第8話 第七皇子と宮妓

「御覧の通り、王爺おうやは女性に慣れておりませぬ」

 と、砂豹さひょうが言った。

 翠玉すいぎょくは七王爺の書斎から紅閨こうけいに案内されているところだった。

 院子にわに面した廊下を歩けば、すでに日が沈み、茜色の雲が藍色の空に飲み込まれていく。

(そうなのかしら?)

 と、翠玉は思った。

 蝋燭の明かりに照らされた七王爺の顔は、初めて出会った夜と比べて幾分――否。かなり、険しかった。

 顔立ちが整っている分だけ陰鬱な気配が倍増し、王爺の視線を受けた翠玉の気持ちもついつい滅入ってしまう。

(粗相をしてしまった?)

 宮妓として、そして家令である砂豹より教わった作法に従い、皇子の前で両ひざを床につけ、顔を上げた翠玉は、家令と同じく感情を出さない皇子の心中にあれこれ考えを巡らせるが、己に都合の良い答えなど出るはずもない。

「――足下が、余の黄花閨女か?」

「はい。七王爺におかれましてはみ景色麗しゅう。再びの拝謁を叶いましてまことに恐悦至極――」

「ああ、よいよい」

 七王爺は片手をあげて翠玉の挨拶を遮った。

「ここでは、そのような長口上は結構だ」

 それで、と七王爺は言葉を探すような眼差しで翠玉から一度顔をそらすと、脇にある白い紙を彼女の前に差し出した。

「家令から聞いた。こちらは君が計算したと」

 先ほどと比べ、いくらか気安い口調になったのは、本人も翠玉に威圧感を与えたと考えたからなのだろうか。

 などと考えつつ、翠玉は頷いた。

「はい」

「素晴らしい。是非とも、その能力を七王府で発揮してくれ」

 ごほん、と七王爺の傍らに立つ砂豹が咳払いをした。

 七王爺は一瞬だけ肩を跳ね上げると、翠玉に顔を近づけるように上体を前のめりにした。

小星しょうせいとして、余に仕えてくれ」

「拝命いたしました」

 朔日に侍寝の下知があったが、黒い眸を見ても、相手の心意は翠玉にはわからなかった。

(――慣れていないと言っても程度があるのでは?)

 砂豹の発言に対して、どのような返答をすべきか迷う翠玉に、家令自身は気にする素振りもなく続けた。

「……七王爺は忖度そんたくの達人なのでございますよ。己の不始末で、御身を傷つけてしまわないかと案じておられる」

 ぶっきらぼうとも吐き捨てるようにも聞こえる砂豹の声は、翠玉には真意が読み取れない無表情と異なり、確かに感情があった。

「……砂豹様は、七王爺をご心配なさっておられるのですね」

 翠玉は相手に見えないものの、思わず微笑みが漏れた。

 当代における宦官の主人は皇帝陛下ただお一人。彼らが後宮の妃嬪や東宮の皇子に傅くのは、勅命を受けたからにすぎない。

 それでも家令の口調が主人である七王爺を気遣う様子が見られるのは、七王爺その人が家令他の宦官たちに、己が仕えるに相応しい主人だと認められているということだ。

「……さあ、それはどうでしょうか」

 明らかに含みのある返事をすると砂豹は、白い壁を丸くくりぬいた月門げつもんをくぐった。

 俯瞰すれば、紅閨は、方形を描く三丈の高さを誇る城壁によって厳重に囲まれた七王府の北に位置している。その外観は黄金の甍に朱塗りの円柱が立ち並び、碧瑠璃で彩られた宮殿の一つであり、七王府の主玄関である正門、広間を通過しないと入れない造りになっている。

 砂豹は、紅閨の前に並ぶ、明るい緑袍をまとった小柄な宦官たちを翠玉に示した。

「これより御身にお仕えする者たちです」

 砂豹の紹介を受けて、横に並ぶ八人の宦官のうち、中央にいた最も背が高い一人が前に進み出た。

「小星様、ご機嫌よう」 

 翠玉の専属として用意された世話係は十四歳になる雪豹せつひょうをはじめとした、未成年の宦官たちであった。

 くりくりと動く眸が小動物を連想させ、華やかな顔立ちをした雪豹は、己の親族にあたると砂豹から紹介される。子供を残せない宦官の場合は、同郷や血縁者に限り、養子縁組が認められるのだ。

 雪豹にならい、声をそろえようとしたものの、わずかにずれて翠玉に挨拶する少年宦官たちから、砂豹は翠玉に眼を向けた。

「いずれも発展途上ですな。小星様にはご不便をおかけしますが」

「滅相もありません」

 自分のことは自分でやる、と告げた翠玉に、七王府の家令は「有難い」と言った。

(――小星の世話に人手が割かれなくて安心している?)

 そう思いながらも翠玉は、紅閨担当の宦官である雪豹によって、各室を案内された。

 紅閨は名前の通り、屋根から柱から室内の調度品に至るまで、紅を基調としている。王府における婦人用の住居一帯を示し、皇子と母を同じくする姉妹公主や、宮城外に住む皇子の母方祖母が宿泊する際に利用され、小星の住処ともなる。

 室内に眼を向ければ、紅檀木でできた椅子に八角形の机、衣装棚をはじめとする調度品は赤色系統に塗られ、牀榻に置かれた衾褥はすべて羽毛が詰まっていた。

「あの、ところで砂豹様。私の荷物はどちらに?」

「荷物?」

「あっ! 砂豹様、七王爺から小星様の贈り物のことでしょうか」

 翠玉の質問に、眉根を寄せた砂豹の隣で、雪豹が声を上げた。少年期特有の高い声で、仲間の宦官に目配せする。

 翠玉よりも小柄な彼らが、よろつきながら四角い盆に載せた着物を運んでくる。

「七王府が人材育成中」というのを目の当たりにして、翠玉ははらはらしながら、彼らが八角卓に並べるのを見守った。

 紅閨仕えの宦官代表として、雪豹が砂豹の無言の監修の元、一着ずつ広げていく。

 七枚の長裙はまるで卓上に虹が生まれたような色合いをそれぞれ宿し、襟元と袖口に黒貂の毛皮がつけられた乳白色の外套は見るだけで暖が取れる。爪先に絹でできた紅牡丹の造花があしらわれた珠履は、牡丹の仙女のように軽やかに踊れるだろう。漆塗りの小箱の中には、内張りに赤い天鵞絨が敷かれた宝石箱で、紅玉を牡丹のように削った黄金の簪や楕円形の藍宝石が吊るされた金鎖の首環が並んでいる。

 ――皇子が、己の黄花を与える女に、己の度量の深さと富貴を周囲に知らしめるには十分な贈り物だった。

「王爺より小星様への贈り物にございます」

「……ですが」

 砂豹の言葉に、翠玉は美しい贈り物に触れるのをためらう。

 翠玉自身に対するものは何一つとしてないと、わかっているからだ。

「着飾ることは七王府では、自重自戒。ゆえに、御身がこれらをお召しになるのは、七王爺の御前だけか、ご下命を賜った時、そして七王爺の小星のお役目を解かれた時だけにございます」

「砂豹様」

 と、声を発したのは、翠玉ではなく雪豹であった。翠玉と砂豹が話している間、扉近くで立っていた彼は、伝令にきた先輩宦官の言伝を砂豹に告げる。 

 翠玉を気にしてか、雪豹は背伸びをするように砂豹の耳元に囁く。

 砂豹が言った。

「――小星様。お荷物が、六王府より届けられたようです」

「六王府?」

 あの時の、と翠玉は宜春院で出会った二人組の宦官を思い出した。

「ええ。彼らがどうやら御身のお荷物を六王府宛てと勘違いした様子――」

 砂豹は、ちらりと雪豹に目をやった。雪豹ははっとした様子で、翠玉に言った。

「お荷物をこちらにお運びしてよろしいですか!?」

「はい、お願いいたします」

 使用人としての務めを果たそうとする少年宦官に、翠玉は苦笑を浮かべて答えた。


 *  *  *


 七王府の紅閨を与えられた翠玉は、一月が終わるまで七王府の客人という扱いで過ごすこととなった。 

 誤って六王府に運ばれた荷物も、七王府に無事に届けられた。雪豹の説明によれば、これまた六王府仕えの宦官がろくに確認もせずに、翠玉の荷物を自分たちの主人――すなわち六王爺――の小星のものだと勘違いしたからだという。

 金髪や茶髪の胡人の顔を上手に識別できない者もいるため、翠玉は納得した。

 半日かけて自身の服や楽器を、翡翠色の帳が下りた臥房と、そこから続く客間と書斎を兼ねた部屋に片付けたが、あっという間に二月一日になったものの、正直いって時間ばかりを持て余している。

 雪豹たち少年宦官は、翠玉と年齢が近いせいか、すぐに打ち解けられたが、姉弟のような親密ぶりは、彼らが今後七王府で働く上での成長の妨げになるからほどほどにと砂豹からさっそく注意を受けてしまった。

 とかく宮中では、明言されていない規則や暗黙の了解が多岐にわたる。

 だから翠玉が紅閨の女主人として、雪豹たちに気軽に囲碁の相手を頼むわけにはいかないし、紅閨の案内も一通り済ませた後は、付かず離れずの距離を互いに保っている。

 現時点まで、翠玉は客人の身であるから、雪豹たち紅閨勤めの宦官が誰かしらついていないと、一人で七王府をうろつくわけにもいかなかった。

(刺繍でもしようかしら?)

 宜春院から持ち込んだ裁縫箱に目を向ける。花梨木でできた裁縫箱は、宮妓の俸禄を貯めて手に入れたものだ。宮妓は衣食住が保証されるが、出演する宴やその回数によって俸禄が変わる。

 翠玉は、黒髪黒目が多い銀漢人が集まる教坊では異彩を放つ外見のため、すぐに宜春院に移ることになった。教坊では、茶髪や赤髪の娘も多くいたが、群舞など集団での舞を披露する時は、指導役や宴の主催者の意向によって、演者は黒髪で統一されることもあったため、翠玉のような外見は出演が限られたのだ。

 ところが宜春院は、皇帝陛下に捧げられた異邦の献上人ばかりで、矜持が山のように高く、楽器の稽古を教坊で本格的に学んだ商人の娘の翠玉については、眼に見える害意はなかったものの、明らかに小馬鹿にする者も多くいた。 

 親しくした者もそれなりにいたが、宴に招かれる回数が多い翠玉を「さすが、運がある人は違うわねぇ」とすれ違いざまに嫌味を言われたことは何度かあった。

(……だから、王爺のお気持ちがわかるような)

 七王爺は、七番目の皇子。一番目の皇子は、七王爺と母を同じくするが早世し、残る五名の兄皇子のうち、親しくしているのが六番目の皇子こと六王爺、宵徳殿下だと砂豹から教わった。それ以外の皇子とは、不即不離。つかず離れずの距離を保っているという。

 六王爺こと宵徳は皇后を母に持ち、皇后は桂影の亡母たる貴妃の実姉にあたる。皇帝唯一の妻である皇后と異母兄にして従兄にあたる六王爺との関係を思えば、砂豹がいう「忖度の達人」になるのではないかと翠玉は考える。

(……王爺を少しでも癒せると良いのだけど)

 不老長寿に至るためには、相手を知らなければならないのだ。

 そして、いよいよ今夜が侍寝である――と翠玉の決意を霧散するように、扉が開かれた。

「失礼いたします、小星様! 雪豹はこちらにおりませんか!?」

 パタタッと足音を立てて現れたのは、紅閨付きの少年宦官の一人だ。

 彼は裁縫箱に手を伸ばす翠玉しかいないと見ると、泣きそうな顔になった。

「扉は叩いてから入りましょうね」

「申し訳ありません!」

 翠玉のやんわりとした指摘に相手は「あっ!」と己の落ち度に気づいた顔で頭を下げた。

「雪豹はさっきまで院子にいたわよ?」

「それがいないのです! 砂豹様がお呼びなのに!」

 紅閨は、皇子や皇子に仕える宦官たちの宿舎と比べれば、建物自体は小さいが、院子を中心に囲む東西南北の廊下も、さらに言えば同じ作りの王府も、回廊の東と西を歩いてしまえば結果的にすれ違ってしまうこともよくあった。

 さらに七王府の場合は、他と比べて宦官の人数も不足しているため、必然的に府内を奔走する人間も多い。

 あら、と答える翠玉だが、ふと考えが頭に思いついた。

「私も探すわ。あなたは西側、私は東側ね」

「ですが、小星様は」

「今日から二月だもの。私だって、王府の人間よ」


*  *  *


「ご機嫌よう、小星様」

「ご機嫌よう、砂豹様。雪豹を探していると伺ったのですけれど」

 紅閨の月門を潜り抜けて、七王府の東廊下を歩いた翠玉は、開け放たれた砂豹の執務室をのぞき込んだ。

 扉から最奥にある書棚の前で、足元に置いた箱から本を出し入れしている雪豹と、傍らの机で書類に判を押している砂豹がいる。

「雪豹はここにおりますが、なにか御用が……?」

 砂豹は、翠玉と雪豹にそれぞれ眼を向ける。

「雪豹、小星様を紅閨へ。お客人を放っておくわけにはいきません」

「もう二月ですわ、砂豹様」

 右手を胸に当てる翠玉に、砂豹もなにかを悟った様子だった。

「――然様でしたな。それでは、小星様。こちらの文箱を納戸にお持ちください」

 王爺がおられます、と砂豹は言うと、翠玉に螺鈿細工が施された黒い文箱を渡した。

 翠玉が砂豹に説明された通り、執務室を出て納戸に赴くと、子供一人が隠れそうな木箱の脇に桂影が膝をつき、さらにその中から掌に載るくらいの小箱を取りだし、床に並べていたところだった。小箱には全て紫色の綾紐が結ばれている。

「ご機嫌よう、七王爺」

「ヒッ!?」

 悲鳴を上げられ、内心傷つく翠玉だが、桂影は「びっくりした」と真顔のまま、埃避けの布が外された屏風を指さした。

「なんだ、花の仙女が出てきたのかと思った」

「まあ」

 七王府の物置として扱われる納戸には、繊細な筆致で仙界を描いた屏風や花瓶が置かれている。冬でも凛と咲く黄水仙が描かれた屏風は、二月になったら七王府の大広間に飾るのだと、翠玉は雪豹から聞いていた。

(……どうしてまだここにあるのかしら?)

 調度係はどうしたのだろう、と思いながら翠玉は七王爺の言葉に微笑を浮かべた。

 宮妓だから、己の容姿を褒められる言葉は何度も耳にしているが、大抵は宴の席で翠玉と共に出演する娘たち全員をまとめて褒めたものだったり、世辞や野次として飛ばされたものだ。

 だから面と向かって言われるのは初めてだ。

 しかし七王爺はなにかに気づいたように言った。

「毒のようだ、と思っているわけじゃないぞ!?」

「……まあ」

 屏風に描かれた水仙は鎮痛効果のある薬や芳香剤としての役目だけではなく、毒も持つ。

 七王府の家令である砂豹から「王爺は女性に慣れておりません」と教えてもらわなければ、王爺の挙動不審さを翠玉への拒否反応と受け取っていたかもしれなかった。

 女に慣れていないはずの皇子が、翠玉のような者に対して「仙女」に例える科白を言えるのは、矛盾しているかもしれないが。

(……嫌われてはいないのよね)

 たぶん、と弱弱しくなるのは、翠玉の現在の七王府での立場が不安定だからだ。

 黄花閨女として房中術の相手にもなれず、歌舞音曲を捧げる宮妓にもなれず、算術を認められたものの、まだその真価を問われる機会はない。

 そんな翠玉の心中をよそに、桂影は彼女が持つ文箱に目を止めた。

「君が持ってきてくれたのか?」

 ありがとう、と唇の両端をかすかに吊り上げて文箱を受け取る皇子を前に、翠玉も唇をほころばせた。「翠玉はただの客人ではない」という認識が皇子にあったとわかっただけでも、心が軽くなる。

 桂影と同じく床に座り、去らない様子の翠玉を見て、彼は不思議そうに言った。

「どうした?」

「砂豹様より御身のお側にいるようにと……」

「……えっ、なんで?」

 唇をきゅっと閉じた翠玉に、相手は慌てて言った。

「待った、君が嫌だからじゃない! ……え、本当に、なんでだ」

「畏れながら、七王爺。なにかこの身に手伝えることがあれば、なんなりと」

「ああ……じゃあ、君。この箱にある名札と同じものを作ってくれないか?」

 桂影は手にしていた小箱を翠玉の前に置いた。次いで彼女が持ってきた文箱を開き、取り出した紙や筆や墨壺を並べる。

黄銅鉱おうどうこうですか」

 翠玉は小箱を両手にした。桐箱の蓋には「黄銅鉱」と色あせた名札が貼られている。翠玉は周りに並べられた小箱と、桂影が左腕を突っ込む大箱に目を向けた。

 大箱からは次々と小箱が取り出されていく。

「そう。――君は黄銅鉱を知っているのか?」

「はい。父が取り扱っておりましたから。お化粧につかうのですよね」

 黄銅鉱は酸化すると青色へと変化し、孔雀石くじゃくせきとも呼ばれるようになる。孔雀石を砕いて、粉末として顔に塗るのだ。

 翠玉の言葉に、桂影は得心した様子を見せた。

「……ああ。君のお父上は商人だったな」

「はい、牙郎がろうでした」

 翠玉の父は、牙郎と呼ばれる交易を担う行商人を束ねる隊商の長であった。宮中にも伝手があり、ゆえに父亡き後、翠玉は宮妓を養成する教坊きょうぼうに入れた経緯がある。

 父が取り扱う商品は様々で、翠玉が今手にしているような鉱石の類もその一つだ。

 黄花閨女となる娘の身上書を王爺はご存知なのね、と翠玉は頬が緩みかけたが、慌てて作業に取り掛かった。

「王爺。蓋の紐を外してもよろしいですか」

「ああ、頼む」

 名札を作れと言われたため、蓋に貼られた色あせた名札と同じくらいの大きさに紙を切る。文箱に入っていた青銅の開信刀かいしんとうで紙を切る音がやたらとはっきりと聞こえた。

 元の名札と同じくらいの大きさに切った紙に、翠玉は小筆を墨壺に入れ、「黄銅鉱」と書く。墨が乾く間に、砂豹を介して厨房で熱した馬鈴薯ばれいしょ薬研やげんですりつぶし、糊を作った。

 刷毛はけ》で紙に糊を塗り、鑷子せっしで摘まむ。

 と、そこで翠玉は、気がついた。

「蓋に貼られている前の名札はどうしましょう?」

「つけたままでいい。その上に貼ってくれ」

「かしこまりました」

 ――会話が、なかった。

 翠玉は自分から話しかけるかどうか迷った。便宜上は、小星という、皇子と不老長寿に至るための間柄のため、翠玉の身分から皇子に直に話しかけても不敬とはみなされないのだが……。

 翠玉は言葉を探して視線をさまよわせる。

 すると「あー」と声をあげて、桂影は二十を超える小箱に囲まれた状態で、翠玉を見た。

「……僕は、世間一般という大雑把な括りでしか、ご婦人のことを知らないんだ。君は、鉱石に興味はあるか? ある振りはしなくていいぞ」

 黒曜石のような眸には、翠玉と同じく相手に話しかけてよいか悩む色があった。

「僕が知るご婦人達は、鉱石より宝石が大好きだった。黄銅鉱……孔雀石も、その石自体が持つ魅力より、粉砕して瞼に塗るものという認識だった。あいにく僕は、砕いて使う予定はないが、君はどうか」

 まくし立てるように話しかけられて、翠玉は両眼を瞬いた。呆気にとられた様子の翠玉に、桂影は後悔した様子で一瞬だけ眼を伏せて言った。

「――化粧品に不足はないか」

「い、いいえ! 十分ですわ」

 相手の問いを理解した翠玉は慌てて口を開いた。

「過分な御心遣いに、感謝の言葉もありません」

 そのまま、紅牡丹の簪や藍宝石の首飾りへの礼を口にした。砂豹を通して、お礼の文は送ったが、実際に言葉としても伝えることができ、翠玉の胸はわずかに軽くなる。

 糊が乾くまでに、次の箱を手に取る。紫色の綾紐を外しながら、桂影に訪ねた。

「王爺は鉱石がお好きなのですか? 私の父が京師みやこに運んだ鉱石が、王爺の元に届いたのかもしれません」

「そうかもな。君のお父上様のおかげで、九重ここのえにいる僕も、遥か遠い土地の鉱石を手に入れることができた」

 ありがとう、と目元を和らげる王爺に、翠玉は上気する頬を隠そうと慌て頭を振った。

「いいえ、滅相もありません。私のような子供でも父と共に、無事に商いができたのも、道中や市井が平らかな天可罕てんかかんのご加護があってのこと」

 銀漢帝国の皇帝を、四囲の異民族は「天可罕」と呼ぶ。

「そうか。では、僕たちは互いのお父上様にも感謝しよう」

 すべての小箱を取り出したのか、桂影も翠玉と同じく名札作りに取り掛かる。当然ながら翠玉よりも手慣れた様子で、名札を作り、蓋に糊付けしていく。

「王爺は、どの鉱石がお好きなのですか?」

「基本的に、どれも」

 好事家マニア特有の「説明したら長くなる」を桂影は端的に答えた。

「琥珀ばかり集めていたら、体に問題があるのかと疑われてな……」

 琥珀は薬用効果がある。精神を安定させ、血流を良くし、さらには排尿障害を改善する。

 ――その身に瑕疵あれば、すなわち玉座が遠のく理由となる。それが当代の皇子に置かれた環境だ。

(だから、あまり趣味をお話にならないのかしら?)

 翠玉に対して、というより、過去になにかしらあったから、この反応なのだろうか――と、翠玉は考える。

 そうした考えた顔に現れていたのか、翠玉を見た桂影は、一つの小箱を手に取った。紐を外し、翠玉の前に中身を見せる。

「たとえば、この黄鉄鉱おうてっこうとかが嵌ったきっかけだったと思う……」

 掌に収まるような、山道にありそうな石から、銀に輝く立方体がいくつも重なり積み上がっている。

「素敵」

 翠玉はうっとりとした眼差しで、真綿がつまった箱の中央に置かれた鉱物を見つめた。

「黄鉄鉱は、確か自然とこのような形になっているのですよね? あと、叩けば火花が出るから、取り扱いが難しいのだとか」

「ああ、その通り。お父上様から聞いたのか?」

 はい、と翠玉が返事をすれば、桂影も微笑を浮かべた。

「書斎に飾らないのですか?」

 確か壁際に博架かざりたながあったと翠玉が思い出しながら問う翠玉だが、相手の顔が曇ったのを見て、後悔した。

「飾らない。――七王府は、この一年は喪に服すから」

「失礼いたしました」

「問題ない。だから君も、退屈だ窮屈だと感じたら早く言ってくれ。ここは制限が多いが、苦労はさせないと約束する」

「まあ。畏れながら、王爺。私はまだ御身にお仕えしておりませんわ」

「そう、だったな」

 つっかえる回答をした桂影が日焼けした頬を赤く染めた。その返事に、翠玉も恥ずかしくなってしまう。

(……恥ずかしいことではないけれど、けれど!)

 小星は、房中術によって不老長寿に至るための相手役だ。

 だから翠玉が、「いつまでも客人扱いしなくて結構」という意味で口にした内容も、ともすれば「侍床じしょうを乞う」を現しているのだ。

 話題を変えようと、翠玉はわざとらしく床を見渡した。

 二人の周りに置かれた小箱は、百を超える。

 名札の貼り張り直しがあっという間に終わってしまった気がするが、翠玉は「ところで」と唇を開く。

「鉱物にお詳しい王爺に伺いたいのですが、七色に輝く鉱石というものは存在するのでしょうか?」

「七色?」

 得意分野ゆえか、桂影の眸が常より興味深げに輝いた。

「子供の頃に一度だけ見たことがあるんです。黒い塊の隙間に七色に輝く石が」

「黒い塊? 石か、土か?」

「恐らく石だと思います。水晶のように輝く部分とくっついておりましたから」

 翠玉は顔の前で両手を重ねて蕾の形を作った。

「その石は、六つの私の両手で包めるくらいの大きさでした。形は蓮の蕾のようで――」

 とても貴重なものだった。

 常の倍はある油紙で厳重に巻かれ、隊商を率いる父の懐に常に仕舞われていた。

「名前はわかるか?」

「いいえ。実を言えば、父が扱っている大切な商品ですから、私が勝手に見て良いものではなかったのです。だから、父と兄に思いっきり叱られて」

 大陸各地から手に入れた品物を宮中に献上する牙郎。

 その娘である翠玉が、父に無断で開封して、中身を見てよい代物ではなかった。

 今でこそ宮廷作法を身に着けた宮妓だが、子供時代の翠玉はどこにでもいる、活発な商人の子供だったのだ。

 日頃は翠玉に対して甘い父も、温厚な兄も、あの時は烈火のごとく怒り、翠玉は思いっきり泣き喚いた。

 それからしばらくして父は病気で儚く、翠玉より一回り離れた兄は、各地に住む民の言語に詳しかったため、翠玉を教坊に預ける形で、どこかの行商人に加わった。

 兄との連絡が途絶えてもう三年が経つ。

 天候が目まぐるしく変わる砂漠や草原、道中の野盗との遭遇におびえる日々が当たり前だったせいか、翠玉の死生観は、帝国の京師に住む人からしたら、かなり冷淡に映るようだ。

(……父さんも、兄さんもいなくても。私は生きていける)

 父の形見である左手の腕環うでわを右手で撫でる翠玉は桂影に呼ばれた。

「君」

 翠玉の前に差し出されたのは、床に並ぶ小箱を一回り大きくした桐箱だ。蓋が外され、中には黄銅鉱や黄鉄鉱のように真綿が詰められた中心に、翠玉の記憶にあるのと同じ石が――水晶の花を咲かせた石が、鎮座している。

金剛石こんごうせきだ」

「金剛石……というのですか」

「そう。水晶よりも光を通して……君?」

 桂影が言いよどんた。

 翡翠をはめ込んだような眸から、丸い水晶が次々と零れ落ちてくるのだ。

「申し訳ありません、王爺。父を思い出してしまいました。……その、亡くなったのは私が子供の時だったのですが」

 涙を拭おうとした翠玉の視界に手巾しゅきんが突き出される。

「これを……」

「ありがとうございます」

 困惑顔の桂影から、翠玉は白絹の手巾を受け取り、目元にあてる。

「取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」

 手巾は洗って返す、と翠玉がいつもの声で言うと、「構わない」と返答があった。

 急に父を思い出して、おまけに涙まで出てくるなんて――いたたまれない気持ちを振り払うように、翠玉は言った。

「今宵も是非、王爺のお好きな鉱石について教えてくださいませね?」

「あ、ああ……」

 翠玉が迫るように言ったせいか、桂影がわずかに身を引いて頷いた。

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