4.逃亡

「ごめん親父…」

 ガクリと力の抜けた親父を肩に担ぎ、風呂場を出る。

 いったん親父を布団の上に寝かすと、服を着た。有り金を全部ビニールケースに入れて上着の内ポケットにねじ込むと、親父を負ぶって外に出る。


 雨は相変わらず降っているが、だいぶ勢いが弱まってきた。明日には晴れるかもしれない。

 親父は一人で駅に向かえと言ったが、俺は家の裏手にある山道へ向かって歩き出した。

 俺達の様子は、連中が隠しカメラで見ているはずだ。異変を感じて駆け付けた時、駅へ向かっていたらすぐに見つかってしまうだろう。そこまでは割と距離がある上に、しばらくは一本道だからだ。


 とにかく速足で山へ。急げ、急げ。ずっと雨がひどかったから、足元が非常に悪い。連中も深追いはしない、その可能性に賭けたい。舗装された道ではなく、獣道のような細い道へと足を踏み入れる。積み重なった木の葉がぐしょぐしょに濡れていて、踏む度に少し沈むが、とにかく無我夢中で歩いた。

 子どもの頃、逃げたくなって山へ入った事がある。が、あまり奥まで進む前に怖くなって引き返した。山が怖かったのか、親父が怖かったのか、よく覚えていない。とにかく、逃げ切れるとは思えなかった。今はどうだろう。


「うっ…」

 背中で親父がうめき声を上げる。目を覚ますなと願いながら、とにかく歩く。数日の雨ですっかり濡れそぼって重くなった木々が大きな雫をバタバタと垂らし、冷えた空気で体が冷える。

「死ぬなよ親父。まだ死ぬな」

 そんなに大きな山ではないはずだ。確か地図では、隣の町に繋がっていたはず。昔は、この獣道のような細道を通って行き来していたはずだから、必死に歩けばきっとどこかへ抜けられるはず……。

 はず、はず、と同じ言葉が頭の中を駆け巡り、冷えた空気の中で背中が温かい。大丈夫、親父はまだ生きている。


 無我夢中で歩いて、どれくらい歩いたのか全く分からなくなった頃、俺の意識も半ば朦朧とし始めた。

 体が冷えているせいもあって、親父の体重がどんどん増していっているように感じられる。意識を失っている人間は重い。ずっと負ぶったまま歩いているから、体力も落ちている。しかしだからと言って、どこかで休憩なんてできるはずもない。木々が傘になって雨があまり落ちてこないところを見ると、だいぶ弱まっているらしい事だけは分かるが、霧がかかり始めて、前も上もよく見えなくなってきた。

 俺は立ち止まって、息を吐いた。目を閉じて静かに呼吸し、少し気持ちを落ち着けて目を開く。

 たったそれだけ、わずか数秒の出来事だ。それなのに、霧はあっという間に俺達を包んで、俺の視界を奪ってしまった。


 どうしよう。どうしようもないか、黙って霧が晴れるのを待つのも無理だ。道は続いていたんだから、とにかく進むしか…。

 そう思ったのが、間違いだったらしい。

 一歩踏み出した俺は、足をズルリと滑らせた。

「うわぁっ!」

 まずい、親父を落とす訳には!

 どうにか体を捻って片腕で親父を支え、もう片腕は転んだ衝撃に備えようと前へ突き出したが、俺の体はどこにもぶつからなかった。


 その代わり、体が宙に放り出されたのを感じる。崖だったのか…!

「親父……!」

 どうにか親父を抱きしめようと必死に引き寄せたのを最後に、すうぅ……と吸い込まれるように、俺は意識を手放した。

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