第96話 ひとりの夜

 啓は土曜日、ひとりで実家に行った。そのまま一晩、泊まってくるというのでわたしも実家でごろごろしていた。

 また雨が降ってくる……。雨の日はどうもよろしくない。アンニュイになるから。啓がどうしてるのかわからなくて、二度と戻らなくなっちゃったような気がして、寂しくて泣きそうになる。

 お父さんは、

「啓くんはしっかりしてるから、きちんと親御さんと話をしてくるよ。お前が信じてやらないで、誰が信じるんだよ」

 と言った。


 夕方になると、お姉ちゃんたちが遊びに来てくれて、みんなでピザを頼んでピザパーティーをした。……啓からはまさになしのつぶてで、なんの連絡もなかった。

 一人で寝るベッドは広くて……いつもの狭いシングルのベッドが懐かしく思えた。啓……声が聞きたいな。いつもはどっちかが落ちてたり、あきらめて床に寝てたり……。ほんの数ヶ月の間のことなのに、まるでずっとそうしてたみたいに


 ブルブル……。

 都合のいい感じでスマホが振動を始める。

「もしもし」

「まだ起きてた? 」

「 寝ようかなぁと思ってたとこ」

「起こしちゃったら悪いなと思ったんだけどさ、なんか……」

「なんか?」

「風がいないと寝られないよ」

 同じときに同じことを考えることができるしあわせを、わたしは噛み締めてた。


「やっぱり4年で卒業することにしたよ。親父とも話がついたよ」

「うん、話せたんだ、よかった……」

「それで……ごめん、一年間、海洋生物学やるよ。ごめん、迷ってたんだずっと。でも、一年しか大学にいないなら、やりたいことをやっておきたいと思って」

「いいんだよ、やりたいこと、聞けてうれしい」

 そう言いながら、涙が頬を伝った。海洋生物学の研究室は遠い。電車で二時間以上かかる。だからみんな、向こうに下宿する。わたしと啓は一緒に暮らせない。会いたいときに、会えない。


「四年からは向こうだね。休みがあったら……風のお宅に泊まらせてもらおうかなぁ」

「布団もあるしね」

「そう、布団もあるし」

「就職活動もして、出来るだけ早く、仕事を決めるよ。それで、就職して忙しい中、がんばって準備して……結婚しよう」

「やだ、電話で聞きたくないな」

「明日、早めに迎えに行くから」


 結婚……。

 結婚したら今までとは全然違うのかなぁ? 周りが社会的に認めてくれる、のかな? ピンと来ない。


「おはようございます」

 呼び鈴が鳴り、意気揚々と啓が現れた。

「おお、啓くん、心配してたよ」

「すみません、裏技使いました」

 啓は玄関で靴を脱ぐと、縁台にいたわたしのところまで来て、自分も座った。

「ずるいと思ってる?」

「思ってない」

「でも、やっぱり泣いちゃうんだ」

「……泣いてない」

 啓が頭をポンポンとする。庭に植えられた大輪のバラが、しっとりと雨に濡れている。


「ずるい……。言ってなかったじゃん、前に話したときにも」

「うん。これは本当に謝るしかないと思ってる」

「……わたしがいなくても大丈夫なんじゃん?

 どっちが浮気しても、もうバレないよ 」


 ああ、皮肉しか出てこない。彼は、彼の進むべき道がよくやく決まったのに、わたしの口からは皮肉だけが、バケツからあふれた水のように、だぶだぶと吐き出されてしまう。

「浮気するの?」

「……啓がいないなら、寂しくて……しちゃうかも……」

 啓は小さくため息をついた。そしてわたしを軽く抱きしめた。


「まだ、何も言ってないんだからさ、やめようか? やめてもいいんだよ。確かにこの件は風に一言も相談してないし、前に聞かれたときも『行かない』って答えた気がする。オレの気持ちが揺るがないかって風に聞かれたら、向こうはなんの娯楽もないって話だから、たぶん浮気するような余裕はないよ」

 啓の肩越しに、深呼吸をする。

 クリアになっていく、わたしたちの将来。


「離れなくないの……」

「うん、同じだよ」

 いつの間にか父と母は気を利かせて、どこかに出たらしい。家の中に人の気配がしない。

 それなら、このまま時間が止まってしまってもいいんじゃないかと思う。わたしは啓の腕の中から出られなくなってもかまわないから。


 考える。啓の将来の希望、自分の望み……そんなの啓の希望を叶えるに決まってる。決まってるから、考えたくなかったのに……。

「ちゃんとマメに帰ってくるよ。つき合い始めた時に言ったこと、覚えてる? 『会うために金は惜しまない』」

 啓はにっこり笑った。


「ただいまー。話はまとまったかな? うちのお嬢さんを泣かせたのは誰だ?」

「すみません……」

 啓は赤くなって下を向いた。


「ボク、海洋生物学研究室に入ろうと思うんです。向こうも以前、ボクを気に入ってくれたみたいだったんで。……一年後には卒業して、就職予定なので、一年間、好きなことをやってもいいかなって。もっと就職に有利なゼミに入るって方法もあるんですが……」

「いやいや、一度きりの人生だ。好きなことをやりなさい。……で、お嬢さんは遠くなるのが嫌なのか。結婚して三十年以上にもなると、いい思い出になるよ。大丈夫だよ、風」

 お父さんは軽い感じでそう言った。

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