第128話 「愛してる」と「すき」の違い

 啓との生活は、学生のときと同じように思えて、まったく違うものだった。同じく主婦を続けているお姉ちゃんを尊敬する。


 いちばんに苦労したのは、お金の管理。


 ずっと啓に何もかも任せていたし、啓の働いてきたお金を、自分だけの采配でどうにかするということがわたしにはものすごく難しかった。


 そして、長い実家ぐらしのため、生活にかかるお金のやり繰りというのがよくわからなかった。

「うーん、あんまり無駄遣いできるほど高給取りじゃなくてごめん」と啓は言いながら、ふたりで家計簿とにらめっこして結婚資金を貯めた。




 次に、家事。

 頭の中ではああして、こうしてというのがわかっているのに、なかなかそうは上手くいかない。実験とは違って、手順通りにやれば結果が上手く出るというものでもない。


 洗濯ひとつとっても、シミ抜きなどの下処理をする、洗濯、干す、たたんでしまう。わたしなんか一連の作業手順が多すぎると思うのだけど、休みの日に啓が手伝ってくれると驚くほど難なく進む。




 啓は――。

 いつもめちゃくちゃ優しい。仕事で絶対、忙しいに違いないときでも。

 そういうときは「うーん」てうなりながら眉間にシワが寄ってたり、逆に変に脱力して「だめだー」とか言ってるからすぐにわかる。

 でも、休みの日は買い物も一緒に行ってくれるし、洗濯物もたたんでくれる。


 たまにつき合いで飲んで帰ってくる。元々、お酒には強いからあんまり心配はないんだけど……一度だけ。

「風、オレ、もうだめだー」

と大きな声で玄関で抱きついてきた。夜中だったし、すごく酔ってるみたいだったし、とりあえず部屋に入ってもらおうと思ったんだけど……。


「もうだめ」

「うん、部屋で聞くよ。靴脱ごうね」

「……愛してる。風が足りない」

と訳のわからないことを言って、部屋に入ったところで寝てしまった。




 前にお父さんに言われたとおり、わたしにはロクな社会経験がない。だから、啓の負っている苦労を本当の意味でわかってあげることができなくて歯がゆい。

わたしにできることは……啓が望んでいるように、笑顔でここにいることかなぁと思う。




 8月は啓のお誕生日があって、小鳥遊の家でみんなにお祝いしてもらった。

 せっかくだから、ふたりっきりになりたい気持ちもあったけど、「たまには賑やかなのもいいよね」と啓も言ってくれたので。


 いつも通りのBBQで、お父さんとお兄さん、啓の3人で炭おこしをして、お姉ちゃんとお母さんは食材の用意をしていた。


 たまに実家に帰ってきて何かが脱力したのかもしれないけど、いつも通り、誰もわたしに期待はしていなかったのでTシャツにギンガムチェックのスカートで、縁台近くにごろごろしていた。


「疲れてるの?」

「……ううん。啓のほうが疲れちゃわない?」

「オレは賑やかなの好きだから。知ってるでしょ?」

 うん、と小さくうなずく。啓が軍手を外して、わたしの左の頬にそっと触れる。

「……今日は浴衣、着ないの?」

「ご飯食べてからかな」

「またこぼすといけないもんな」

 ぽすっと軽く、啓の胸をたたく。啓はくくっと、むかしみたいに笑った。なんだかすごく懐かしい気持ちになった。


「ねぇ?」

「うん?」

「……わたしのこと、まだ、すき?」

 すごく驚いた顔をして啓は一瞬、止まったけれど、

「すきだよ。当たり前じゃん」

と囁いて、すだれの陰に隠れてキスをした。誰かに見られちゃうんじゃないかってドキドキする、長い、長いキスだった。


 思わず気持ちが学生時代にタイムスリップする。


なんにも気持ちは変わっていないはずだったのに、無責任だったあの頃とは全然違っていたことに気づいた。

「愛してる」って、「すき」よりランクが上なんだと思っていたけれど、実はどちらも種類が違うのかもしれない。

だって「愛してる」って気持ちはいつでも持ってるけれど、「すき」って気持ちは気がつかないと消えてしまいそうな気がする……。


 わたしは、啓がすきだ。


「すきだよ。去年の夏、ここに座っていた時と変わらない。風がかわいいから、毎日離れたくなくても仕事に行けるんじゃん。……ご褒美に、もう1回、してもいい? バレちゃうかな?」

「バレてもいいよ……」


 わたしたちを見ているのは、背の高い向日葵だけだった。……はずなのに。


「あんたたち、さっき、隠れてキスしてたでしょ? 目の毒だからほどほどにね」

とお姉ちゃんにくぎを刺されてしまった。お姉ちゃんは言葉とは裏腹に、わたしたちが仲良くやっていることに安心している、といった笑顔を見せた。

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