第88話 永久就職
「おはようございます」
「あら、よく寝られた? 風と雑魚寝で悪かったわねぇ?」
「いえ、かえってよく寝られたかも……」
「……もしかして、シングルにふたりで寝てるんでしょ? 萌える! 違う、この際ダブルにしちゃえばいいのに、なんてね」
朝からこの姉は何を話しているんだろう。すごいハイテンション。
「おはよう」
お兄さんも起きてきた。
「なんかー、こういうのって、みんなで生活してるみたいで不思議」
「ないない」
お姉ちゃんが笑う。
「そこはプライベートでしょ、風」
なんで、ふたりで息が合ってるのかよくわからないけど。
「朝ご飯、手伝いますよ」
「いいの? じゃあ、目玉焼き、頼んじゃおうかなぁ」
「いいですよ、半熟でいいですか?」
「半熟、お願いします」
「すごいな、啓くんは半熟って指定されてできるんだ」
「はぁ、すっかり慣れたというか。職場も卵とじとかありますし」
啓のお料理してるところを見てるの、嫌いじゃない。わたしより上手いところはちょっと悲しくなるけど……。背筋が伸びててかっこいい。
「風ちゃん、二日酔いになってない?」
「うん、大丈夫みたい」
「……昨日の今日なのに、なんかいいことあったかな?」
「あー」
啓のほうを、ちらりと見てしまう。
「これからどうしたらいいのか、二人の間で決まったから」
「決めたんだ?」
こくり、とうなずく。啓は慣れない人の家の台所でも美しい目玉焼きを焼いたらしく、お姉ちゃんに絶賛せれている。
「秀一郎さん」
「ん? 星と結婚してから名前で呼んだの初めてじゃない?」
「お兄さんじゃなく、秀一郎さんに相談したいの。……わたしたち、好きだからって結婚に向かって用意を進めるには早すぎない?」
「なるほど。風ちゃんはそう感じてるの?」
「……みんなはそう思うんじゃないかと思って」
秀一郎さんは、静かに微笑んで、しばらく言葉を選んでいた。
「これはぼくの意見だけど。誰かから見てどう、とか気になるならやめるべきだよ。まだ風ちゃんの気持ちが固まってないってことだよね?」
「……」
そう言われれば身も蓋もなかった。
「啓のことは……すきなんだけど……なんか怖くて」
「一生に一度だからねぇ。おまけに将来のこともかかってるし。ボクはもう少し考えた方がいいと思うよ。せめて、覚悟が決まるくらいに」
今朝も啓の目玉焼きは完璧に美しくて、黄身を崩すのが悲しくなった。
お姉ちゃんにお礼を言って帰る。
てくてくと駅までの道を歩く。そろそろ長袖だと汗ばむ季節になってきている。
「お兄さんと何、話してたの?」
「見てたの?」
「『お兄さん』と言えども男だし。結婚前から仲がいいと聞くとなおさら……」
わたしは黙って歩いた。
「進路について話してただけだよ」
「昨日、話したじゃん?」
「話したけど……なんかまだ自分的に納得いかないというか……覚悟できない、のかなぁ。少なくとも友だちには言えないって感じ」
「オレと結婚するって言うのは恥ずかしいってこと?」
「そんなんじゃなくて……いろんな選択肢がわたしたちにはあるのに、いいのかなぁ?」
電車の来るアナウンスが流れて、人々が乗車口に向かう。
「頼りなく見えるだろうけど、……『後悔させない』から」
啓の胸に額をぶつけて、「バカ」と呟いた。啓の返事は、「風のことなら、バカになるんだよ」だった。
電車に乗って、ごとごと揺れていると、啓を追いかけて衝動のまま電車に飛び乗ったあの日を思い出した。確かにあの頃の啓より、たった三ヶ月でもとても大人びて見える。自信を持って自分を語れる人だ。あんなに、不器用なキスしかできない人だったのになぁ。
「風、考えてること、丸ごと顔に書いてある」
「え!?」
「風のために堂々とした男になりたいんだよ。どこに出ても笑われないような。だからどこでも、結婚のことで笑わせたりしないよ。それはふたりの道だから。他人には関係ないんだよ」
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