表情で座り直した。二人の様子を見守っていた子供達がコウをみて何か言うでもなくニヤニヤと笑っているのを、コウは横目で睨んだ。

 それからすぐに平屋の外から鐘が三度なった。それは一日が半分過ぎた事の報せであり、この平屋での講義の終了の合図でもあった。鐘の音がなった瞬間にコウ以外の子供達が飛び跳ねるように立ち上がった。


「じゃ、コウよろしくな~!」


 子供の一人がコウをからかう様に言うと、他の子供たちときゃははと笑いながら忙しなく足音を立てて座敷を出て行く。コウは子供たちを無言で睨みながら見送った。


「それじゃあ、掃除用具の場所は――ってもうわかってるわね、常習犯なんだから。鍵はいつもの所にね」


 女は銀縁の眼鏡を外し、いそいそと帰り支度を始めながら言った。コウは不機嫌を隠す事無く頷く。女はコウの態度を気にも留めずに平屋から出ていった。


 あっという間に一人になったコウはため息を吐きながら座敷の隅の棚にしまわれている掃除用具を持ち出した。机に放置された教材や筆記用具を投げるように乱雑に棚にしまい、はたきで埃を適当に落し、机、窓や棚を雑巾で素早く乾拭からぶきをする。

 女の言った通り、居眠り常習犯のコウは頻繁に掃除当番の罰を与えられいたために作業に迷いの手は無い。適当かつ慣れた手つきで清掃を終え、掃除用具の片付けまで即座に終わらせると、足早に平屋を出る。教卓に置かれていた鍵で施錠をし、戸締り確認まで終わらせるとその鍵を軒下の植木鉢の下に隠した。


「さてと……」


 コウは小さく呟き、周りを見回す。雨は止んでいるが、白いもやが街を白く霞んだ世界に変えていた。コウの周囲には人一人見当たらない事を確認すると、コウはいくつもの家屋が連なる路地に入り、迷わず一直線にある方向へと足を進めた。


 細い路地を抜けると、コウの視界には収まらない程の長く大きな”壁”が広がった。十メートルほどの高さがあるそれは全て木で造られており、焦げ茶色の防腐加工が施された樹皮が雨に濡れて艶めいている。

 コウは周囲に人がいないか確認してから小走りに壁へと近づき、壁の頂上へと続く階段を駆け上った。


「――よっと」


 最後の一段を上がり、コウは一息つきながら壁の上から下の街を眺めた。白い霧が街を覆っており、街の様子はわからない。それは下から壁の上の様子がわからない事と同じだった。

 それからコウは空を見上げた。上空は霧がかってはいないが、灰色の雲に覆われた曇天だった。コウは深く息を吸い、目を閉じた。


 今、この世界には二度目の世界滅亡の危機が訪れていた。


 世界を救ったミネレイの奇跡すらもくつがえし、世界を恐怖と絶望の底に叩き落とす事件が起きた。

 十年前、ミネレイが持っている穢れを祓う浄化の力とは全く正反対の力を持った恐ろしい"何か"が、空から降ってきたのだ。


 それはあらゆる生物の身体や精神を捻じ曲げ、理性を壊し、負の感情や狂気だけを増幅させる邪悪な力をもち、対抗手段であった輝力きりょくを封じ込めるために、太陽を厚い暗雲で隠してしまったのだ。

 朝に昇る陽が大地を照らし、夜に沈むと月が替わりに輝きを放つ、当たり前だったことが無くなった。昼間は陰鬱で薄暗く、夜は全ての光を遮断した酷寒の暗黒世界に変貌した。


 太陽を失った世界で、不浄の力は瞬く間に拡散した。


 十年間、世界はミネレイと共にその不浄の力に抵抗し続けたが、殆どのミネレイは太陽の光で生み出していた輝力を大きく失った事で戦う事も出来ずに混沌に飲み込まれてしまった。


 やがて生き物もその混沌の力に飲まれ、あるべき姿を失った魔物――≪フォールン≫へと変貌し今もなお増え続け、確実に世界を絶望へと誘っていた。


「……こんな世界で、どうやって生きていけいうんだ」


 硬く閉じていた瞼を開いたコウは、今度は厚い雲に覆われた灰色の空を睨むように見上げた。


「コウ! こんなところに居たんだね?」


 曇天をじっと見上げていたコウの背後から、少女の声がコウを呼んだ。

 コウがその声に反応し振り向くと、毛先が紫がかった、薄緑色の長髪を二つに結んでいる幼い少女が腰に手を当ててコウを睨みつけていた。髪の色と似た淡い薄緑の長着に、暗い緑の袴姿で、背筋がピンと伸ばされた少女の佇まいは幼い顔つきに反して堂々としており、大人びている。コウは少女の姿を捉えると、面倒くさそうに眉を顰めた。


「フローラ」


 コウが目の前の少女——フローラの名を呼ぶと、フローラは再度口を開いた。


「コウ、"壁"には近づかないって約束したよね?」


 フローラの言う壁とは、コウたちが立っている場所の事であった。

 コウたちが住む街、≪カガリ≫の中の一部分だけを囲う様にして出来た木造の壁。十メートルほどの高さである壁は一番高い建造物である為、普段は上から街の全貌や、街の外までもがはっきりと見える。


 何故、カガリの一部を隔離かくりするように大きな壁があるのかと言うと、生物を襲い平穏を脅かすフォールンの攻撃から身を護る為だった。

 高い位置からは遥か遠方までも見通せるため物見になり、さらにはこの壁の存在は住民を安心させる効果もあった。崩壊した外の街を極力視界に入れない事で精神的な負荷の緩和に繋がった。


 ――フォールンがいつどこから現れるかわからないため、壁に近づくのは禁止。


 そう言えばいつかそんな約束をしたかもしれない、とコウは曖昧に記憶を掘り返していた。コウは明後日の方向へと向けていた視線をフローラの方に戻すと、フローラの髪の色と同じ緑と紫が内包された神秘的な瞳がコウをじろりと睨みつけていた。


「あぁ……忘れてた、今思い出した」


 コウが反省の色も無くそう言うと、コウを睨みつけるフローラは、眉間の皺を一層深めた。


「もう! 鐘が鳴っても全然帰ってこないからまさかと思ってきてみたら……」

「悪かったって。次行くときは言うから」

「ちょっと、言う言わないじゃなくて行かないの! コウ、壁の外がどれだけ危険なのか――」

「ジョーダンだって」


 コウは面倒くさそうに呟くと、壁の外の街に視線を戻した。風が吹き始め、街を覆う霧が晴れた事で見えたその景色を睨むように一瞥し、背を向けた。


「コウ。お説教の続きは帰ってからね」

「ハイハイ」

「ハイは一回!」


 コウは逃げるが勝ちだとフローラの脇を通り過ぎ早足に下り階段へと向かって行った。

 しかし、コウが階段の手すりに触れた瞬間、隙間風の音の様な低い風の音がどこからともなく小さく聞こえて思わず足を止めた。


「……何の音だ?」


 コウは周囲を見回した。特にこれと言った変化は見られないが、音はだんだんと大きく、強く、近くなっている事に気付く。そして、びりびりと鼓膜を震わす轟音へと変わっていくその音の出所が地上ではなく――遥か”上空”からだという事にも。


 コウは弾かれるように顔を上げた。灰色の空から一点の塊が、凄まじい速度で落ちてきている。


「あ、あれはなんだ⁉︎」


 その塊は青白い光を点滅させながら、コウの真上を豪速で一気に通過する。一瞬だけ近づいたそれが何なのか目で追う暇もなく強い風が吹き荒れ、コウの身体が浮いた。

 コウは慌てて階段の手すりに手を伸ばすが、指が滑って掴むことができなかった。


「コウ!」


 伸ばされていたコウの手首を小さな手が掴み、コウの落下を阻止した。コウの掴んだその手はフローラのものだった。

 フローラは見た目からは想像もつかない程の強い力でコウの身体を簡単に引っ張り上げた。コウは掴まれていないもう片方の手で今度こそ階段の手すりをしっかりと掴み、体勢を立て直す。


「大丈夫?」

「あ、あぁ。今のは何だったんだ? ≪落冥ファル≫にしては、少しヘンだったけど」


 不安げな表情で問うコウにフローラは壁の外を見つめながら「わからないけど、もしかしたら……」と呟いた。


「コウ、今の音でフォールンが集まってくるかもしれないから、街の警備にあたってる人達に壁外周の警戒を強めてもらえるように言ってきてくれるかな?」

「フローラはどうするんだ?」


 フローラはコウに振り向き、真剣な声色とは反した穏やかな笑みを作った。


「様子を見てくるね。すぐに戻るから」

「は、ちょっと待っ――」


 フローラはコウの返事も聞かずに、「よろしくねっ」と言い残して壁の外へと跳びおり、姿を消した。コウはフローラを引き留めようと咄嗟に伸ばしていた行き場の無い手を頭にやり、自身の髪をくしゃりと掻いた。


「……はぁ。やればいいんだろ、やれば」


 コウは諦めと呆れが混じった表情で力無く呟き、階段を駆け下りた。

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