第5話 宮妓と第五皇子
翠玉が教坊司を通して、七王爺より再びのお召しを拝命したのは、儀式を終えてから一週間後であった。
儀式を終えた黄花閨女は、一週間は人に会わずに過ごす。さらに次の月のものが来るまでは、宴への参加や、激しく体を動かす舞楽は練習を含めて禁じられている。
通常ならば、黄花閨女がこの時点で破体女となっていれば、皇子の肉体は生殖可能と見なされ、「男として、最小限の機能がある。とりあえず合格」という扱いになるのだが、翠玉はいまだ純潔のままだ。
いざ翠玉を目にした王爺が「黄花閨女に興味を失くした」という可能性もあったし、七王爺の場合は、短期間で儀式の準備に取り掛かったため、皇子自身の疲労も要因ではないかと、彼らの会話を翠玉は耳にした。
(私が小星ですって……?)
教坊司の部屋から、与えられた居室へと向かう翠玉の頭の中を占めるのは嬉しさよりも戸惑いだった。
銀漢帝国の教坊では、宮妓や楽人――芸能に特化した宦官には、枕頭に侍る際の教育も行われる。
成人後には、宴に参加した客から教坊司を通して、そのようなお召しにあずかってもよいように、年齢に応じて、人体の理や不老長寿に至るための『気』の交わり方、牀榻での作法(入室・退室後の挨拶なども含む)を学ぶ。
〈黄花の儀〉を終えた皇子に侍る女性は、皇子が望めば、小星とよばれる妾妃として遇される場合がある。黄花閨女を務めた者が、そのまま小星になることはままあることだった。
しかし、銀漢帝国の宮廷に歌舞音曲を下げる宮妓として育てられた翠玉は、再度貴人の枕頭に侍る役目を己の栄達と喜べるほど愚かではなかった。
おそらくは王爺側の事情――儀式の再開なり、公に「翠玉以外の黄花閨女を」と宣言するために、自分が招かれるのだろうと翠玉は推測した。
七王爺は、黄花閨女である翠玉と『気』を交らわせなかった。
いざの際に、翠玉を見て「その気」が失せた可能性が考えられた。また、翠玉の護衛であり、皇子の監察を兼ねていた宦官たちの目に、王爺がどのような状態で儀式に挑んだかは想像に難くない。
――あの晩。
七王府の誰かが用意したのであろう、儀式終了を告げる香線香が完全に炭になるまで、翠玉は七王爺の抱き枕のままだった。王爺に呼びかけるも、彼は翠玉の胸に顔を埋めると目覚める気がないのか、嫌々と首を振り――もう一度、翠玉が呼びかければ、開眼した彼と眼が合い、誰何された。
(覚えて……おられないの?)
衝撃を顔に出さないようにした翠玉だが、自分がどのような表情をしたのかは覚えていない。
記憶に残るような、舞や歌を披露しなかったし、翠玉が七王爺の臥房を尋ねた際も、天気の話題くらいしか出ていない。
皇子の黄花を賜ったくらいで増長するな、とは宦官や老娘から何度も聞かされているし、翠玉とてただの一夜を共に過ごしただけの初対面の相手に、手厚く扱われるような夢は見ていない。
黄花閨女とは、あくまでも皇子の純潔を賜り、己の純潔を捧げ、不老長寿に至るための存在なのだ。
翠玉が王爺の体から退くと、彼は衾褥をはねのける勢いで上体を起こした。
「ごめん! 君に非は一切ない!!」
「王爺!? お顔を上げてくださいませ」
頭を深々と下げる七王爺に、翠玉も狼狽えた。貴人に拝礼することはあっても、その逆を目の当たりにするのは生まれて初めてた。
顔を上げた七王爺は、端正な顔を苦痛に歪ませ「僕は――」と口を開いたところで、扉が叩かれた。
王爺の返答を待たずして現れたのは、案内役の老宦官と、翠玉とともに七王府を訪れた四名の宦官だった。
彼らは、翠玉の花が咲いたような赤い帯が解かれた気配もなく、情交の名残を感じられない牀榻を見て、諸々を察したようだった。
その後は、七王爺の身体を清めるためか、あの黒衣の老家令だけが残り、翠玉は再び余人の宦官に囲まれ、別室へと案内され、七王府に来た時と同じように羽毛の外套を羽織り、行きに使った馬車に乗せられ、東宮は南にある宜春院へと送り返された。
一口に東宮と言っても、北にある七王府から南端の宜春院は、歩けば半日かかる。
宜春院に到着した頃には、時刻は既に明け方となっており、本格的に降り始めた雪空を横目に、教坊司と後宮から派遣された「老娘」と呼ばれる産婆の心得を持つ女官によって出迎えられた。
いくばくかの質問を受け、別室で老娘によって身体を改められた後、浴堂に赴き身を清め、居室へと戻り、胸にもやもやしたものを抱えて昼前まで眠り、一週間は誰とも会わずに、部屋で刺繍をしたり楽器の練習をしていた。
だからこそ、ただ抱きしめられただけの一晩から明けて翌日の昼過ぎに、王爺御自ら教坊司を訪ね、翠玉を再び望まれたというのだから、翠玉は喜んでいいのか困っていいのかがわからない。
教坊司から王爺に代わって、小星の役目を拝命し、さらにその三日後に、翠玉は七王府に向かうこととなった。
一晩だけ、侍る黄花閨女と異なり、小星の場合は、王府で暮らす。
そのため、王爺から荷物整理のために三日間の時間を与えられ、翠玉は時間に追われるようにして、愛用の楽器や楽譜、踊りの衣装などを行李に詰め込んだ。
そして現在。
翠玉は、宜春院の北門で七王府からの馬車を待っていた。儀式の夜に降った雪は、寒暖の差が激しい日が続く中、ほぼ溶け消えている。
(……私は王爺に『愛』をお教えできなかったのに)
ただの抱き枕となることで、王爺が疲労回復すれば、翠玉個人としては安心だが、あの時は互いの『気』を交わらせるためだった。
抱かれなかったということは、先方に最初からその気が無かったということで――いささかの落胆を禁じ得なかった。
(……いけないわ)
落ち込んでいると、たとえ稽古でも音や舞が暗くなってしまう。
それは宮妓として、技芸を披露する者としては失格だ。
翠玉が、これから仕える主人への敬愛に対し、決意を固めたところで、馬のいななきと車輪の音が響き渡った。
人を載せるため、というより荷物を運ぶ用の、質素な荷車から薄緑色の袍を着た二人の宦官が降りてくる。
翠玉と、衣類や楽器が仕舞われた十ほどの行李に目をやった二人組のうち、丸顔が口を開く。
「王爺の?」
「はい」
緊張と、自分がこれから七王府で過ごす上で、顔を合わせる二人に、翠玉は強張った笑みを向けた。
「よろしくお願いします」
「はい、はい」
丸顔が軽い口調で肯くと、その間、もう一人の四角い顔が無言で行李を荷車に載せ始める。
翠玉は荷車を見た。行李は二段に重ねて積まれており、人が座る場所はない。
相方と一緒に荷物が落ちないように麻縄でくくりつける丸顔に、翠玉はおずおずと訊ねた。
「あの、私はどうすれば?」
「え?」
親の仇とばかりに縄をきつく結んだ丸顔は、終始無言の相棒に困った様子の視線を投げた。
「王爺からなにか訊いているか?」
四角い顔は閉眼して首を横に振った。丸顔は「俺達、なにも言われてないんでぇー」とすまなさそうに感じられない口振りで答えた。
「俺らもそろそろ戻らないといけないんすわ。規則なんで」
「えぇ……?」
翠玉から抗議の気配を感じたのか、早く離れようと二人は来たときと同じように馭者台に乗ると「それじゃ!」と馬に鞭をくれてその場を立ち去ってしまう。
「――自力で来い、ということ?」
教坊司によると、七王爺は小星を側に置くことを最後まで渋っていたと聞く。
幸いなことに翠玉本人が、というより七王府の環境が、下手をすると宜春院で暮らすよりも、質素であり飾り気のない恰好で過ごすのを常とするため、華やか煌びやかを体現する宮妓にはつらいのではないか、という王爺の懸念によるものである。
(……私のような者にまで気にかけてくださるなんて)
雪が降った、あの晩。〈黄花の儀〉で、余人を呼ぶことは、評価が下がると翠玉でも知っているというのに、王爺は家令であろう老宦官を呼び寄せ、門番たちが暖を取れるように采配していた。
だから怒りよりも「お優しい方だわ」という気持ちで翠玉の胸の底がじんわりと温かくなる。
そして、詳しい事情はわからないが、一応、翠玉は七王府に招かれたのだから、相手に嫌われているわけではない、と思いたい。
「とにかく行かなきゃ」
己を奮い立たせる声を出して、翠玉は北門をくぐった。魚袋と呼ばれる身分を表す玉飾りを腰帯に下げているから、門番たちに呼び止められずに宜春院を出ることができた。
宮中の一角にあるため、宜春院の周囲は道が整備されている。四角く切り揃えた石畳の歩道を足早に歩く翠玉は、先程の荷車が作ったと思しき轍を横目に、七王府へと向かった。
「――胡服にすれば良かったわ」
足首に絡みつく紅裙の裾を捌きながら、翠玉は人気のない大路の端を歩いた。
儀式を行ったあの夜は雪が降ったが、ここ数日は好天に恵まれ、今日の頭上には青空が広がり、風の冷たさが気にならない。
左腕に嵌めた、大ぶりの銀の手鐲が歩くたびにくるくると回転しながら、銀の光を煌めかせた。
おろした髪の毛の左右の一房を、羽を広げた鳥の簪で後頭部でまとめた翠玉の額に、うっすらと汗がにじんだ。
汗で脂粉が落ちないかと心配する翠玉は、一台の箱馬車とすれ違った。
一瞬のことだったため、翠玉は気にしなかったのだが、先程の荷車と違い、馭者の宦官は高位を表す黒袍を纏い、繋がれた四頭の馬の手綱や、屋根の軒先に吊るされた飾りは、乗客が高貴な身分だと主張していた。
にわかに翠玉の背後が騒がしくなる。なにかが落ちる音と人の大声に、彼女の足が止まった。
振り向いた翠玉の眼に、こちらに駆けてくる男の姿があった。
「――たっ、
全力疾走したためか、最後まで言い終わる前に、男は、両膝に手をつき、肩で息を整える。
若い男だった。絹でできた青い長袍と精巧な銀細工の簪から、どこぞの公子と思われる。
男は顔を上げるとキッと怒りに満ちた視線を戸惑う翠玉に送る。その間、先程、脇を通り過ぎた馬車が後ろ向きのまま、ゆったりと近づいてくる。なぜか扉は開け放たれたままだった。
「公子~、大丈夫ぅ~?」
間延びした口調とともに一人の青年が降りてきた。青天に映える橙色の袂を揺らしながら、翠玉たちに近づく。
年の頃は二十歳前後。すらりと伸びた手足は長く、同世代の娘の中では長身に入る翠玉もわずかに見上げる姿勢となる。
(王爺と同じくらいかしら?)
瞼の裏にいる七王爺の立ち姿は一度しか見ていないけれど、無意識のうちに翠玉は正面の男と身長を比べていた。
周囲の木陰にはいまだ雪が残っているせいか、枝に射し込む陽光がキラキラと反射して、まるで青年自身を輝かせているようだった。
そして腰に輝くのは、帝室の人間だと示す金の魚袋。急いでその場に両膝をつける翠玉の頭上で、公子と呼びかけられた男が声を張った。
「こんな時分に、宮妓が一人で出歩くなんておかしいです!」
「それよりも、さ。――顔をお上げ」
翠玉がゆっくりと顔を上げると、橙色の袍をまとう青年と眼が合った。
柔らかな曲線を描く端整な顔立ち。冠と朱色の綾紐で結われた真っ直ぐな黒髪、女性がうらやむほどのぱっちりとした大きな黒い眸が翠玉を見下ろしている。
「――お前、名は?」
有無を言わせない、圧倒的な口調は、ほんの三日前の夜にも翠玉は聞いたけれど、それよりも冷たかった。
「……翠玉と申します」
「ふぅん」
頷くものの、全身から無関心を漂わせる青年に、馭者を務めていた宦官がいつの間か降り立ち、彼になにごとかを囁いた。
とたん、大きな眸がさらに見開かれる。
「――へぇ、君、七王爺の?」
最後まで言われなくとも、翠玉には相手の意図が伝わったが、どのように答えるか考えるうちに、「まあ立って立って!」とやけに親し気に言われる。
「僕の可愛い弟をよろしくね! あの子、昔から石っころにしか興味なかったけど、うん、よかったぁ! 一応、人間の女の子にも興味を覚えてぇ」
「……恐れながら、御身は一体」
立ち上がった翠玉に、青年は形ばかりの微笑を浮かべ、傍らに控えていた馭者の宦官が「五王爺にございまする」と無表情で答えた。
「あはぁ、でもぉ本当に女の子に興味があるなら自分から迎えに行くよねぇ、ひどいねぇ? 小星を歩かせるなんてぇ」
そうだぁ、と五王爺は華やかな笑みを浮かべ、目に見えない不気味さに翠玉は思わず半歩下がった。
「送ってあげるねぇ」
「いえっ、そんな! 畏れ多い……」
「あはぁ、真面目なんだねぇ、君。五王府に来てもいいよ?」
「畏れながら!! 私は、七王爺が黄花を賜った身。御下命無くして、招かれるわけには参りません」
「ふぅん? でも走っても間に合わないと思うなぁ。なにせ七王爺のお邸第は北端にあるもの」
「!」
「あはぁ、じゃあ命令してあげようね? 七王爺に伝えてくれる? 五王爺がおめでとうって言ってたって」
「かしこまりました」
伝言役ならば、とやむを得ず頷く翠玉は、毬のような体躯の宦官に手を引かれ、馬車に乗り込んだ。
振り向けば、王爺と公子は大路に立ったままだ。
「行ってらっしゃあい」と片手を振る王爺に見送られて、翠玉は皇子の馬車で七王府に向かうこととなった。
* * *
翠玉を乗せた馬車を見送る五王爺の背中に公子がおずおずと声をかける。
「お戯れが過ぎますぞ、五王爺」
五王爺こと、第五皇子、
「戯れで馬車から飛び降りた君に言われたくは無いねぇ。走行中の馬車から飛び出したら、頭蓋骨が割れて脳味噌が飛び散るし、肩や足の骨がバキバキに折れるし、とても危険だよ?」
「王爺! ……ゴホン、その。私のことは良いのです」
「そう? ところで君、彼女が名乗るまで、全然気づかなかったよねぇ? あの子は坦桑じゃない」
「それは……」
ぐっと言葉に詰まる公子に追い打ちをかける。
「僕が君から聞いたのは、水色の眸と真っ直ぐな金髪だったと思うけど?」
「巻き毛なんて鏝でどうにでもできます!」
意気込む公子だが、氷細工にも似た方暉の視線を受けて、項垂れた。
「眸は? あの子は翡翠色だったよ。それに七王爺の黄花閨女に選ばれたということは、この一年間はどこの宴にも出ていないということ」
「――それは」
「金髪の巻き毛に木履だったから、それとも頭に血が上ったから勘違いしたぁ? あっはぁ、間違えるくらいだから、君の記憶も当てにならないねぇ。宜春院じゃあ皆あの格好だよ?」
「面目ありませぬ」
「まあいいよ、許してあげる。第五皇子の学友にして再従弟の君が、まさか女詐欺師に嵌められたなんて知られたら、関係者全員憤死するもんね」
「淑妃殿下のお怒りは……」
「あはぁ、大丈夫大丈夫。君と君のお父上が困るようなことはしないよぉ?」
僕も困るもんねぇと笑う方暉は「まぁいざとなったら、あの子とかの仕業にしちゃえばいいよねぇ」と口にして、公子の背中に冷や汗が流れる。
陽だまりのごとき、たおやかな笑みと冷酷な支配者としての顔。どちらも方暉そのものであり、皇帝の血族にとっては珍しくもなんともない。
それゆえに、五王爺の再従弟にあたる公子は「若気の至り」では済まされない過ちをしでかしてしまった自分に、彼が笑顔ひとつ浮かべ「面白そう」という理由のみで手を貸すことに、感謝よりも恐れが先に立ってしまう。
保身と忠臣の狭間を行き来しながら、公子は「大丈夫でしょうか」と口を開いた。
「ん、なにが?」
「万が一、先ほどの娘を下手人に仕立てたとして、彼女は七王爺の――」
「え? 大丈夫でしょ。七王爺は僕らの敵にならないし、彼にそこまでの気概はないよ。彼女たちは沢山いる中の一人に過ぎない。代替はいくらでもいる」
僕らと同じようにね、と方暉は呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます