第2話 第七皇子と〈黄花の儀〉
大陸を流れる
その下流域たる
肥沃の大地を巡って、数多の国々が興り、滅び、長きに渡る群雄割拠の時代に終わりを告げたのは、北方の騎馬民族であった。
中原の国々から蛮族と見なされていた彼らは、南下するたびに文字を得て、礼を学び、下した国の文化を柔軟に取り入れ、一大国家を作り上げた。
大陸全土を支配した者は
銀漢帝国の開祖である。
以来、二百年以上にわたる歴史を、帝国は有することになる。
当代は、
そしてまた、身分の上下に関わらず、人々は
* * *
「そなたの趣味が
「――ちょっと待て、
およそ三年ぶりに再会し、挨拶もそこそこに本題に入った異母兄を、
新年を祝う
けれど桂影を主人とした
桂影は、三年振りに東宮へと戻ってきた第七皇子である。
親が亡くなれば三年の喪に服する帝国の倣いに従い、母亡き後、北の離宮に移り暮らし、つい一昨日戻ってきたところだった。
そして十五のときに延期された〈黄花の儀〉を今夜、施行することになったのだ。
〈黄花の儀〉は、十五で成人した皇子が「男」になるための儀式である。
銀漢帝国において、〈黄花〉とは、純潔の男女を意味する。
長寿を意味する菊の別称がつけられたこの儀式を完遂すれば、皇子も「一人前」と見なされ、妻帯が認められる。
この儀式では、
生娘と交わることで不老長寿に至るなら、清い男の肉体と交わっても然り。
異母弟が延期されていた儀式を、今夜施行するということで、異母兄の
桂影の腹違いの兄、宵徳もまた皇子であるが、桂影は彼の来訪の理由を予想していたため、客間ではなく、己の執務室へと案内したのだった。
皇后である母親譲りの優美な顔立ちをした宵徳は、十八になる桂影と四つ離れている。母同士が実の姉妹だから、彼とは従兄弟関係にもあたる。
身長は、桂影のほうが頭一つ半は高い。宵徳は同世代と比べても小柄だ。
弟で従弟が、建前上は「めでたい」とされる〈黄花の儀〉を実施することになったから、祝いにかけつけたという宵徳の性格は、泰然自若。自称を「春風のような」と評するが、桂影に言わせれば「嵐」にも等しい存在でもある。
母を亡くす前。〈黄花の儀〉をその年に迎える予定だった十五歳の桂影は、宵徳の微行に付き合った際に「兄からの餞別じゃ」と言われて、市井の妓楼に連れて行かれそうになったことがある。
驚き、慌てふためいて妓楼を飛び出しかけた異母弟の襟首をつかみ、人払いを済ませた部屋で二人だけになると、宵徳は悪びれた様子もなく言った。
「だぁって、官僚登用試験ならばどんな問題かわかるから対策できるけれど、あの儀式はいきなりの実践じゃぞ? そなた、知識だけで実践できる自信があるのか? 剣術だって、乗馬だって、剣の使い方、馬の扱い方を頭で知り、身体で覚えるからこそ、身につくんじゃろうが」
「そうだが!」
「それに、余の時は見張り役はいなかったけれど。そなたの時は、どうなるかわからんしのう」
「どうなるか、とは」
「牀榻の脇に宦官どもが
「はっ!?」
父皇帝の閨房は、国家の未来に関わるが、皇子の場合は、結婚しない限りは見張り番がつくことはない。
「〈黄花の儀〉は、大家の御代で生まれた儀式じゃ。一王爺はともかく、二王爺から六王爺たる余まで五回行い、必要な部分、不要な部分が出てくるのは当然じゃろ」
早世した長男を除く当代の皇子五名は、十五歳で〈黄花の儀〉を迎えた。
だから予行練習じゃ、と宵徳は言った。
「予行練習」
「然様。黄花閨女は、余たち皇子の希望を優先してくれる。じゃが、果たして。己の願望そのままの女性が現れたとして、そなたは皇子としていられるか? 我欲に囚われないか? ――それにの」
「それに……?」
兄の言葉を繰り返す桂影に、宵徳は左手の親指と小指を折り曲げ、真ん中三本の指を立てた。右の人差し指で、立てた左手の三本を人差し指から順に叩いていく。
「余たちが間違えてはいけない、三つの穴。
個人差もあるしな――と真顔で続ける兄に、桂影は呆れた様子を隠さないまま立ち上がり、彼を置いて一人で東宮に戻った。
宵徳ほど優秀という自惚れはないが、桂影だって勉強も運動も好きで、人並みの成果を残している。だから家令である砂豹から、人体の解剖図や人間の赤子がどのような過程を得て誕生するのかも、きちんと学んでいた。
(赤子は愛し合う男女の間にできる。『愛』を知るために、〈黄花の儀〉がある)
相手役の黄花閨女は、皇子の好みによって選定される。
だが、ここでも問題が発生する。
顔がいいと言えば、器量好み。相手の容姿に口うるさい男。
性根が優しい娘がいいと言えば、真綿のようにふわふわで決断力のない男。
このように朝廷では見なされる。
しかし、より具体的な条件を挙げると――たとえば、歌が上手いとか刺繍が得意だとか碁が強いとか、ぶちまければ胸が大きい小さい、尻が足が髪が指が耳が歯並びがどうのこうのだと言えば。
それはそれで、「なるほど。それでは王爺の黄花閨女は、御身の嗜好に沿った者を用意いたしましょう。なれど、奥方様の場合はこの限りではありませぬゆえ、どうかご婚儀の際はお気をつけを」などと言われたり、自分の好み一つで「変態」などといった謗りを受けたりする。
当代の皇子は、このような立場にあった。
面倒だな、と桂影は思った。
それに、自分は宵徳に試されているのかと思い、胸の片隅が痛んだ。
もし桂影が、宵徳が懇意にしている妓女と深い間柄になり、欲に溺れれば、覇道を望む宵徳の足手まといとなり、膿のごとく切り捨てられるだろう。
それは悲しいと思った、面にも声にも出してはいけないとも、皇子として生まれ育てられた桂影の冷静な部分が納得していた。
そして、そんな出来事があった矢先に――桂影は、母を喪った。
三年の喪が明けて離宮から東宮の七王府に帰ってきた桂影に、宵徳は妓楼での出来事を懐かしそうに語り、励ましとも揶揄いともつかない言葉を残して去っていった。
――そして迎えた、夜。〈黄花の儀〉は本来ならば、夕刻から宴が始まり、皇子が選んだ宮妓を黄花閨女に指名するのだが、桂影の場合は、一昨日東宮へと帰還したことと、忌明けを理由に宴の部分は省略した。
「そう案ずるなと御身に申しておる。玉房経典に書かれた手順と多少違っても、正しい場所にぶち込みさえすれば良いのじゃ」
宵徳の言葉を思い出して、桂影は息を吐いた。
精のある夕食を胃袋に流し、湯浴みを終えた彼は、侍従に眠気覚ましの飲み物を頼み、ようやく一人になって牀榻に腰掛けている。
――あと一刻もすれば、黄花閨女がやってくる。
これから初めて異性と夜を過ごすというのに、心の中は、ひんやりとした敷布同様に冷めていた。
そもそも、なにゆえ年頃の皇子達に異性を侍らせるのか、それも国家儀礼の一つとして。
その原因は、先帝の趣味にあった。
疫病によって斃れた太子やその息子、異母兄たちに代わり、四十を過ぎて即位した先帝は、己の心身を癒し、当代の御子を産み参らせる
一国を統べる君が、女を抱かずに去勢された男を閨に招くのだから、後継ぎなぞ、いつまでもできる筈がない。
当然ながら、次代の
そして、その余波は、蛮王が治める大陸の果てまで広がった。
戦が速やかに終結したのは、当時、指揮に当たっていた桂影の父――後の瑞光帝の辣腕による。
系譜で言えば、先帝の甥に当たる彼は、
このとき瑞光帝は二十歳の若者で、先帝は五十に手が届く年齢であった。
今から三十年も昔のことである。
古来より君主の
なにせ皇帝の最大の役割は、世継たる
天帝の意思を受け、地上の帝として、国家の安寧と繁栄をもたらす役目こそが、皇帝の存在意義だからだ。
ゆえに、国の頂点が無能だけならまだしも、世継を作らないなんて言語道断。こればかりは有能な百官が執政したとしても、国として成り立たない。
帝国の風習と合わせて見れば、同性であれ異性であれ、不老長寿に至るために『気』を交ぜることは悪ではないから、先帝のみが異常、異質、異端というわけではない。
ただ世継を残さねばならぬ人が、その役目を自ら放棄したことによって、国家が乱れただけなのだ。 それを罪と言わずしてなんという。
したがって父帝は、先帝や歴代の皇帝たちの生涯を鑑み、己の息子たちの嗜好を明らかにすることにした。
また
これにより生まれた順番にかかわらず皇子たちは、父と朝廷に太子と認められるための努力が求められるようになった。
そして〈黄花の儀〉を通して、皇子の嗜好を知ることは、皇帝と朝廷にとって、次代を担うに相応しいか否かの、指標の一つとなった。
御子を残せる機能があること。
異性に関心があること。
少なくとも、この二つを満たさねば、龍椅を得る資格はない、と。
(……本当に、皇子とは人の姿をした
叩扉の音で桂影は我に返った。応じれば、一人の宦官が銀盆を運んでくる。
暗紫色の液体が注がれた杯を受け取り、宦官を下がらせた。やけになって飲み干すと、喉が焼けつくような痛みに襲われる。
西域から献上された葡萄酒を呑むのも三年振りだった。
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