第98話 思い出なんかじゃない

「お世話になりました。お父さんが相談に乗ってくれなかったら、たぶん、自分のやりたいことを言えなかったと思うんです。ありがとうございます」

「そんなことないよ。キミは自分のことは自分で決められるタイプだよ。そうじゃなくちゃうちの娘をぽんとやれないだろう?」

「はぁ……修行します」


 わたしたちは手を繋いでお父さんとお母さんに手を振った。

 駅までの雨上がりの道を、いっしょに歩く。もちろん去年の今頃はひとりだった。駅前のコンビニではつき合いはじめの時、啓にバイトの後も会いたくて、バカみたいにLINEして、電車に駆け乗った。


 初めてのデートのとき、啓はいつものように機嫌が悪くなって口を利いてくれなくて、その理由はわたしのワンピースだった。


 電車に乗って今日は啓のアパートに帰る。

 大学前の駅で降りる。入口脇のお稲荷さんでキスをした雨の夜を思い出す。


 初めて啓に部屋に誘われたのは、確か、駅のマックだった。「部屋に誘われる」ことを意識しすぎてしまったのはわたしのほう。


 マックと反対側のファミレスでは、ちーちゃんたちと散々、お互いの恋愛について話し合ったけど……まずいことを何故か居合わせた啓に聞かれることが多くて、そのせいでぎくしゃくしちゃったり。


 思い出?

 まだまだなんにも思い出になってない。わたしたちはつき合い始めたばかり。今はまだ、熱くなってるだけ。

 みんなはそう言う。


 啓の部屋に通うようになって、一緒に暮らすようになって、二十四時間一緒にいられるようになって……。


 彼はわたしのヒーロー気取りだけど、それだけじゃない。優柔不断だったり、まだまだ怖いことがあったり。

 でもわたしにとっても唯一の人。世の中にはたくさんの出会いがあることも、たぶんもっといい人がいることもわかってるのに、この人だけが特別って思うんだろう? 世界中でいちばん大切って思うんだろう?

 決めつけるのはまだ早いよってみんな言うけど、わたしはこの人の「唯一の人」になりたい。


「どうしたの? 今日は無口だけどご機嫌だね」

「今日は啓がいるもん」

 後ろから羽交い締めされて歩けなくなる。ふわっといつもと違うシャンプーのにおいがして、かえって意識してしまう。


「昨日はオレだってさみしいってLINEしたじゃん?」

「うん、そうだね」

「なんだよ、それ。昨日は会えなくて泣いてたくせにさ」

 啓にむかって思いっ切りあっかんべーをする。

「だって会えなかったじゃん」

「会えなかったよ」

「じゃあ、その分やさしくしてくれるんじゃないの?」

「……夜の話?」

「バカ!」


 アパートまで続くポプラ並木……これからいつごろまで一緒に暮らせるかな? ギリギリまでってわけにはたぶんいかない。啓は夏休み、もしくは二学期から向こうに行く日が多くなることを……わたしは本当は知っている。

そうするとみんな、四年生になる前に引っ越してしまう。

 悲しい気持ちはしばらくしまっておこう。重くなっちゃって吐き出す日もあるかもしれないけど、それでも。


「風?」

「なに? おうどん食べて帰る? それともスーパーに寄る?」

 両頬を挟まれて、道端で軽くキスをする。

「まだ行かないよ」

 とささやかれて戸惑う。だって、「まだ」はそのうちわたしたちに追いついてしまうから。


「じゃあ、早く帰りたいからスーパーでちょっとだけ買い物しようか?」

「賛成!」

「夕飯、何にすっかなー」

「ハヤシライスかオムライス」

「子供かよ」

 ふたりで笑う。啓がパセリに手を伸ばす。


「ねぇ」

「ん?」

「離れてもすきだよ」

「……うん」

「例えば神様が、わたしたちは絶対に上手くいかないって言っても、わたしは啓から離れないよ」

 笑いをこらえた啓の目尻に、涙が滲んだ。

「それは困るかもしれないね」

左手の薬指に、同じ石の入った指輪がおそろいに光っていた。

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