第23話 我慢と覚悟

「帰らないって、わたしも言ったけど……」

「けど?」

 なんて言ったらいいのかわからなくて、口をつぐんでしまった。言葉が頭の中を空回りする。


「啓に、悪いことをしちゃったと思ってる。軽はずみだったとも思ってる。……軽い女だと思った?」

戸惑い顔の啓の目を、わたしは覗き込む。

 こっちも心臓がバクバク言っている。これではわたしと啓のサドンデスだ。

「思ってないよ。風のことは見てたから、軽いなんて思ってないし、オレはたぶん、慣れてないから軽い子とつき合いたいと思えないし」

 内心ホッとする。純粋に、「一緒にいたい」って気持ちだけでここまで来ちゃったけど、思えばなんて考えなしだったのかと……。バカだな、わたし。


「言ってること矛盾しちゃってるんだけど……帰らないで」

 引き止められたままだった手を、ゆっくり引かれて、ぺたんと腰を下ろしてしまう。座ってしまったら、帰れなくなる。

「手を出さないとか、最初に言わなきゃよかったなー」

 すでに腕の中にすっぽり抱えられているけど。

「手を出すの?」

「んー、なんてことを聞くかな? 無神経でしょ。もうだいぶ、思ってた以上に手を出しちゃってるのにさ、それを日々、反省してるのにそんなこと聞く? すげー急展開だし」

「……すみません。いろいろ」

 困った顔をして彼はわたしを見ている。そうだよね、わたしだってこんなにいろんなことが起きるなんて思ってもいなかったし。第一、好きなひともずっといなかったのに、な。


「もういいや。なるようになる!テレビでも観るか。DVDでも借りてくればよかったな。間を持たせようと思って酒買うとか、ほんと、バカ」

 啓はブツブツまた独り言のように言って、テレビの電源を入れた。今日一日のニュースが流れていく。

 わたしは後ろから啓に抱きかかえられて、テレビの内容もよくわからなくなっちゃって、背中ばかり気になってしまう。わたしの方が実は欲求不満なのかもしれない?

 みんなしてるし、とか、そういうことじゃないんだよね。たぶん。


「……あのさぁ。聞いたらまずいと思って、今まで聞かなかったんだけどさ」

「なぁに?」

 後ろから耳元に声がする。彼の息が耳にかかる。

 また何か考えているのか、なかなか次の言葉が彼の口から出てこない。

「風は、誰かとつき合ったこと、あるよね?」


 つい振り向いてしまう。

 まさか今、そんなことを聞かれると思わなかったので、気持ちがすごく焦る。

「あるよ。高校生のとき、ちょっとだけ」

「……だよなー」

 沈黙が広がる。言わないで済むなら言いたくなかったけど、嘘はつけないし。

「想像するだけで妬ける」

「しないでよ、想像」

「妬けるでしょ。風はどんなやつが好きだったのかとか考えちゃうじゃん」

「……特になにも。普通の人だよ」

「それ、なし! 普通の人とつき合わないし」

「そだね」

「……キスとか、した?」

 あー、その時が来てしまったのか。

「一度だけ」


 背中で啓が固まっている。……振り向くわけにいかない。気まずさが最高潮に達している。

「ごめん」

 背中側から無理な体勢でキスをされる。その不安定な体勢のまま、形として、押し倒されてしまう。

「ごめん、やっぱダメかも。他のやつより風のこと知りたいし。独り占めしたい」


 啓の顔が真上に見えた。

 怖い、というより、この先どうなるんだろうって不安になった。そうなるのかな? わたし、ちゃんとできるかな?


「すきだよ」

 覆いかぶさるようにやさしくキスされて、こんな状況なのに、大切にされているんだなって実感する。唇からおでこ、耳元から首筋、ひとつずつやさしくキスされる。鼓動が速くなって、啓にも聞こえてしまうかもしれない。


「だいすきだよ」

 また唇が唇に戻って、わたしはするりと彼の背中に手を回した。思っていたより抵抗なく、彼の気持ちを受け入れたい気持ちでいっぱいになってしまった。

 長い、長い深いキスをして、啓の頭がわたしから離れていく。なんだか夢の中にいるような気持ちになって目を開けると、彼は微笑んでいた。


「明日もあるから、寝よう」


 え? とこっちが思う番だった。

 ここまでして、もういいの?そういうものなの?

「あー、満足した。よし、大丈夫だ、オレ」

 啓は立ち上がるとハミガキをしに行ってしまった。なんだか置いて行かれた気分になって、頭がついて行けない。……覚悟、決めたのに……。

 彼の方が女心をわかってないのではないかと、胸の奥がもやもやしてくる。


「風は歯、磨かないのー? さっき買ったんでしょ?」

 あーもー! すっごく損をした気分!

 これじゃ、どっちがどっちを振り回してるのかわからないじゃない。


「……続きはないの?」

 歯ブラシをくわえたまま、啓が「えっ」と言う顔で振り返る。

「ないよ。したいの?エッチだなぁ」

「……胸、小さいとかそういうのとか、かなぁ?女性的魅力に欠けるとか……」

 自分で言っていておかしいと思う。

「え?そんなこと思ってないよ。何、急に?最初からって言ってるでしょ」

「おかしくない?」

「おかしくないよ。おかしいのは風でしょ? なんだよ、どうしちゃったの? 今日はこのまま寝ますー」


 ……女のプライドはどうすればいいんですか? 据え膳食わぬは、って言うじゃない。

「ほら、早くハミガキしなさい。虫歯になるよ。さっさとベッドに入るんだよ、オレはもうオオカミにはならないから、寝るぞ」

 その切り替え、早すぎてついて行けないよ。

 ハミガキをして、一緒に啓のシングルベッドに横になって、そして。……何もなく朝を迎えた。

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