第35話 少し、距離を置こう
寝ぼけたわたしをベッドに残して、啓は鼻歌を歌いながら台所に立った。……台所に立つ姿もいいな、と思うから女子力上がらないんだと思う。
「手伝うこと、ある?」
「転がってて」
仕事してきて疲れてないはずはないのに、ご機嫌だ。
わたしにはできない、軽やかな手つきで啓は次々とおにぎりを作る。きれいな三角形に、パリッと海苔を巻く。
「梅干し、大丈夫だっけ?」
「うん」
「帰りに買ってきたよ、梅干しと海苔と、かつお節」
自慢げに彼はおにぎりを手に持って見せた。
わたしも、いい加減ベッドからのそのそ出て、テーブルにつく。啓は今度は緑茶を入れている。
「和食には緑茶かなーと思って、買っといた」
「申し訳ありません」
「いえいえ、修行を続けなさい 」
頭をぺこりと下げたわたしを見て、彼は明らかに動揺している。
「……」
「どうしたの?」
いただきます、をしようとしていたわたしは、彼に尋ねた。
「いや、あの」
「ん?」
啓がわたしから目を逸らして言葉を紡ぐ。
「あの。自分がつけたと思うと、生々しいというか」
「え? 見える?」
「ごめん……。深く反省してるよ」
かわいそうなほどうなだれて、彼は動かなくなった。
「啓、器用だよね。わたし、こんなにキレイなおにぎり、初めて」
「風だってちょっと練習すればすぐに握れるよ」
「そうかなぁ、わたし、手が小さくて」
啓はおもむろに手を伸ばすと、わたしの手のひらに自分の手のひらを重ねた。
「ちっちゃ!」
「何をいまさら?」
「ちっちゃいなとは思ってたけど、まさかこんなに小さいとは……」
感慨深げに手の大きさを見ている。
「こんなに小さいんだもん、おにぎり難しいよな」
「……ひどい。練習するもん」
答えもせずに手を見て、不意に手を掴まれる。ゆっくり、包み込むように。
「こんなに小さいんだもん、守らなくちゃいけないよね」
弱々しく笑った。
「風は小さくて、かわいくて、壊れちゃいそう」
「壊れないよ!」
びっくりして大きな声を出してしまう。
「……つき合う前からそう思ってたんだよ」
「それは幻想だと思うな」
「幻想じゃないよ。ちょっとオレが力加減間違えたら、壊れそうだったよ」
……さっきのこと、かな?
「おにぎり、食べたいな、ね?」
話を逸らす。
啓は頬杖をついて、わたしを見ている。
「お腹すいてたの?」
「寝てたからかな?」
「美味しくできてる?」
「とっても美味しいよ?啓は食べないの?」
さっきから同じ姿勢のまま、わたしをぼんやり見ているだけだ。
「胸がいっぱい」
「ご飯食べたら何するの? パジャマは着ないの?」
「着る……けど、どうしようかな?」
俯いておにぎりを食べ始めた。
「ご飯、よく炊けてたよ」
「よかった」
黙々と自分の分を食べて、
「残ったらラップしといて」
と言ってシャワーを浴びに行ってしまった。
どうしたかなー、と思う。まだ堺くんのことを気にしてるのか、それともキスマークつけたことを気にしてるのか。
「ねぇ、タオル取ってもらってもいい?」
「はーい」
部屋は片づかない啓の部屋で、タオルは几帳面に畳まれている。
「どうぞ」
「ありがとう……」
啓は浴室のドアから手を伸ばした。
「一緒に入る?」
答えに困る。啓はいま、もちろん全裸なわけだし、一緒に入ればわたしも脱ぐわけだし、……お風呂は明るい。
「本気で困るなよ」
と言って、パタンとドアを閉められた。
することもないので、さっきタオルと一緒に見つけたパジャマを二着、揃えて並べる。
やっぱりこうして見ると、新婚さんみたい。
わたし、このまま本当に啓のお嫁さんになるのかなぁ? まだまだ彼を不安にさせたり? お料理がうまくなる日が来るのかな……。
「お先」
啓はTシャツとスエットのパンツで現れた。
目線の先のパジャマを見ている。
「……浮かれすぎたかな」
「ん?」
「なんか、温泉にでも行って、風呂入って出てきたら布団が敷かれてた、みたいな?」
「そういうのはダメなの?」
「いや、そういうわけでは」
するり、と抱きしめられる。洗いたてのシャンプーの香り。Tシャツの洗剤のにおい。よく知る啓のにおい……。背中に手を伸ばしてわたしもぎゅっと抱きしめる。
「だいすき」
啓はわたしの髪を指で撫でている。静かな時間が流れる。まるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。
啓の指先がうなじを通って、首筋に向かう。さっきのあざが気になっているのかも……。
「オレも……」
同じところに軽いキス、続けてその隣にも、強く口づけされて、どきりとした。
「もうしないよ。少し、距離を置いてみない?」
なんの話なのか頭が理解できなくて、啓の胸に頭を埋めたまま微動だにできなくなる。
「別れるの、かな?」
少し、声が震える。
あまりに非現実的で受け止めることが難しい。
「どうして?」
彼がゆっくり腕を伸ばして、わたしの体を離した。
「そういうわけじゃないよ」
「でも」
「もう少し、お互い、自分の時間を持とうってこと」
「少しって、どれくらい……?」
「さあ……冷静に風を見られるようになるまで、かな?」
自分の体が小刻みに震えているのがわかる。
今のわたしには、「距離を置く」ということは、「別れる」の同義語だ。刃で内側から切りつけられたかのように、心が痛む。叫びたくなる。
「そんなのできないよ」
「できるよ」
「できない。 前みたいに、なんて絶対ムリ」
啓のことをまったく知らなかったときに戻るなんて、絶対ムリだ。こんな気持ちを知ってしまって、引き返せるわけがない。
「風、落ち着いて……」
「ムリ……。今日は楽しく過ごすんじゃなかったの?」
「……」
「もし、別れるんなら、抱いて」
言ってしまった。
このこと以外に、原因はないと思ったから。
「できないよ」
「抱きたいって言ったじゃない?」
「そんなこと、できない。してしまったら、今までのことが全否定されちゃうし、風だって本気じゃないでしょ?」
「……帰る」
「ちょ、待ちなよ。電車もないよ」
手荷物を持って、玄関に向かう。何がなんでもここを出ないと、何かが恐ろしい速さでわたしを捕まえてしまう気がした。
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