夜のなかの小舟
音崎 琳
1.
仲村くんから相談を受けたのは、六月の頭だった。
「ちょっと旅に出るから、稀之介を預かってくれないかな」
あと十分で、昼休みが終わるというときだった。私は本と携帯を鞄につっこみ、本日の朝食兼昼食であるりんごヨーグルトの空き容器が入ったビニール袋を握って、まさに立ち上がろうとしたところだった。ゆらりと影が私の上に落ちた。
久しぶりに聴く声で、一瞬、誰だかわからなかった。頭が真っ白のまま顔を上げて、目が合って、一秒間のうちにざあっと記憶が流れていった。めまぐるしい濁流の中で、私は今しがた捕まえた声を再生して、ようやく言えたのはこれだった。
「はあ?」
旅に出るって何だ。稀之介っていったい誰だ。
久しぶりに見る仲村くんは、ちっとも変わっていなかった。彼は、言葉にならない私の問いに飄々と答えた。
「何か、そういう気分になっちゃって。しばらく西のほうをうろうろしてこようと思う」
「はあ……大学は」
「休む」
けろりと言う。そうですか。
「で、マレノスケというのは……?」
「うん、僕が持っているパキラの名前なんだけどね、留守の間水遣りをどうしようかと思って」
「水遣り……?」
「そうそう。パキラ、知らない? 観葉植物だよ」
「知りません」
「どう説明したものかな……観葉植物としては、わりとメジャーだと思うんだけど……いかにも葉っぱ! って感じの葉っぱが五枚ずつ、もみじみたいな形で出てくるやつ。いや、葉っぱは一枚ずつばらばらだから、本当のカエデみたくくっついてるわけじゃないんだけど、シルエットとしてはそんな感じってこと。幹の根元がふくらんでいて、たまに編んであったり――」
いくらでも続きそうな長口上を遮って、私は、ぐぐっと眉根を寄せてみせた。
「で、そのパキラくんの水遣りを、私にやれってこと?」
「そうなんだよ! 乾燥には強い植物だけど、さすがにずっと放っておくと枯れちゃうからさ」
いったいどれだけ旅に出ているつもりなのだ、こいつは。
「ねえ、同郷のよしみってやつでさ……頼まれてよ」
格好だけはしおらしく、両手を合わせて拝んでくる。私は、やれやれと大げさにため息をついた。
「仕方ないなあ……」
望みどおりの返答を手に入れて、仲村くんはにっこりと笑う。人好きのする笑顔だと評する人が多いが、私に言わせれば食えない笑みだ。
「じゃあ明日、大学に連れてくるからね」
「ここで渡すと?」
「うん」
「そのパキラ、どのくらいの大きさなの」
「えーっと、鉢はこのくらい?」
胸の前で何かを抱きかかえるポーズをとる。五キロの米袋くらいあるではないか。
「それを、私に、家まで抱えて帰れっていうの?」
満面の笑みで訊く。三秒間、双方無言のまま。
「……とんでもございません。わたくしめが謹んで運ばせていただきます」
仲村くんはようやく、ひきつった笑顔で答えた。どうやら本当に運ばせる気だったらしかった。
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