第36話 何度でも

 玄関に出たのはいいけれど、動揺して上手く靴が履けない。急ぐと今度はカバンを落としてしまい、荷物が散乱した。


「だから、待って」

「帰る……もう、いらないでしょ?」

「そんなこと、言ってない」

「言ったよ、距離を置いて、そしたらすぐ、またお互い知らない人に戻るの?」

 髪を振り乱して涙でグチャグチャな顔に、また涙が流れていく。顔に張りついた髪が気持ち悪い。


 啓は上がり框にしゃがみ込んだ。

「……戻らないよ。戻ってどうするんだよ」

 言い聞かせるように彼はゆっくりしゃべった。

「戻って? 他の女の子とつき合ったりするんじゃないの?」

「わかった。とにかく上がって、お茶でももう一度飲もうよ。紅茶と緑茶、どっちにする?」

「……」

「意外と意地っ張りだな、オレのお姫様は」

 手を引かれて、抱きとめられる。

「風のこと、狙ってるやつは多いけど、俺だけだよ、面倒見きれるの」

 引かれた手に、力が入らない。体は妙に重くて立ち上がるのが難しい。俯くしか、なかった。

「仕方ないな」

 啓はそう言うと、わたしを「よっこいしょ」と抱きかかえて……つまるところ、お姫様抱っこで部屋に運んだ。


「顔、すごいことになってるよ。とりあえず、シャワー浴びたら?」

 啓のシャツの胸にギュッと掴まる。

「……大丈夫、ここはオレの部屋だから、逃げようもないでしょ?」

 そっと、下ろされる。

「しかしやっぱり、小さいと思ってたけど、お姫様抱っこは厳しいなぁ! 夢だったのに、新婚初夜」

「……シャワー、借りるね」

「どうぞ。いいよね、新婚初夜」


 シャワーを浴びてくると、啓がビールを飲みながらマンガを読んでいた。

「おかえり」

 そう言うと、缶を置いて立ち上がり、わたしの服を脱がし始めた。迷ったけれど、Tシャツにスカートのままだった。

「何してるの?」

「きせかえ」

「……」

 器用に脱がせて、次に例のパジャマを着せてくれる。新しいパジャマは、着心地のいいサラッとした綿でできている。

 反対色のパジャマを、啓はズルズルと引っ張ってきて思い切りよく着替え始めた。

「ほら、お揃い」

 わたしは啓の胸に頭を押しつけた。二人のパジャマは当然、同じにおいがして、さっきあんなことがあったのに、やっぱり彼の胸の中にいると安心する。


 啓とつき合い始めた日に、夜のベンチで肩を抱かれた時のことを鮮明に思い出す。

「どうして抱いてくれないの?」

「戻れなくなるから」

「どうして戻るの?」

「そういう意味じゃないよ。オレも風と同じく怖いよ。……抱いたら、二度と離さないよ、きっと」

「抱いてください……」

「意味、わかってるの?」

「もう、いい加減わかってるよ。怖い思いも何回もしたし」

 彼の手はわたしの腰の辺りに回されて、わたしは顔を上げた。

「距離、とか置かないから。距離は縮めたいの、だから抱いて。……至近距離でしょう?」


 彼は何も言わずにタオルを持って現れた。そしてわたしの髪を拭いてくれる。その後はドライヤーで乾かし、悪戦苦闘してブラッシングしてくれた。

「歯磨きは自分でするよね? 」

「……もちろん」

 わたしの歯磨きの間に彼はベッドを直して、そこに座り込んでいた。


「おいで」

 声に出さずに頷いて、一歩一歩、彼の元へ近づく。

 わたしがまだ腰を下ろすより早く、口づけされる。

「ほら、新婚初夜みたいじゃない?」

「わかんない」

「あー、もったいない! こんなとこで新婚初夜を迎えちゃうなんて!」

「迎えてないよ」

「バカだなぁ、これからだよ」

 また訳のわからないことを言われて、混乱する。


「とにかくオレは元に戻れなくなるから。抱いちゃったら明日からもエンドレスだよ。それから、オレが突っ走らないようにするに、風が上手くコントロールしてくれないと。そういう日と、そうじゃない日をはっきりさせよう。じゃないと、長続きしなくなっちゃう」

「そういうこと?」

「別れたかった?」

「意地悪いわないでよ」

 確かにすきになってしまうと、それは甘く、甘くて溺れて何もかもどうでも良くなってしまう。……啓は、大人だ。


「今日は、初夜ごっこね。風は言うことを聞くんだよ?」

「具体的には?」

「こう」

 啓はわたしの背中と頭を支えて、そっと布団に下ろした。そして自分も屈むと、

「愛してるよ」

 と耳元でやさしく囁いて、戸惑うわたしに口づけをする。体の力が少しずつ抜けていく。……この波に乗ってしまえばいいんだ。

 急に何かがすとんと落ちて、落ち着いて啓を迎える準備が心の中で始まる。やさしくされても、乱暴に扱われても、彼の流れに身を任せよう……。


 すべてが終わって、ゆっくり瞳を開けて、息を整えながら啓を見た。彼はわたしの横にごろんと転がってわたしを見て、なぜかククッと笑った。

「……どうして笑うのよ」

「全部手に入れたから」

「……ごめんね、今まで」

「いいえ、こちらこそ。決断力も実行力もなくて」

 笑えない。

 元はと言えばわたしが拒み続けたから。

「嫌じゃなかった?」

「……全然。思ってたのと全然違ったし」

「どんなこと考えてたんだよー。エッチ」

「何それ?」

 彼は手遊びのように、髪を指に絡ませてはほどいている。

「一回したらさ」

「うん」

「毎日したくなるよな?」

「うん?」

「もう、我慢しなくて良くなっちゃたし」

「……」

 啓の目は指先のわたしの髪しか見ていない。

「だから少し距離を置いて、風のことしか考えられない自分をどうにかしたくて。まだ結婚できないし、一緒に暮らしても責任取れないじゃん」


 ああ、彼は男の子なんだな。雰囲気に流されるわたしと違って、周りのことをよく見て考えてるんだ。


「だから、気持ちは変わってないんだ。今でも、前以上にすきだよ。離したくないし、まだ食べちゃいたい」

 啓の言葉に赤くなる。

「きみを守れる男になるよ。だから、……もう一回、いい?」

「バカ」

「言っただろう? 一度しちゃったら、戻れないって何度も」

「食べちゃって……」


 もう一度、最初から。

 ああ、ちーちゃんたちになんて言おう。とてもすべては語れない。

 すべて受け止めたら、また求められるなんて思ってなかった。「最初」までが長かったから。


 また、彼の長い口づけに吐息がもれる。

 何も考えられなくなって、何も考えなくていいんだということを思い出す。

 すべて、自分を預けてしまっても大丈夫だと思える人が、そばにいるから。

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