第4話 宜春院
そういうわけで、儀式の内容を一向に思い出せなかった
東宮の南に位置する宜春院は元を辿れば、異国生まれの
己の
猫足の長榻が方卓を挟み、長窓からは雪が積もった
黒目黒髪が多い銀漢人の宮妓は、北東の
年始の宴が終わった次は、
「最近では
手巾で額を拭いながら教坊司はそう説明した。
従八品の教坊司からすれば、皇帝どころか正一品の皇子すらも拝謁が叶わぬ存在だ。
桂影も、教坊司の名前は書簡で知っていたものの、こうして言葉を交わすのは初めてであった。
あらかじめ文を出したものの、日時が今日即刻ともなれば、教坊司の顔色が優れないも無理はない。
「なにせ彼ら彼女たちは、
そうした教坊司の嘆きを感じながらも、桂影はあえて無視した。
――可及的速やかに、黄花閨女に会って昨夜の確認をしなくてはならないのだから。
案内されている間はなんとも思わなかったのだが、こうして室内にいると暖気に交じって、鼻に突き刺すような独特の匂いが漂った。象を模した香炉に眼をやる桂影に「西域から献上された香料を用いておりまする」と教坊司が言葉を添えた。
「七王爺におかれましては、此度はまことにおめでたく――」
「どこかめでたいものか。七王爺は花嫁を忘れてしまうつもりかと、宮中雀は呆れておる」
宵徳がもたらした分と合わせて、桂影は己が置かれた状況を把握していた。
無論、本当に失敗したとしたら――皇子に求められる、男としての機能、異性への関心、この二つの最低条件を持っていないということになり、父皇帝に召喚されるだろう。
しかし、桂影の身は未だ七王府にあり、宵徳や教坊司とこうして会話できているのだから、わざわざ捕吏が訪れるまでもない――皇子同士に飛び交う、よくある誹謗中傷の類として、周りは片づけているらしかった。
桂影が自嘲気味に言えば、方卓を挟んで座る教坊司は恐縮しきった様子で手拭を両手でいじった。
「それで……七王爺。御身の黄花閨女はいかがでしたでしょうか?
年頃の皇子の周りに、異性の一人や二人いないと、趣味嗜好が疑われる時世である。
本来ならば、〈黄花の儀〉すなわち黄花閨女の選定は、半年をかけて準備される。
皇子たちの好みも大いに反映される。歌がうまいだとか画が上手だとか、黒い髪だ赤い髪が良いとか、凹凸のはっきりした体形がいいだとか、そうした内容を教坊司に伝え(もちろん父帝をはじめ、高官たちにも「記録」として通達される)、該当しそうな宮妓たちを見繕い、彼女たちの心身の健康状態などを考慮し、もろもろの条件を通過した者が宴席という形で皇子の前に現れ、このうちのただ一人が「皇子の黄花を賜る」という大役に選ばれる。
だが十五の年に母が亡くなり、桂影は、黄花閨女を自ら選定する前に、離宮へと移り住み、この度の還御で、父皇帝から延期していたそれを実施せよとの命令が下された。
公には、第七皇子も〈黄花の儀〉を行うことによって、花嫁を得る資格を持って良いと皇帝は見なしたわけだが、当事者である桂影からすれば、相手役を選ぶ時間はなく、かなり慌ただしいものとなった。
異国に嫁ぐことが決まった公主の婚礼準備や、喪が明けたばかりの皇子が異性選びで騒ぎ立てるのはいかが、という空気も宮中に流れており、また七王府にいる限られた使用人では、王府に訪れる黄花閨女の対応――浴室に案内したり、入浴中の美容整容、入浴後に用意する飲み物の準備だとか――も満足に行えるかも怪しかった。
皇子に仕える宦官にとっても、〈黄花の儀〉は一度きりしか遭遇しない行事のため、離宮から戻ってきた七王府の人員の多くも、儀式に対する十分な準備時間がなかったのである。
黄花閨女の肌に触れる仕事を行う者については、急いで伯母である皇后に熟練の女官たちを借り受けた。
黄花閨女と彼女を護衛し、皇子を監察する宦官たちの視界に入る王府の一部分を重点的に整えるべく、家令に代わって掃除の指揮をとる桂影は、教坊からの使いの来訪で、黄花閨女を選ぶこととなった。
教坊司が推薦する容姿、人格、頭脳、芸能といずれも優れた宮妓の名簿を渡され、「速やかに初めての女性を選んでくださいませ」と不愛想な家令に促される形で選んだのだった。
(――宝石の名前だったからな)
名簿をめくってパッと目に飛び込んだ名前があった。
翡翠を意味する名前なんて、貴石も奇岩も収集している桂影にとってなじみ深い。それに緑の色は、三年を過ごした離宮から見た山と同じ色だ。
その横には、年齢だとか容姿の細かな説明だとか得意な技芸とかあった気がするが、己の〈黄花の儀〉は宴の部分を除外していたから、特に重要視しておらず、全然、覚えていない。
おまけに「翠玉」という相手の名を訊いても顔が思い出せなかった。名前と外見だけは砂豹に尋ねて、なんとなくだが色や形は思い出せた。
――金と翡翠と白と、やわらかくて温かった、以上。
桂影は己の記憶力の悪さに愕然とした。七つの子供の手習いのほうがもっとましな内容だろう。
「儀式前に飲んだ酒のせい」とするには、己の阿呆さと恥を表明しているというのもわかっている。
内心の焦りを顔には出さずに、落ち着いた声で答えた。
「余の邸第にいては、宮妓はその役目を果たせないよ。それにこの心は、未だ貴妃殿下を悼むためにある」
親を悼む時間は三年とされるが、孝徳をなによりも尊ぶ帝国においては、三年以上の年月を喪に費やすことは美徳とされる。
服喪の期間は、酒や美食といった華美贅沢は控え、慎ましく過ごさねばならない。
さらには、喪が明けたからといっていきなり派手な生活を送るのも、褒められたことではなかった。
己の容姿とそれにふさわしい技芸を身に着けた宮妓が、質素な暮らしぶりが要求される七王府の生活では耐えられないだろう。
来訪の目的は、あくまでも黄花閨女に会うことで、小星に取り立てるためではないのだ。
そう発言する桂影だが、教坊司はなおも食い下った。ごほん、と咳払いをして手拭を懐にしまう。
「その点についてはご安心を。確かに、宮妓は着飾り、歌い踊ることが役目にございますが、全員が全員、奢侈の享受が当然だと思っているわけではありませぬ」
公主や令嬢と同等の教育を受けている者もいる、と教坊は語る。
「あの娘は楽才の他に、習字や算術にも明るく、性格は温厚にして、周りに対する気遣いも忘れません」
「それだけ素晴らしい娘なら、後宮に召されるのが当然だと思うが、どうか?」
この世の女性にとって、皇帝陛下の寵愛を受けることが至高の誉れとされる。
教坊司がそこまで褒めそやす娘が、傍から見たら清貧に値する暮らしをしなければならない七王府の小星で満足できるとは思えない。
そんな桂影の皮肉が伝わったのか、教坊司は眉根を寄せた。
「あの娘の場合は……欠点がないのが、欠点と申しましょうか。人が五を覚えて七の結果を出すのに対し、三を教えただけで十以上の成果を上げる――天賦の才とはああいうことを言うのでしょうな」
室内には、桂影と己の二人しかいないのに、教坊司は辺りを憚るような声で言った。
「勤勉で努力家。美点と捉える者が多いでありましょうが、こと寝食を共にする娘たちからすれば、どうでしょう?」
できないなら、できるまで努力すればいい。できるために、自分がすべきことを見つければいい――そんな娘が、同性の集団生活でどのように映るか。
「さぞやし嫉妬や怨嗟が凄かろうて」
「ええ。人並み外れたということは、人並みの中では生きられませんから」
血の滲むような努力も、生まれ持った才能と言い表せるのならば、件の娘はまさにそれを体現していると教坊司は続けた。
「判りやすく申せ」
「後見につきたいと、そう申し出たお方も――ああっ、お名前だけはどうかご勘弁を。まあ、その某氏が幾人か――おりましたが。その……あちらを立てれば、こちらが立たず。かと言って、大家のお手を煩わせるなどもっての外。なれど礼部だけで采配を揮えるものでもありませぬ」
龍床に侍ることが無い限り、宮妓の多くは、家臣に褒美として下賜される。また才能あふれる宮妓の後見人として、己の富貴や芸術性を証明しようとする人間も多い。
大家とは皇帝陛下を表す宮中の用語である。成人した桂影が第七皇子である通り、現在の後宮には、成人済みの息子・娘を儲けた妃嬪がそれなりにおり、これ以上、懐胎器械――後宮の女性に与えられる栄誉ある役目である――を増やす道理はない。
「某氏たちが無用に争い合う前に、皇子たる余が召し上げろと、そういうことだろうか?」
「御賢察の通りでございまする」
その場で深々と頭を下げた教坊司は、顔を上げると桂影に言い放った。
「一人の天才と、九十九人の努力家がいたとして。たった一人のために、残る九十九人が凡愚と評されることは、教坊にとっては甚だ芳しくありませぬゆえに」
「教坊は、九十九人の凡人を育てていると、恥を明かしているのか?」
「いえいえ滅相もございませぬ。なれど、王爺。宮妓は他者の耳目を喜ばせるために存在しております。彼女らは芸能に特化した人間なれば。百人いて、優れた一人の歌唱力に合わせて、残りの者をその一人と同等に上達させるか? 否。九十九人もまた別の分野での第一人者。歌が上手な者を真似ても、似て非なる優れた表現者が誕生するだけ。――それでは、その一人に実力の半分以下で九十九人に合わせてもらうか? これも否。天性の才能を、抑え込めるなど大逆に等しい」
とうとうと述べた教坊司は、神妙な面持ちで続けた。
「――件の娘は、九十九人が稽古に励む間に、己も鍛錬に励み、さらに成長しているのです。残りの者がいつまでも追いつくことはできませぬ。そしてまた、我らの立場では娘に研鑽に励むなとも言えませぬ」
「詭弁だな」
「まこと仰せの通りなれば。ですが、僭越ながら申し上げます。御身の御立場であれば、あの娘を引き立てられましょう」
「だから七王府では――」
「技芸を披露すること、御身の心身をお慰めする以外にも、あの娘ならば役立ちましょう」
教坊司の形相に、桂影は思い出した。
教坊司は官職の一つだが、この男は宮妓や楽人を我が子のように庇護するという性質であった。また宮妓たちを支援する愛好家たちとは、職務以外での交流を必要以上に持たないという。過去には、教坊司の立場を私物化し、皇帝陛下のために存在している宮妓たちに手を出したり、売り飛ばした者もいたため、大家は彼の清廉さと実直さを気に入り、今の地位に取り立てたのだとも。
(……だからというわけではないが)
皇子の桂影からすれば、父皇帝の百官の序列で言えば下から数えたほうが早い教坊司の反感を買うのは避けるべきだ。味方にはならなくとも、敵にはならない。
そして我が子の幸福を願う親としての立場で語る教坊司に、けして絆されたわけではない。
そう己に言い聞かせて、桂影は口を開いた。
「まずは、もう一度彼女に会いたい。小星にするかどうかは、それからだ」
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