黄花の皇子と仮初の寵姫
あらま星樹
第1話 黄花閨女
音のない夜だった。
(……雪だわ)
(……お優しい方だと、良いのだけれど)
前後を歩く
不安と誇り、緊張と喜び。これから
廊下に並ぶ燭台の前を通り過ぎるたびに、翠玉の腰まで届く金髪が肩から背中からふわりと舞い上がり、光の粒を放つ。
これで翠玉が深紅の
だが、彼女を挟むようにして歩く四人の宦官と、一行の先導を務める黒衣の老人は皆、どこか事務的な表情で、翠玉本人も花嫁とは思えないほどの硬い表情を浮かべていた。
翠玉は花嫁ではない、
黄花閨女とは、この
(……大丈夫、大丈夫よ。私は、
王爺とは、宮中において「殿下」ほどの意味を持つ。前に数字がつけば、それは序列を表す。宮言葉を解する者ならば、彼女が、第七皇子、
翠玉はこれから、知識として学んだ
それが黄花閨女の役目なのである。
女性にしかできないこの役目は、
すべては
不老長寿。
時代を問わず、貧富を問わず、数多の支配者が切望し焦がれ求め続け、果ては国を滅亡させるまでに至った夢、形無き至宝。
先人たちは、房中術によって、不老長寿が実現できると固く信じてきた。人が体内で作る『気』を交じり合わせることで、長生きできるのだ、と。
先導を務める
心なしか不機嫌そうに見えるのは気のせいだろうか、と翠玉は思う。
翠玉は
お召がなければこのような場所――皇子の住まう宮殿――
主人の返答がないにもかかわらず、老人は呼びかけを発声することもなく扉を開けた。
最小限の明かりが灯された
翠玉をここまで運んだ四名の宦官と、燭火を浴びて
入口から十歩歩いた先に、山水画が描かれた
その間、翠玉は四囲に立つ宦官たちから、丁寧な手つきで外套を脱がされる。
白鳥の羽でできた外套の下は、袖と裾が長い白い
宦官たちに気づかれぬよう、翠玉は名前と同じ翡翠色の眸で室内を見回した。
黒檀の調度品や、塵一つどころかなにも置かれていない飾り棚、なにも活けられていない白磁の
(……お優しい方でありますように)
祈りにも似た気持ちで立ちすくむ翠玉の姿が、曲線を描く甕の胴体に写り込む。
屏風の後ろから、案内役を務めた老人の姿がぬっと現れ、翠玉を手招いた。
他の宦官に促されるようにして、翠玉は牀榻に向かう。宜春院で仕込まれた通り、背筋と腕を伸ばし、指先は揃え、袂を優雅に翻す。唇は花びら一枚を含んでいるほどの微笑みを浮かべる。
翠玉と入れ違いに、老人が身を屈めながら扉へと下がって行く。
室内を区切る屏風を通り過ぎれば、眩いばかりの明かりが遮られ、牀榻の周りは薄暗かった。翠玉が再び目を凝らすと、牀榻に腰掛けた青年の姿を見とめた。
背後で扉が閉じる音がして、翠玉は貴人と二人だけになったことを知った。
彼から三歩ほどの距離を置いて、翠玉は両膝を床に着け、顔を伏せる。
「黄花閨女か?」
「……七王爺、ご機嫌よう。お召しにより、ただ今罷り越しました」
再び聞こえた男の声に翠玉が返答すれば、「こちらに」と優しげな響きを含んだ声がかけられた。
顔を上げれば、王爺が右手で自身の隣を叩いている。命じられるままに翠玉は、立ち上がり、牀榻に近づくと王爺の右隣に腰を下ろした。
すると、相手の掌が頬に伸びてきた。自然、翠玉の顔もそちらに向く。
王爺の目の高さは翠玉より指五本は高かった。精悍な顔立ちをした青年だ。 けれど落ち着き払った物腰は気品が漂い、粗野な感じはない。
十八と聞いているが、翠玉に向けられる黒瑪瑙を思わせる眸は穏やかそのもの。
真っ直ぐな髪は黒絹のごとく背中に真っ直ぐに流れ、翠玉と同じ睡衣姿の上からでもわかる、鍛えられた体つき。細身に見えるのは、無駄な肉がないからだろう。
まるで鋼を編んだような、引き締まった腕が袖から覗き、翠玉の頬に添えられる掌はどこか遠慮がちであった。
明かりに満ちていたけれど、どこかよそよそしい臥房。
物にこだわりが感じられなかった、そういうお方なのかも翠玉は知らなかった。
(――でも、温かいわ)
頬に触れる掌から、温もりがじんわりと広がって、目の前にいるお方が生きている人間だと翠玉は実感する。
王爺は口を開いた。
「冷たいな」
「……申し訳ありません」
「広間は寒かったか? 待たせてすまなかった」
「勿体無き御言葉です」
雪が降ってきました、と囁くように翠玉が答えると彼の目はわずかに大きくなった。
「雪? そうか」
現れたのは先程、退室したばかりの老人だった。胸の前で両手を組み、腰を屈めて牀榻の前に現れる。
「砂豹、参りました」
「不寝番に火盆と毛皮を」
「仰せの通りに」
老人は一礼すると、翠玉たちの前から去って行く。間を置かずして、扉が閉じる音がした。
再び、王爺は翠玉の隣に座った。先ほどの王爺は、翠玉の左隣にいたが、今度は翠玉の右隣だった。
王爺はうるんだような黒眸で、翠玉に視線を注ぎながら口を開いた。
「――足下、名は」
「翠玉と……申します」
「なるほど、良い名だな。……余は、これほど見事な翡翠を見たことがない」
王爺が頷くと、肩から黒絹のごとき髪が一房、こぼれ落ちた。
「驚いた。……余が居ぬ間に、宮中の職人たちは、このような人形を作り出せたのかと思った」
王爺の言葉に、そういえば、と翠玉は宦官たちから学んだ内容を思い出す。
――七王爺こと桂影殿下は、服喪によって〈黄花の儀〉を延期されていた。
三年前に病にかかり、お隠れになった生母である貴妃殿下の御霊を弔うため、離宮で過ごされていたのだという。
(……お辛かったでしょうね)
翠玉も六歳の時に父を亡くした。十年経ってようやく、心にぽっかりと空いた隙間がふさがってきたところなのに。
もちろん、貴き方と翠玉の境遇は比べられるものではないとわかっているけれど、下々が勝手に思うことは自由である。
翠玉の右頬に触れる王爺の親指が唇を滑った。翠玉の頬に伝わる温かさも、こちらに向けられる視線も、清廉な印象を与える。
いよいよだと翠玉は膝に置いた拳を握った。
不思議なことに、他人に初めて触れられているのに、翠玉には恐れや嫌悪といったものは湧いてこなかった。
――王爺は、清らかな空気そのままに、翠玉に触れている。そこに情欲や獣性は感じられず、あくまでも慎重で、丁寧で上品な所作であったからだろうか。
そう気づいた瞬間、翠玉は胸が熱くなった。
もう儀式は始まっている。
あとは、互いに互いの気が交じり合うだけ――と、翠玉の頭の奥で、これまでに学んだ『愛』の手順が一気に蘇った。
唇から顎先、首筋から衿にかかった王爺の左手を、翠玉は両手を伸ばして止める。相手の顔を見つめたまま花唇を開いた。
「畏れながら七王爺に申し上げます」
彼は一瞬だけ驚いた顔つきになったものの、すぐに真摯な眼差しで翠玉を見返した。
「なんだ」
「
喉に渇きを覚えながらも、翠玉は房中術の作法書の名をあげ〈黄花の儀〉の正式な手順を口にする。
この場合は、王爺から見て翠玉が右側に居なければならない。今は――七王爺の左に、翠玉がいる。
「なるほど。しまったな、これでは場所が逆だな」
言ってから、王爺は翠玉から手を離した。すぐに
倣うようにして、翠玉も紅の
王爺から見て右隣に翠玉が――膝を揃えて横並びの姿勢となった。翠玉と同じく、背筋をぴんと伸ばした彼は問うた。
「怖いか?」
「いいえ」
翠玉は即答した。
恐怖など、あるわけがない。
自分は貴き方の黄花を賜るために育てられたのだ。
自分の黄花を捧げ、そして相手から黄花を下賜される――
――そんな決意が顔に出ていたのか、王爺は翠玉を見やると微笑んだ。
「その意気や良し。……では、翠玉。改めてそなたに余の黄花を贈ろう」
「謹んでお受けいたします」
頷く翠玉に、王爺は目を細めて「それとな」と付け加える。
「……何分、余はそなたのような美しき女子と眠るのは初めてゆえ、作法と違っても許しておくれ」
それまでの真面目な印象から一転して、悪戯が見つかった童子のような笑顔を前に、翠玉は息を呑んだ。
理屈では到底説明できないようななにかが、彼女の胸を駆け抜けた。
(――この方に愛される私は、幸せだわ)
翠玉や王府の者に対する下々への態度は、為政者として立派ではないか。
さらに王爺は――大方の宮妓が口にするような、理想や夢物語に出てきそうな、好ましい男性だと思う。
飢えた獣でもなければ、
いくら房中術が、双方の同意を得ねばその効力を発揮しないと言えど相手は上つ方。
己の望むままに翠玉を扱っても、問題はないのだ。
けれど、王爺は翠玉の身を案じてくれる。
――このような素晴らしい方に選ばれて、なんて果報者なんだろうと、翠玉は感極まった。
胸に両手を重ねて、黄花閨女としての口上を述べる。
「畏れ多いことにございます。不肖この身は、御身を癒すために存在しておりますゆえ。御身の御気に召すように……」
声が上擦らないようにするだけで精一杯の翠玉に、王爺は肩を震わせた。どうやら笑っているらしいと彼女は遅れて気づく。
「面白い娘じゃのう……。余は、女子を知らぬから、そなたに教授願っているのに?」
「も、申し訳ありません!」
翠玉は慌てて敷布に額をつけた。
よいよい、と笑い声とともに身を起こされて、相手に抱き寄せられる。
迫ってくる王爺の唇を受け入れようと、翠玉が顔を上げた時、とんっと己の右肩に相手の額が載せられる。
(……え?)
おかしい。
翠玉は両眼を見開いた。
玉房経典の手順では、語らい、抱擁し、口づけ、それから黄花閨女の帯を解くと書かれているのに、口づけはまだされていないし、翠玉の背中に回された王爺の腕が動く気配は一向になかった。
(お、王爺は
左道――誤った方法による房中術は、不老長寿ではなく快楽に重きを置いているとされる。この場合は、玉房経典の手順ではない手技を用いることを左道としている。
むろん、翠玉は宮妓だから快楽に特化した内容も知識としてはある。
「あの、王爺?」
唇をおずおずと開けば、返事はなく代わりに牀榻に押し倒された。
羽毛がたっぷりと詰まった枕の感触を後頭部に感じながら、翠玉は「今度こそ」と覚悟する。
しかし――翠玉の耳に聞こえてきたのは、穏やかな寝息だった。
「ええ?」
混乱する翠玉に答える者は誰もいなかった。
彼女にとって、この一夜は、愛されるためにあったのに。
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