第102話 想いの天秤

 観覧車はゆっくりと、わたしたちを地上まで運んでしまう。わたしの隣には、この前とはちがう、やんちゃなだけではなく、その瞳の奥に真摯な何かを秘めた男性が写真には写っていた。


 手を繋いで、歩く。

 どちらも話すわけではなく、ただ、手を繋いで。それでも広い公園の入口まではたっぷりあった。


「なんか……あんなに高い時計までもらって、海洋生物学やめたいとか、ごめん。早く相談すればよかった」

「いいじゃない、まだ使うかもしれないし。えーと、ビジネスシーンでも使える、とか書いてあったし」

「……働くときに使えるね」

 どうにも、いい空気になりそうにはなかった。わたしは困ってしまって……。

「お姉ちゃんとこにでも行って、バースデーパーティでもする?」

とおどけてみた。

「ううん、帰ってふたりで……抱きたい」


 一方の願いが叶うと、もう一方が叶わない。まるでそれは天秤のよう。だからふたりとも、いい顔で笑うことが出来ない……。

 どうしてふたりの希望が重ならないんだろう?

 どうしてわたしは啓の夢を後押しできないんだろう?


 帰りの電車で、啓のカバンから時計とは違う包みが現れた。

「はい、これ」

 ごそごそっと、開けてみる……。

「前のペンギンと、色違いだね。兄弟みたいでかわいい。ありがとう!」

「買ったの気づいてた?」

「全然」

「サプライズだからね」

 ふたりで笑った。けど、笑いの中に何か現実的な冷たい芯のようなものが残っていて、思うように笑えない。啓も同じようだった。


 電車に揺られながら考えた。


 啓が言うようにずっとこっちにいてくれたら、とてもうれしい。毎日がいつも通りに始まって、楽しく終わっていく。手の届くところに啓はいて、わたしのたくさんある細々なピンチを、啓が助けてくれるに違いない。……プロポーズを待つのも楽しみだろう。


 でも、啓が海洋生物学をやるなら? 一緒に暮らせるのはこれから半年くらいまでで、啓は電車で2時間以上のところに住むことになる。会いたい時に会えない。もちろん今が恵まれてるんだってことはわかるんだけど……離れて暮らすのはツラい。


 でも、わたしはきっとたった一年の間、離れて暮らすことが出来なかった自分を一生許さないだろう。……許せないだろう。

いつも間にかわたしは、啓を知らなかった時の自分には到底戻れない、情けない自分になってしまった。「ひとりでは何もできない」なんて、本当にどうしようもない。


 電車のアナウンスが流れて、下りる準備をする。ふと、啓と目が合って、すっと彼は目を細めた。

「笑えよ。オレの誕生日でしょ」

と言った啓の顔も苦笑いだった。


 わたしは自慢じゃないけど料理が作れないので、今日の晩餐は、飲んで食べられるイタリアンにした。ふたりでパスタとピザを食べた。釜焼きのピザがおいしくて、食べすぎてしまった。

わたしはもちろん、外ではノンアルコールで、啓だけ乾杯に少し飲んだ。

その夜はたまたまスパニッシュギターの演奏があって、お店はアットホームなムードに包まれた。


「ただいまー」

 後ろから抱きしめられる。

「今日はありがとう」

「どういたしまして。ごめんね、手作りのお料理じゃなくて」

「そんなこと、いいんだよ。……風がいればいいんだよ」

「……啓、お腹いっぱい。とりあえず上がろう」


 取っておきのものを出してくる。ヴーヴ・クリコ。啓がわたしのバースデーに用意してくれた「黄色い箱の」シャンパン。

「風、それ高かったでしょう?」

 啓が大きな声を出す。

「わたしも買ってもらったからおあいこね」

と言いつつ、わたしはハーフボトルを買ったので値段は倍だ。……知らずに買いに行ったら、ほかのワインなんかと比べ物にならない値段でびっくりした。でも特別な夜に、特別なことがしたかったから。


 それから、さっきお店でテイクアウトしたケーキを出す。

「今度、ホールのケーキ買おうね」

「え、いいよ、もったいない」

「わたしはケーキならたくさん食べたいけどな」

啓につつかれた。


「じゃあ、もう一度、いただきます」

 フルートグラスに、シュワシュワーっと細かい泡が上がって、いいにおいがしてくる。まず、グラスに半分くらい、一息にいただいてしまう。

「風、飲みすぎ勘弁だよー」

「世間のビール好きのおじさんの気持ちが、最近よくわかってきたの」

「そんなのわかんなくていいよ」


 気がつくと啓の手に、白いものが……。

「あー、ダメ! それは見なくていいよ、ほんと、見なくていいから」

「えー? だって、宛名はオレだし。カードじゃない……の?」

 それは白い便箋だった。啓に誕生日のお祝いと、自分の素直な気持ちと、でも啓に好きなことを続けてほしいと書いた……途中まで書いた手紙だった。

「中途半端で書き上がってないからぁ……」


 書いたことは。

 啓がいないと寂しいけど、がんばってみるねってところまではたどり着かなかった。書いてて、涙が止まらなかったから。啓は黙っていた。たぶんもう読み終わったに違いないと思う時間も、黙って便箋を見つめていた。


「ツラい?」

「……離れてる日は」

「でも春から、オレ、向こうに住むようになったら、毎日は会えないよ?」

「……すごくツラくなると思う。想像出来ない。だって……ずっと一緒だったじゃない?」


 沈黙。


 時間が黙々と流れて、シャンパンの泡が規則正しく消えていく。

「あのさ」

「うん」

「風を悩ませたくないよ。……別れようか?」


 爪先には、今日のワンピースに合わせた、ラメの入った紺色のペディキュアを塗っていた。

 膝を抱えて考えていた。

 そんな選択肢は思いつかなかった。思いついた啓は頭がいいなぁとか。

 水族館に行っても、一緒に楽しめない自分のこととか。

 左足の薬指だけ、ペディキュアが塗られていないことに、ふと気がついた。これを塗ってる時は今日が楽しみで、うっかり塗り忘れたんだろう。


 バカげている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る