第129話 キス、する?
まだ明るいうちからBBQは始まる。
「風ちゃん、新婚生活はどう?」
プラスチックのコップにビールを注いでくれるお兄さんが、にっこり笑って聞いてきた。
「新婚……んー、同棲とは全然違うんだけど……生活が変わったと言うより、啓が学生の頃みたいにいつでも一緒ってわけじゃないのがいちばんの違いかなぁって」
「そうだね。もう学生じゃないんだよね、風ちゃんも。早いなぁ」
「何ですか、それ」
お兄さんは口元に笑みを浮かべながら、
「風ちゃんは家庭教師してあげてたときと変わってないよ。だから、これからも変わらないでいてあげなよ、彼のために」
「そんなものかなぁ」
「そんなものだよ」
どこかの家で、誰かが上げた花火の音がした。パンッと、弾けて消えた。
お肉をあらかた食べてから、お母さんに頼んで去年の浴衣を着付けしてもらう。そんなつもりじゃなかったけれど、啓に期待されてるなら……と袖に手を通す。
「芍薬、だよね?」
「覚えてたの?」
「うん、まあね」
まだ炭には少し火が残っていたけれど、みんな、和やかに飲んでいた。お姉ちゃんもわたしも帰ってきて、お父さんは口には出さなかったけれどうれしそうだった。
「芍薬の浴衣を着たら、しあわせになれるんでしょう?」
「迷信だよ」
恥ずかしくなって少しうつむいた。
啓の手がわたしの膝の上に置いていた手に重なった。朝顔柄のお気に入りの団扇が落ちた。
「じゃあ、しあわせにするのはオレだから。他の男にはその役目は譲らないよ」
そう言うと立ち上がって、お父さんたちのところにさっさと飲みに戻ってしまった……。
なんだか今日は実家にいるせいか、ロマンチックなことが多くて、ビールも回って頭がぐるぐるする。
実際、まだ入籍もしてないし、学生時代もずっと同棲してた延長線上にあるんだけど、その数直線上のある点からわたしたちは大人になって、「恋人同士」とは呼ばれなくなった。
それが、婚約したからなのか、啓の収入で暮らし始めたからなのかわからないけれど……。
でも今日は不思議にその「ある点」は、なしになって、わたしたちは恋人同士のようだ。いつも見慣れている啓の背中が、学生時代のときに彼をみつけたときのように、見ているだけでうれしくなって、頬が紅潮するような……。
「しあわせなの?」
お母さんが隣にしゃがんで声をかけてくる。
「うん、ものすごく。……わたし、本当に親不孝でごめんね」
「バカね、この子は。いいお婿さん、連れてきてくれたじゃないの。それで十分」
今夜はお姉ちゃんたちが客間で寝ることになったので、わたしたちは元わたしの部屋で、今住んでいるところに引っ越す前の寝室にしていた部屋で寝ることになった。
……今年はさすがに啓に浴衣を脱がされることもない。
「あの、襟元からすーっと手を入れる感じがいやらしくていいんだけどなぁ」
団扇でゆっくりと扇ぎながら、啓は呑気なことを言っている。彼がわたしの帯を解く時に、すごく真剣な顔をしていたときのことを思い出して、布団の上でごろんとした。
「キス、する?」
啓はわたしの顔をじっと見て、団扇をそっと置いた。
「してもいい?」
「してほしいから言ったの……」
今度は誰も見ていなかったので、わたしたちはちょっといやらしいキスをした。わたしは途中で彼に腕を回さないわけにはいかなくなった。腕を回すと、それに呼応するように彼の息づかいも変わった。
「ん……」
小さく声を出すと、啓は急にわたしから離れて、もそもそと自分の布団に入ってしまった。
「ごめん……なんか、ひとりで盛り上がっちゃった」
「続き、しないの?」
わたしは彼の布団に入っていこうと起き上がりかけた。
「しないの! ……みんないるじゃん。だからわざわざここから引っ越したのに。シチュエーション変わると燃えるのかなぁ。あー、今日もガマンかー」
そーっと手を伸ばして、啓の背中に手を回そうとした。
「だからー、今日はダメなんだよー。あんまり刺激しないの。第一、あの浴衣姿がよくない」
「よくないの? もう着ない方がいい?」
「ちがうー、似合ってるからかわいいじゃん。かわいいとさー、ほら、……襲いたくなるだろ?」
すっかり社会人になって変わってしまったと思っていた啓は、どこまでもいつも通りの啓だった。すごく大人になっちゃったわけでもないし、すごく物わかりがよくなったわけでもない。
なんだかそんなことがうれしくなって、背中からぎゅっと抱きしめた。
「だいすき」
「……家に帰ったら、明日は寝かせないからね」
「うん」
啓のため息が、小さく聞こえた。
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