第7話 家令と宮妓
翠玉が乗る馬車の馭者を務めた小太りの宦官――第五皇子の家令である――は、にこやかな笑みで、砂豹に向かってすらすらと述べる。
「
「伺いましょう」
「この度は〈黄花の儀〉をお迎え、まことにおめでたいとのこと。
「承りました」と砂豹が言えば、相手は一礼の後に去って言った。
砂豹は、職責から桂影をそのまま眠らせることにした。
あの時の〈黄花の儀〉は「離宮から帰還間もない頃だったから」と皇子の疲労を理由にできたものの、二回目はない。
ゆえに疲れを露わにする主人が眠る間、皇子より諸々の決定権を与えられた砂豹が一人で、七王爺の
そして、第五皇子に仕える宦官が連れてきた少女――翠玉に目を向ける。
「ご機嫌よう、
「……はじめまして」
一方、翠玉は
高砂豹と名乗った老宦官の声は、早くに去勢された男性とは思えないほどに
(やっぱり、良くなかったのね……!)
だが、宮妓の翠玉に、皇子の――七番目でも五番目であっても――下知に逆らえるはずもない。
第五皇子に仕える宦官と、第七皇子に仕えるこの老宦官の間に走る、見えない火花を無視できるほど、翠玉は剛胆ではなかった。
顔を上げるように砂豹に言われる。
「まずは、
と、老家令は、翠玉に背中を向けた。
翠玉が案内されたのは(客人ではないから当然だと翠玉は思う)、西側にある砂豹の執務室だった。扉を開けた正面に、方卓を挟む長榻、その奥に書斎机と両脇に書棚がある。
「扉は開けたままで結構です」
先に入室した砂豹に長榻を勧められた翠玉が、扉を閉めようと手をかけると、そう言われた。
促されるままに翠玉は腰を下ろす。砂豹は方卓を挟んだ正面に着席した。
翠玉は七王爺が午睡していると知らされる。
「改めまして、在下は
「ああ、いいえ。私も
第五皇子とその友人である
一方、謝罪を口にしたものの、砂豹は感情が読み取れない表情で続けた。
「早速ではございますが、王爺にお目見えする前に、小星様にはいくつかの質問を伺った後に、七王府の説明をさせて頂きます」
嗄れた声ながらも、聞き取りやすい速さで話す砂豹は、一度口を閉じた。
身を固くする翠玉を真っ直ぐに見つめる。
「小星様は、なにゆえ五王爺の御車に?」
翠玉は説明した。宜春院に七王爺からの迎えが来なかったこと、歩いていた道中で、五王爺と出会ったことを。
「御遠慮申し上げたのですが、五王爺とお付きの方に言われて……」
うなだれる翠玉に、顔に皺が刻まれた宦官は「なるほど」と頷いた。
「今回は我々の落ち度ですが、御身は七王爺の小星様となる身。
慇懃な老宦官の言葉に、翠玉も「はい」と真面目な顔でうなずく。
「……畏れながら。王爺は、私についてなにか仰っていましたか?」
恐る恐る尋ねる翠玉だが、家令によってにべもない返答を聞かされる。
「在下が申し上げるわけにはいきませぬ」
「そうですか……」
「しかしながら、七王爺は小星様の存在をお気にかけていた御様子」
しゅんと肩を落とした翠玉だが、砂豹の言葉に喜色が浮かぶ。
「荷馬車の上で歌うかどうか、と仰せでした」
「荷馬車?」
「宜春院で六王府の宦官とお話されたと伺いました」
「……ああ、あの時の」
宜春院に来た、丸顔と四角い顔の二人組だと思い出す翠玉だが、荷馬車と歌の関係がわからず、砂豹に問えば、どうやら七王爺が翠玉が場所を考えずに歌いだす女かどうかと心配しているらしいと聞かされる。
「……確かに宮妓や楽人の中には、興が乗れば、ところかまわずに歌う方もおりますが、私は違います」
そうした者は天性の才能によって、許される。しかし翠玉には、己の技芸を披露する場所とそうでないところで弁えるだけの冷静さがあった。
「それは重畳。すでに
王府で開かれる宴ないしそれに準ずる昼餐会、晩餐会で、翠玉が宮妓として歌舞音曲を献じる場面はないと言い切られてしまう。
「ゆえに、七王爺も小星様の処遇については、どのようになさるか案じておいででした」
歌い、踊り、演奏を封じられた宮妓が小星となった場合、皇子と同衾するだけの肉枕となる。
「ですが、それはそれで七王爺の外聞が悪うなりまする。そこで、小星様にお伺いいたします。
「特技……ですか」
楽器演奏は芸能の最たるもの。囲碁も遊戯の側面がある。画は、水墨画や人物画、風景画だけではなく、いわゆる宮中の装飾品――この場合は、季節に似合った王府の調度品の支度や花を活けるといった能力も含まれる。
(――でも、わざわざ「以外で」と尋ねるのは、能筆家も、装飾係も王府にはすでにいるということ)
皇子に仕える宦官は、朝廷に仕える家臣と同等の能力を持つ者が多い。
砂豹の視線を受けて翠玉は言った。
「身体は丈夫です。どこでも眠れます、なんでも食べられます。あと――算術に自信があります」
「ほう、算術。どちらで学ばれたのですか?」
「父が商人でしたので」
三桁までなら暗算ができること、算盤があればさらなる計算能力も発揮できると翠玉は口にする。
「なるほど――試してもよろしいですかな?」
砂豹は立ち上がると、書斎机から算盤と紙、墨壺、筆を載せた盆を持ってきた。
翠玉の前に、それらを並べる。
「今から申し上げる計算の答えをお書きください」
「はい」
「一〇二掛ける八〇七八引く一一〇一」
お使いください、と算盤を示される。翠玉は算盤を手に取り、珠をはじいた。
筆を持ち、八二二八五五と答えを書く。
「続いて一七一六割る四足す一六一五」
パチリパチリと珠をはじく。二〇四四と書き込んだ。
「なるほど」とつぶやく砂豹の表情に、翠玉は気を引き締める。七王府に仕える宦官にも、四則計算はできるだろうと考える。
「次の問題です。甲と乙、二人の人間がそれぞれ一日で作った織物の合計が九尺である。甲が五日、乙が三日で二人合わせて合計三三尺の織物を作った場合、甲乙はそれぞれ一日に何尺の織物を作り、七王府で今後も継続して雇用するには、どちらがふさわしいでしょうか。なお、甲も乙も一日に作る織物の量は同じと仮定いたします」
「……確認いたします。甲と乙の一日の合計が九尺。甲が五日、乙が三日で合計三三尺の織物を作ったのですよね」
「はい。できれば、計算方法もお教えください」
翠玉は筆を執った。
「まずは二つの計算式に分けます。甲と乙の合計が九尺とのことですから、甲はすなわち九尺引く乙であると考えます。これが一つ目」
紙に『甲足す乙は九尺』と書き、さらにその下に『甲は九尺引く乙』と
「二つ目の式です。甲が五日、乙が三日で合計三三尺ですから、五日掛ける甲足す三日掛ける乙の合計が三三尺と考えます」
簡略化して、『五甲足す三乙は三三尺』と書く。
「『五甲足す三乙は三三尺』――この式の甲に、一つ目の計算式から求めた『甲は九尺引く乙』を当てはめます。四則計算では、乗法と除法が加法、減法よりも優先されるため、『五掛ける九尺引く五乙』とここでは書きます。五掛ける九尺で四五尺になりますから、四五尺引く五乙と考えます」
さらに『四五尺引く五乙引く三乙は三三尺』と計算式を書く。
「五乙は、続く二つ目の式での三乙を引くため二乙となります。四五尺から三三尺を引くと十二尺になります。二乙は十二尺のため、乙は六尺と計算されます。さらに甲と乙の合計が九尺のため、九尺から乙である六尺を引くと甲が三尺と導けます」
一日当たり、甲は三尺、乙は六尺の織物を作る――と求めることができた。
しかし、と翠玉は息を整えた。
(この問題は、ただの計算方法を訊いているんじゃない)
感情が読めない老家令を見つめた。
「――畏れながら、私は七王爺ならびに七王府の御意向を存じ上げません。単純に考えれば、甲は三尺、乙は六尺の織物を一日に作りますが、織物の種類や完成度によって、七王爺ならびに七王府が求めるものが違うと思います。また、一介の宮妓である私が口を挟んでよい問題ではありません」
「――素晴らしい。冷静に考え、己の立場を踏まえた上での返答もできる。なるほど。礼儀の講釈を垂れる必要はなさそうですな」
「……お褒めに預かり光栄にございます」
及第点はもらえたようだと、翠玉は両手を膝に置いた。
――翠玉の算術だけではなく、翠玉自身をも試されているのだ。
七王府が用意した馬車は、七王府側の都合で翠玉は乗ることが叶わなかったが、もし砂豹相手に不満や怒りを訴えれば、家令である彼の心証を悪くし、七王府の小星として過ごすには、厳しいものがあっただろう。
(覚えられていない私よりは、宦官のほうが王爺に側近いもの――)
皇子自身が、己の事情で再び翠玉を召し上げたとしても、あっさりと手放される可能性もあるし、家令たる砂豹の口添え一つで、翠玉の未来は変わる。
貴顕の男と夜を過ごしただけの女が、権勢を誇れる時代はとっくの昔に終わっているのだから。
「時代によっては、貴きお方の中には、市井の女性を後宮や東宮に招いておりました。しかしながら、そのような女性の多くは、市井にはなくて、後宮や東宮にあるものに対して、御心を患わせました」
「――砂豹様のような宦官にございますか」
「然様。我ら人ならざる身ゆえに、貴きお方の耳目として生きることが許されております。今時分も、この部屋には在下二人だけ、扉を開けた廊下には人の姿は見えませぬが、どこかで誰かが、在下たちを見ておりまする」
後宮や東宮は、それ一つで巨大な城市を形成する。
そうした「人の眼」に、耐えきれなくて心を病む者がいると砂豹は言った。
砂豹は宦官で翠玉は宮妓という、朝廷に仕える人間であるから、他人に見られる――監視されることに、耐性がある。
だから皇子に侍る女性――小星は、宮妓から選出されるのだった。
そんな翠玉の表情を見て、砂豹はわずかに眼を細めた。
「お覚悟は、あるようですな」
「はい」
「結構。なればこそ、在下は家令として、小星様に七王爺と宮中の煩雑な事情をお伝えせねばなりませぬ」
よろしいですか、と問う砂豹に、翠玉は身を固くした。
――そして、翠玉が七王府にきて一刻あまり経ったころ。
開け放った扉の廊下で、燭火に火をともす宦官たちが通り過ぎて行った。
「――年寄りが長く話し過ぎました。王爺の元にご案内いたしまする」
立ちあがった砂豹に会わせて、翠玉も腰を浮かせた。
「王爺の御加減はいかかでしょうか」
翠玉が耳にしたところでは離宮から東宮に帰って間もない頃に〈黄花の儀〉を行うことになったという。
「健康優良児にございますよ。ただ小星様のような女性と接するのは、王爺には初めてのことゆえ……正直、在下にはなにも申し上げられませぬ」
砂豹の言葉をどのように受け止めるか案じる翠玉に、家令は「ひとまず王爺にご挨拶を」と促した。
執務室から出ようとした砂豹は、思い出したように言った。
「ああ。もしその腕環を府内で身につけるとしたら、王爺にご確認くださいませ」
「よろしいのですか、私のような者が王爺にお声掛けして……」
「構いませぬとも」
砂豹だけは首だけを向けていった。
「まこと心より七王爺にお仕えくださいませ」
家令の執務室を出て、院子に面した回廊を歩く。北にある大広間を通り過ぎ、邸第の主人の居室となる書斎へと案内される。
飴色の扉を前に、砂豹は翠玉に言った。
「扉を叩くときは一度だけ。王爺のお返事があってもなくても、開けてくださいませ」
ドン、と扉を叩く砂豹は細腕に似合わず年季の入った音を出した。
「お返事がなくても、ですか」
「然様。万が一があるやもしれませぬから」
皇子という立場上、常に宦官に護衛と監視を受けているため、皇子個人の私的空間はないのだ。ゆえに彼に侍る女も、他人に見られることに慣れた宮妓が選ばれる。
(……だから、あの時も扉を開けたのね)
〈黄花の儀〉を思い出し、納得する翠玉の前で、砂豹は応答がなかった扉を開けた。
「しばしお待ちを」と言われ、翠玉は開けた扉の脇に立つ。室内の様子が気になるが、作法として応えがあるまで顔は廊下に向けていた。銀色の光を反射する左腕の腕環を撫でた。翠玉の細い手首には不釣り合いな、武骨とも思えるそれには蛇が刻まれている。
(……父さん、虎睛)
銀漢帝国の西方に横たわる奔星山脈を乗り越え、さらにその向こうに広がる草原――西域を行き来する隊商の頭目であった父を持つ翠玉は、京師の太清で病に倒れた父の亡き後、兄と共に教坊へと連れてこられた。
当時、翠玉は五歳で、兄は十三歳だった。父が率いていた行商人を束ねるには、兄妹はまだ幼く、二人で支え合って生きていくにも兄の負担ばかりが大きかった。
父や父の部下が築き上げた人脈を頼り、兄は太清の、異邦人向けの店に下働きで住み込みが決まり、翠玉は教坊に行くことになったのだ。
真っ赤な城壁に囲まれ、碧瑠璃の扁額に「教坊」と刻まれた門を見上げて、翠玉は声に出した。
「……『教坊』?」
「おや素晴らしい。もう文字が読めるのですか 」
出迎えたのは、温厚そうな顔をした小太りの男だった。彼が教坊司だったとは後で知った。
兄を雇った店は、店主自ら商品を買い付けに行くという体制だった。二日後には、北方に赴く店主に同行する兄とは、これが最後の別れだと聞かされていた。
「いいか、翠玉。お前は帝国の宮妓になれ。宮妓になれば、美味しいものがいっぱい食べられるし、綺麗な服も毎日着られるぞ」
「兄さんは?」
「俺は駄目なんだ。教坊は十歳以下じゃないと受け入れないって」
お前みたいに歌も踊りも上手じゃないしな、と兄は笑った。
孤児救済の側面がある教坊だが、幼い頃から歌や踊りの稽古に入るため、翠玉の兄は西方の踊りや楽器の心得があっても年齢が該当しなかった。
「わかったわ、兄さん。わたし、宮妓になる」
笑う兄と同じく、翠玉も笑った。そうでないと、泣きそうになるからだ。
そして父が両腕に身に着けていた腕環を半分ずつにわけ、兄は北へと旅立ち――八年前に起きた北方民族の反乱で、連絡が途絶えた。
(……王爺は三年間、北の離宮でお過ごしあそばされた)
反乱と王爺が離宮で過ごしていた時期は違えど――兄が過ごした彼の地を知る人の話を、叶うならば翠玉は聞きたかった。
「七王爺」
聞きなれた嗄れた声に、桂影は眼を開けた。視界の薄暗さに何度か瞬く。
(――寝すぎた!?)
そして傍らに皺の刻まれた老宦官を認める。最初に眼にしたものが、見慣れているとはいえ無愛想な老家令だから、桂影の心臓が一瞬だけ跳ね上がった。
「砂豹か」
横たえていた長榻から、上体を起こす。両腕を伸ばす桂影の前に、ぬっと白い紙が差し出された。
「お目覚めのところ申し訳ありませぬが、こちらのご確認を」
そう言って砂豹は翠玉が記した数字の一覧を渡した。無論、誰が書いたかは証さずに。桂影は紙面に視線を走らせると、きゅっと眉間にしわを寄せた。
「知らん筆跡だ。が、数は合っているな」
「新たに雇用すべきか考慮しておりまする」
「なんと。王府の人事はお前に一任している。なにか問題が?」
「まず年齢が若いこと。御身に年近いだけであらぬ噂が生まれるのは、家令としては嬉しくありませぬ」
「奇遇だな、僕も同じだ。で? この筆跡の主はいくつだ」
「十六になります」
「素晴らしいな。後宮に取られる前に七王府に呼ぼう。なにか特別な教育を受けたのか」
「亡くなった父が商人だったと聞き及んでおります」
それを聞いて桂影の眉がわずかに下がった。
だが、すぐに皇子としての顔つきになる。
宮中は、数多ある才能が集まる場所だが、この手の数字に強い人間はとくに重宝される。多ければ多いほどいい。
「名は翠玉。年齢は十六、健康状態は良好。五歳で教坊に入り、十三歳で宜春院に入っております。念のために付け加えますと、宜春院は異邦の宮妓にとっての最高序列にございます。あちらの宮妓は容姿、技芸、作法。どれをとっても一流と讃えられます」
「……僕は、彼女が来たら、起こせと言った!」
「はい、伺っておりまする。なれど、王爺もずいぶんとお休みできた御様子。それに、在下とて小星様に、七王府の説明をお伝えせねばなりませんでしたから」
「ああ言えばこう言う」
「なにか?」
ぼそりと呟く桂影に、砂豹は「小星様」と声を上げた。
(ふぁ!? こっちは寝起きだぞ!?)
扉の前にいる人影を認め、皇子らしからぬ奇声と砂豹への文句を内心でもらした桂影は、急いで両足を床におろした。口元を手甲で拭う。涎は垂れていないようだ。
――自分に一番近しくなる立場の女性に見せる姿にしては、あんまりではないか。
奥歯を噛んで、表情を引き締めた。砂豹がいつの間にか書斎の燭台に火を灯し始めたため、桂影は室内に現れた少女の金髪に眼を奪われた。
まるで太陽の光がそのまま零れ落ちたような癖のある髪。伏せた眼差しは睫毛が長く、顔の前で重ねた両手は白い。
「王爺」と砂豹に囁かれ、桂影は慌てて口を開いた。
「面を上げよ」
皇子としての声で命じた桂影は、ゆっくりと顔を上げる少女と眼が合った。
あの夜を迎えた時に見た、美しい翡翠色を再び見ることができ、同時に、桂影の胸に鉛が流し込まれたように重たくなる。
――今度こそ、己の黄花を彼女に与えなければ。
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