第10話 (38歳)

 定年退職をした夫との、平和でのんびりとした二人暮らしが続いていた。時々、子ども達が孫を連れて帰ってくるのが何よりの楽しみで、帰省の予定が立つと、孫達の好きな果物やアイスやお菓子を山程用意した。息子には度々「買い過ぎだ」と怒られた。

 それは、私の人生の中でも、特に幸せでゆったりとした時間だった。そして私は、それはまだまだ、少なくともあと10年くらいは続くのだろうと、根拠もなく漠然と考えていた。


 夫が71歳の時だった。定年退職をした後も夫は、まだまだ体を動かしていたいからと、週に数度、シルバー人材派遣の仕事をしていた。

 それは、夫が朝の駅前で、駐輪場整理の仕事をしている際に起こった。

 通学・通勤の時間帯、この駅前はバスや送迎の車でとても混み合う。後に警察に話を聞いたところによると、子どもを駅前で降ろした車が、後ろから来たバスに煽られ、クラクションも鳴らされ、焦ってしまい、運転を間違えてしまったのだという。

 ブレーキとアクセルを踏み間違えられた車は、縁石を乗り越え、猛スピードで夫へと突っ込んだ。

 その時の夫は、通勤のために自転車で駅へと来た若い女性から自転車を引き受け、女性へと挨拶をして送り出した直後だったという。

 車は夫と幾台もの自転車を跳ねてから止まった。

 夫はすぐに救急車で病院へと運ばれ、その連絡は私の元へも届いた。

 早々と免許を返納してしまっていた私は、すぐにタクシーを呼び、到着を待つ間に子ども達にも連絡を入れた。

 最悪の事態がほんの一瞬頭を掠めたが、長く穏やかな暮らしで平和ボケしきっていた私は、まさかね、と、きっとそんなことは起こらないと、信じきっていた。


 病院へ到着した頃には夫は亡くなっており、私も子ども達も、死に目には立ち会えなかった。



 突然のことに、完全に腑抜けてしまっていた私の代わりに、子ども達が中心となって動いてくれた。名前だけは私が喪主を務めていたが、実際には何もしていないまま、気が付くと夫の葬式を迎えていた。

 葬式の最後には、喪主が参列者の前で挨拶を述べる手筈となっていた。息子は私を心配し、「挨拶はなくしても良い」だとか、「俺が代わりに挨拶しようか」だとか、色々と提案してくれた。私は、ここまで子ども達が全てやってくれたのだから、と思い、挨拶はやる、と答えた。息子は、予め用意していたのであろう挨拶文を書いた紙を私に持たせて、「じゃあ俺は隣に立ってるから。途中で無理だと思ったらいつでも代わるから」と言ってくれた。


 いよいよ挨拶の段になり、私と息子は並んで参列者の前に立ち、頭を下げた。息子から渡された紙を開き、前に掲げた。私の手が震えていることに気付くと、息子が紙の片側を持ってくれた。私と息子の二人で、紙を片側ずつ持ったまま、私はそれを読み上げ始めた。

 途中まで読み上げたところで、挨拶の内容に、事故の内容にごく簡単に触れる箇所があった。挨拶文を読み上げる私の言葉は、そこでピタリと止まってしまった。頭の中が真っ白になる。そこを言葉に出してしまうと、夫が亡くなったことを公に認めるかのようで、それを拒否するかのように、声が出なくなってしまった。

 静かにパニックに陥っていると、ふいに息子の右手が私の左手を握った。息子の顔を見ると、私にしか聞こえないくらいの小さな声で、「大丈夫」と言った。

 息子に背中を押されるかのように、私は読み上げを再開させ、何度も何度もつっかえながら、挨拶文を最後まで読み上げることが出来た。



 やるべきことが粗方終わり、四十九日を迎えるまでは少し休める、といった段になって、私は、やっと、夫の死と向き合えるようになった。

 ここ最近、交代で家に泊まってくれていた子ども達が、自らの家へと帰り、久しぶりに一人の夜を迎えた。

 仏壇に置かれた夫の遺影に話しかける。

 私ね、あの子と手を繋いだの。何十年ぶりかしら? とても暖かくて大きい手だったの。あの子、いつの間にあんなに大きくなっていたのかしら……

 夫の遺影へと話しかけながら、やっと、人目を憚ることなく、大声で泣くことができた。

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