桜散る坂道で

藍田 墨

第1話

露木の病状が重いと知ったのは、まだ薄ら寒い3月のことだった。彼の机は、窓際の一番後ろで薄く埃を被っている。そういえば、露木が登校しなくなってから随分と長い時間が経った。


「千羽鶴を持って皆で見舞いに行ってやろうかと思うんだけど、氷室も来ないか」

 放課後、自宅で今日の授業の復習をするために教科書を鞄へと詰め込んでいると、クラスメイトに声をかけられた。手には色とりどりの折り紙で作られた千羽鶴が提げられている。数日前に緑色の折り紙を渡され、覚束ない手つきで折り鶴をこしらえたことを思い出す。こんなもので露木の病状が良くなるわけもないのに、と内心冷笑しながら。

「悪いけど、早く家に帰らなきゃ。俺、兄貴と二人きりだし」

 軽く眉を寄せ、申し訳なさそうな表情を作ってそう答えると、善良なクラスメイトは慌てた様子を見せた。

「そうだったよな、氷室は帰らなくちゃならないもんな、無神経だった、ごめんな」

 矢継ぎ早に浴びせられた謝罪の言葉に、俺は唇の端を上げて微笑んで見せた。どうせ彼らが見舞いに行くのも、放課後の塾通いをさぼる言い訳にするためなんだろう、と思いながら。

「付き合いが悪くてごめんな。露木によろしく伝えてくれよ」


 校舎の横にある駐輪場から、自分の自転車を見つけてロックを解除する。ところどころ錆び付いたママチャリは、兄貴が同じく高校に通っていた頃に使っていたお下がりだった。坂の上に校舎があるというのに電動ですらない自転車を漕ぐのは苦行だが仕方がない。そんなわがままが言えるほど、我が家にはお金があるわけではないことは承知していた。

 行きは汗だくになって漕ぐ分、帰りは楽だ。重力に逆らわず、ただただ坂を下っていけば良い。まだ肌寒い季節、風を切って自転車を走らせると、耳たぶがキンと冷えて痛む。あと1週間もすれば、桜の便りが届くはずなのだが。

 いつも通り、坂の下の弁当屋で半額に値下げされた弁当を買って家に帰る。ビニール袋をがさつかせながら学ランのポケットを探り、アパートの鍵を探し出す。家賃が安いから、という理由だけで兄が選んだこのアパートは、隣に立つ高層マンションのせいで、日当たりも眺めもお世辞にも良いとは言い難かった。踏みしめるたびに軋んだ音を立てて鳴る外階段を登り、頼りない薄さの扉を解錠すると、ムッとするようなこもった匂いが鼻を突いた。

「あの野郎、また片付けもせずに出社しやがって」

 そう毒づきながら窓を開け放ち、床に放りっぱなしの靴下をつまみ上げて洗濯籠に放り込む。食卓に置かれたままのカップ麺は脂が固まって表面が白っぽくなっていた。なるべく凝視しないように気をつけながら、中身をトイレに流して処分する。

 こうして毎日俺が気を使って家の中を片付けてやるのを兄は当然だと思っている。俺が働いてお前を養ってやっているんだから当たり前だろう、と、そういう態度が鼻につくんだと言ってやれたら、どんなに気分が晴れるだろうか。

 午後7時を回っても、兄が家に帰ってくる気配はなかった。弁当をレンジで温め、箸をつける前にそっと手を合わせる。いただきます、を一人の時でも必ず言うのは、もうこの世にはいない両親に対するささやかな祈りなのかもしれない。1日3回、食事を摂る時に俺は彼らに関する微かな記憶をたぐり寄せる。俺が6歳の時に交通事故で命を落とした両親に関する記憶は、残念ながらそう多くはない。

「食事の前には食べ物に感謝するのよ、それから、作ってくれた母さんにも」

 俺は今でも母親の言いつけを守っている。今日も命があることに感謝して食事を摂る。突然の事故で命を奪われた両親のように、明日も同じように命があるかなんて、誰にもわからない。死という真っ暗闇は、もしかするとすぐそこで口をぱっくりと開き、俺が来るのをじっと待っているのかもしれない。


 結局兄が帰ってきたのは、日付けが変わってからのことだった。全身からアルコールと煙草の匂いを発散させて帰宅した兄に、俺は思わず眉をしかめた。社会人という生き物は、こうも毎晩飲み歩くものなのだろうか。

「シャワーくらい浴びてから寝ろよ。あと、脱いだ服くらいきちんと洗濯籠に入れろ。それぐらいは出来るだろ」

 居間のソファでグレーのスーツ姿のままのびていた兄は、視線だけをぎょろりとこちらに向けた。同じ二重まぶたでも、きつい印象を与えがちなつり目の俺とは違い、兄の目は重たげな垂れ目だ。素面ならば穏やかそうに見えるその目は、今は酔いで赤らみ、すっかり濁っていた。

「うるせえな。仕事で疲れてるんだからほっとけよ」

 子供のように唇を少し尖らせてそう言うと、兄はこちらに背を向け、しばらくすると高鼾をかきはじめた。短く切り揃えられた髪は、酔って悪戯に掻き回したのか、ところどころあらぬ方向に跳ねている。

 酒を飲んで帰ってくると、いつもこうだ。ソファで朝方まで眠り込み、陽が昇り始めた頃にシャワーを浴びて、カップ麺でおざなりな朝食を摂って慌ただしく出社する。ソファで眠る姿は、働き始める前よりも少し痩せたように見えた。中学の頃は野球部に所属し、体つきもがっしりしていたのに、今は見る影もない。毎日飲み歩いているくせに、どうして兄が痩せ細っていくのか、俺にはちっとも分からなかった。



「もう、長くはないらしいぞ」

 翌日の昼休み、化学のレポートの提出のために職員室に入ると、教師たちが話す声が聞こえた。クラス40人分のレポートの束はそこそこの厚みと重みがある。紙の端が折れたりしないよう、レポートの束を慎重に机の上に置いた。化学の担当教師は実験室にでもいるのか、職員室には不在だった。

「しかし露木もかわいそうだよなあ、若い身空で…小学生の頃からひっきりなしに入院して、その上16で死んじまうなんて、ひどすぎるよなぁ」

 そう話す声には大した悲壮感もなく、まるで今日や明日の天気のことでも話題にしているかのような軽薄な響きがあった。彼らにとっては人の死も、せいぜい昼飯時の話の種にしかならないのだろうか。むかっ腹が立った俺は、わざと大きな音を立てて職員室のドアを閉めた。人の死に関することとなると、心が容易に波立ち、感情も行動も制御できなくなるのだ。教師に見咎められないうちに、教室へと戻る廊下を小走りで急いだ。

 かわいそうだよなあ、と見知らぬ教師は言っていた。他人というのはいつだってそうだ。病気で死にそうな露木や、両親を亡くした俺のような人間をかわいそうな子という枠に入れ、そこから出ることを決して許さない。鑑賞され、話の種にされて、俺たちはただ消費される。枠の中の俺たちには、誰も助けの手など差しのべてはくれない。その枠から出たいなら、自分自身で血の滲むような努力する他ないのだ。


 教室に戻ると、クラスメイトたちは弁当をあらかた食べ終わり、短い昼休みを満喫しているようだった。校則で持ち込みが禁止されているはずの漫画を回し読みしている奴らもいれば、スマートフォンでゲームに興じ、勝っただの負けただのを大声で騒ぎ立てている奴らもいる。席に戻っても、俺に声をかけてくる奴はひとりもいなかった。次々と新刊の出る漫画も、課金アイテムがないと遊べないゲームも、我が家の厳しい経済状況では気軽に手にすることは出来ないアイテムだった。彼らのように、クラスメイトから羨ましがられるようなアイテムを持っていれば、俺もあの輪の中に入ることができたのだろうか。惣菜パンをかじりながらそんなことを空想しかけ、俺は慌てて首を振って打ち消した。別に、彼らと友達になりたいなどとはちっとも思わない。

 昨日露木の見舞いを断ったのは、クラスメイトたちと一緒に見舞いに行くのが嫌だったからだ。大した考えもなしにそれが慣習だからと千羽鶴を折り、薄っぺらい見舞いの言葉をかけ、病の床についた露木と会話も続かず、そそくさと病室を後にしたに決まっている。かわいそうな露木に対する同情心を存分に発揮できて、さぞ満足したことだろう。そう思うと、先ほど職員室で感じた苛立ちが、再びむくむくと頭をもたげてくる。クラスメイトに対する怒りには正当性などなく、歪んでいるのは俺の方だと頭ではわかっている。それでも、体に一度染み付いてしまった思考回路というものは、なかなか直すことなどできないものだった。それが怒りという激しい感情を伴っているのなら、なおさらだ。

 

 5限の授業は現代文だった。老齢の男教師が教壇から話す声はぼそぼそと聞き取りづらく、昼食後ということもあって眠気を誘った。窓際の露木の席は主人不在で空いたままだ。カーテンの隙間から入る陽の光が彼の席を明るく照らし、積もった埃がちらちらと舞って光る。時折舟を漕ぎながら、俺は露木の席をぼんやりと見つめていた。たまに登校した日にも、誰と親しく話すでもなく、静かに本を読んでいた露木。露木も俺も地元の小学校に通い、高校に入っても地元を離れなかったから、10年以上は同じ学校に通い続けていることになる。しかし、クラスが一緒になったのは、今回が初めてだった。

 教師たちがもう長くはないと噂をしているということは、相当彼の容態は悪いのだろう。本当に、彼はもうすぐ死んでしまうのだろうか。死ぬって、どんな感じなんだろうか。想像するだけで、胸の奥が重苦しくなる。

 両親が交通事故で揃って死んで以降、死は俺にとって身近で、身近なくせに正体が分からない、真っ暗闇の化け物だった。そいつはいつも、ぱっくりと口を開き、こちらを見ているような気がするのだ。死を間近にしているらしい露木にも、そんな真っ暗闇が見えることがあるのだろうか。

 突然そんな思いに囚われ、俺は居ても立ってもいられないような心地になった。落ち着きなく指を組み、顎の下に置いて肘をつく。少しだけ俯くと、やや伸びた黒い前髪が、ぱさりと瞼の上に掛かった。露木に会いたい。会って、死を目前にした彼の見ている景色を知りたい。それは義務感から見舞いに行ったであろうクラスメイトたちよりも、よほど悪趣味な見舞いの動機だっただろう。それでも、突然湧いた強い好奇心に打ち勝てず、俺はその日の放課後、露木の入院する病院を訪ねることにしたのだった。



 坂を下り、自宅アパートから自転車で10分くらいの場所に、その病院はあった。5階建ての建物の表面を覆っているタイルは陰気な緑色でところどころ剥がれ落ちており、見ている者の気分を否応なしに暗澹とさせる。本館は昭和の時代に建てられたらしく、以後増築を繰り返しては、この病院はその横幅を伸ばし続けている。露木が入院している小児科病棟は東館にあった。本来であれば内科の診察を受けるべき年齢に達しているが、産まれた時から心臓の病気を患っている彼は、かかりつけの医師がいる小児科に入院することが決められているらしい。拡張型心筋症、という難しい病気を持っていることは担任教師から聞かされていた。

 小児科病棟は消毒液の清潔な匂いがして、どこかの部屋で流しているらしいアニメ番組の陽気な音楽が聞こえてくる。露木の友人ですが、とナースステーションで声をかけると、年配の看護師が彼の部屋まで案内してくれた。

 501号室は個室で、部屋の中には彼しかいないようだった。部屋番号の横に、露木幸晴、という彼の名前がマジックペンで黒々と記してある。扉をノックすると、ややあって、はい、とか細い声が聞こえた。

「…露木、久しぶりだな。氷室だよ、覚えてるか?」

 病室内にかけられた黄色のカーテンを捲ると、ベッドに横たわる露木の姿が目に入った。う、と思わず一瞬息を飲む。首には痛々しいほど太い点滴の管が入れられ、口元には大きな酸素マスクが、胸には心電図を感知するためのシールが装着されていた。身体中にありとあらゆる管がつけられ、それが点滴の袋やらモニター画面やらに繋げられていた。俺の声が聞こえたのか、露木は薄く目を開いた。

「氷室…来てくれたのか」

 露木の焦げ茶色の瞳が、驚いたように見開かれる。くっきりとした丸い瞳がこぼれ落ちそうだった。露木が俺の名前を覚えてくれていたことに、ひとまず安堵した。なかなか登校することができない露木と最後に話したのは半年以上前のことで、それも提出締切が迫ったレポートの件で交わした極めて事務的な会話だった。一応クラスメイトではあるが、正直なところ、俺と露木とは、それ以上でも以下でもない関係だ。

「これ、持ってきたけど飲むか?」

 何を土産に病室を訪れれば良いか分からず、苦し紛れに行きがけのコンビニで買った清涼飲料水を差し出す。熱がある時などに母親に飲ませてもらったことを思い出したからだ。水色のラベルが貼られた薄甘い半透明の液体のボトルを見て、露木は曖昧な笑みを浮かべた。

「うーん、いまひとつ食欲が湧かないや。でも、ありがとう。冷蔵庫にしまっておいてくれないか」

 病人が何を食べたがるものなのか、想像もつかない。ベッド横の棚に備え付けられた小さな冷蔵庫を開けると、栄養ドリンクや缶ジュースが所狭しと並べられていた。昨日見舞いに来たクラスメイトが持ってきたのだろうか。俺の発想もあいつらと同レベルかと思うと少し悔しい。

「なあ、塩辛いものとか持ってないの」

 露木はそう言いながらゆっくりと寝返りを打ち、身体をこちらに向けた。あまり人と喋る機会もないのか、その声は風邪を引いた子供のように掠れている。水色のパジャマの袖口からちらりと見える手首は、頼りないほど白く、ひどく細かった。

 通学用の鞄の中を探ると、いつから入っていたのかも知れぬ、スナック菓子の小さな袋が出てきた。賞味期限は来月だ。これなら食べても大丈夫だろう。差し出してやると、露木は細い腕を差し出して袋を受け取った。しかし、長い入院生活で握力が落ちているのか、布団の上に取り落としてしまう。袋の口をあらかじめ開けておいたせいで、薄茶色いスナック菓子が布団の上に勢い良く散らばった。

「あーもう、何やってるんだよ」

 散らばった分を拾い集めてゴミ箱に捨てると、袋の中に無事に残っていたのは手のひらに収まる程度、ほんの少しだけだった。露木は横たわったまま、何も言わずに唇を開いた。良く磨かれた、病人には不釣り合いなほど白い歯が覗いている。食べさせろってことかよ、とムッとしながらも一片をつまんで口に運んでやる。

「美味い。病院食って塩味が薄くてつらいんだ」

 スナック菓子の一片を食むと、露木は満足そうに微笑んだ。もう一回、とでも言いたげに唇を開くので、袋を手のひらに押し付ける。二度目はないぞ、甘えずに自分で食えよ。

「一日中ベッドの上で寝てばかりなのか?」

「そうだよ。勝手に起き上がると看護師がすっ飛んで来るんだ」

 露木はスナック菓子をゆっくりと口に運びながら、身体中に繋がれた管を指差した。それらのうち、一つでも抜けてしまうと生命の維持が難しいらしい。

 やはり、露木は死に限りなく近い状況にあるのだ、と確信する。どれくらい弱っているのだろう。立ち上がれないくらい、体力が擦り減っているのだろうか。

「起き上がって歩きたいとか、思わないのか」

「そりゃあそう思うさ。でも、一人きりじゃ起き上がることすらできないんだ。誰かの助けがないと」

 露木はベッドの足下に敷かれたマットを指差した。

「これを踏むとさ、センサーが反応してナースステーションの方で警告音が流れる仕組みになってるんだ。僕が勝手に起き上がってどこかに行ったりしないように、監視しているんだよ」

 繊細な管を身体中につけた露木が起き上がろうとするのを阻止するのは、致し方がないことのように思われた。それでも、横幅が1メートル程度しかないベッドに一日中縛り付けられているなんて、ひどく気が滅入るだろうと想像はつく。

「俺が手伝ってやるよ。ちょっとくらい動かないと、床ずれができるってテレビで言ってたぜ」

 好奇心を抑えきれなくなり、俺は思わずそんな言葉を口にしていた。露木を気の毒に思う気持ちと同じくらい、死を目前にした人間がどのくらい弱っているものなのか、気になって仕方がなかった。

 背中に手を入れると、寝間着越しに肉の薄い身体の感触が伝わってくる。背骨や肋骨が浮くくらい、露木は痩せ細っていた。腹筋を使って上体を起こすことができず、細い腕が抱きつくように俺の首の後ろに掛けられた。腰のあたりから身体を持ち上げてやると、う、という短い呻き声と共に上半身がこちらへと凭れかかる。たったこれしきの、運動とも呼べない動きだけで、露木の心臓は早鐘のように激しく脈打っていた。本当に起き上がらせて良いものだろうか、と今更俺が躊躇しているのを悟ったのか、露木は疲労で荒い呼吸の中で、こう言って見せた。

「最後までやれよ、氷室。君が言い出したことじゃないか」

 その言葉に発破をかけられ、俺は腰に力を込めて氷室の身体をベッドから持ち上げた。十分な筋力がないのか、とうとう全体重が俺の方に凭れかかり、マットを避けて床についた足は震えていたが、露木は起き上がれたことに感嘆している様子で、ふぅ、と一つため息をついた。

「すごいや、僕、立ってるんだな。こんなの、久しぶりだよ」

 氷室の視線は、はめ殺しの窓の方に向けられていた。ベッドに横になっている時とは視線の高さが変わって、見える景色も変わったりするのだろうか。少しでも遠くを見せてやりたいと露木の身体を持ち上げようとしたのだが、結論から言えば、それが災いした。彼の体重をうまく支えきれずによろめいてしまい、俺の足は見事にマットの中心を踏んでしまったのだ。

「やばいぞ、氷室…看護師に見つかったらめちゃくちゃ叱られるぜ」

 ナースステーションの方から、警告音がけたたましく鳴り響いているのが聞こえる。全身で寄りかかってくる露木の身体をなんとかベッドに移動させ、元通りベッドに横たわらせた。管が絡まっていないかを素早く確認し、薄い身体にぼふ、と音を立てて布団をかぶせたのと、部屋の扉が開いたのはほぼ同時だった。

「どうしたの、露木くん…!ベッドから落ちたんじゃないかと思って心配したのよ」

 先ほど部屋に案内してくれた看護師が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。あまりの剣幕に圧倒され、俺が言葉を紡げずにいると、露木がひょこりと布団から顔を出した。

「ごめんなさい、僕がマットの上にペットボトルを落としちゃったんです。彼が元どおりにしまってくれたから、もう大丈夫」

 露木の頬は、先ほどの騒動でほんのりと上気している。幾分か良くなった顔色のせいで悪事がばれやしないかと、俺はひやひやした。幸い、看護師は訝しがりながらも一応は引き下がることに決めたようで、何かあったらナースコールを押すようにと念を押して部屋から出て行った。

「悪かったよ、露木…無茶をさせてしまったな」

 元とはいえば、露木を起き上がらせたのは俺の邪な好奇心からだった。死を目前にした同級生の体力がいかほどのものかと、そんな理由で彼に無理を強いるべきではなかったのに。

「そろそろ帰るよ。療養の邪魔をしてすまなかった」

 ベッド脇に置いた鞄を手にした俺を、露木はシャツの裾を掴むことで引きとめようとした。しかし、俺が扉の方へと歩みを進めると、彼の指先など簡単に剥がれてしまう。薄い布地を摑み続けておくだけの力も、彼にはすでに無いのだ。

「なぁ、また来てくれよ。氷室が来てくれて、僕はすごく楽しかったんだ」

 まだ少しだけ上気したままの頬で、露木はそう言った。俺の助けを借りて起き上がって、窓の外をほんの数秒だけ眺める、そんなことが楽しかったのか。普段の彼の生活を思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

「わかったよ、また今度な」

 約束、と露木が指先を出すので、小指同士を絡めて指切りをした。冷たい指先が触れ合い、露木は焦げ茶色の瞳を細めて、にっこりと微笑んだ。しかし、それが、生きている彼と交わした最後の思い出だった。


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