第十二話『童話語り《マザーグース》』
地鳴りのような怒号と共に、悲鳴と絶叫が交わり響く。
突如縦に割られた教室の扉とクレーターの如く沈んだ廊下の床に、周囲の生徒がざわめき叫ぶ。
青天の霹靂とばかりに走った轟音に、教室に残った全生徒が何事かと顔を覗かせる。
だが、音の元凶たる狩人がそれで
「GYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」
今度は緩慢な動作で振りかぶった大斧を横に大きく薙ぐ。大男専用に造られたであろう巨大な大斧の柄ギリギリを掴んで放つ一閃は、たとえ乱雑な大振りと言えど周囲一帯を破壊せしめるには十分過ぎる一撃だ。現に廊下に面した窓ガラスは全て割れ、触れていないはずのガラスまで木っ端微塵と化している。人に当たっていないのは不幸中の奇跡だ。
だがそれでも、コイツにとってはウォーミングアップにすら届いていないのだろう。
その証拠に、三度振りかぶるその動きは未だ緩慢。
だが――、
「くっ――」
足が動かない。
大男の攻撃を受けたわけでも、ガラスの破片に足を掬われたわけでもない。
ただ、足が動いてくれない。
そうしている間にも、次の一撃が――、
ギン――
「――アリス!」
「動くな!」
咄嗟に言われ、黒衣は動きを止める。
「よもやこのような昼中に、それもまだ余人がいる中での襲撃とは。あえてそこを狙ってのものか、それを考える理性すら吹き飛んでいるのか。さて、どちらだデカブツ」
「Grrrr……」
「獣に交わす言葉など持ち合わせてはいないか……。なら――っ」
アリスは受けた日傘で大斧をいなすと、落ちてきた頭に蹴り叩き込む。
「G――」
「くっ……、硬いな……。一体何で出来ているのやら」
大して効いていない蹴りに苦渋の声を漏らすが、大男の一瞬できた隙にアリスは日傘を構える。
「アリス、何を――」
「人が多すぎる。一旦向こうへ飛ぶぞ」
アリスがそう言うや否や、アリスを中心に光の文様が浮かび上がる。
『 ロンドン橋落ちた
壊れて落ちた
壊れて落ちた 』
それはいつか見た不可思議を具現化した藍色の光。
そしてそれは、昨晩本から漏れ出でた幻想の詩。
「ま、待て! 向こうって――」
「砕けて落ちろ! 『
「あ――」
その浮遊感には覚えがあった。
遠く暗い昏い穴の底へと落ちていく感覚。
ここではないどこかへと誘われる、未知の感覚。
だが黒衣は既にその感覚を知っている。
これはそう。あの紅の刹那に感じた――、
あの空間――【逢魔時】へと落ちていく感覚。
「あ――、ああああああああ――――」
「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA――――」
*
「――――ああああああああああああああああああああああああああああああ」
「っん――」
終わりなき浮遊感の刹那、突如首根っこを誰かに掴まれる感覚を覚え黒衣は我に返る。
どうやらアリスが助けてくれたらしく、どこぞのベビーシッターのごとく傘をパラシュートのように使い、ゆっくりと落下しているようだ。
「ぐへ」
だがそれも束の間。すぐ硬い地面へと放り捨てられてしまう。
「ってててて……。あのさぁ、助けてもらってなんだが、もう少し丁寧に扱ってくれてもだな……」
「悪いな。生憎、そんなことに気を使っている余裕もなくてな」
「何を――」
重いトーンで語るその言葉の意味を、黒衣はすぐに理解した。
――ッドン
隕石と見紛う衝撃と共に落下してきたのは、神話から飛び出してきたかのような理不尽なまでの巨体。
「GYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!」
昨晩黒衣を叩き殺した、斧振りかぶる大男だ。
「っ――」
地響きすら発生させるその雄叫びを浴びて、鼓膜の裏側が震え上がる。
昨晩の恐怖を未だ潰えていないのだと、体が叫んでいるかのように。
そんな中、雄叫びの終わりを待たずして蒼い閃光が走り出す。
「アリス!」
「お前はそこにいろ!」
まさに風の如く。青のエプロンドレスをはためかせ、十数メートルの距離を一瞬にして駆け抜ける。
「はぁぁああああっ――」
勢いのまま、アリスは傘を突き穿つ。
それはまさに剛槍の一突き。風すらも邪魔とばかりに刺し貫き、後には逆巻く風をも発生させる。
だが、
「硬いな……」
それほどの一撃にも関わらず、穿たれた男の左胸は風穴を空けるどころか、傷一つつかない。
「Grrrr……」
「くっ……、ならば!」
一撃を加えても気にする素振り一つ見せない大男に対し、アリスは後方へと大きく飛び退く。
飛び退いた先は壁。学校の廊下を模した薄闇の空間。だがしかし、人々の認識によって形作られたこの【逢魔時】ではその大きさは現実と大きく異なる。現にこの廊下も現実のそれとは違い、高さ十メートルはあろうかという巨大な空間へと変貌を遂げている。
しかしそれは、こと戦闘においては最高の舞台。
跳躍したアリスは両の足を壁につけ蹴り上げる。
跳躍の勢いと自身の体重によって加算された力を反転し、大男へと再度突進する。全体重と脚力、そして重力をも加えられ増したその威力は既にさきほどの比ではない。それは槍などという生温いものではなく、言うなれば砲弾。巨神をも殺す
自身の身体を蒼き
「はぁぁぁぁああああ!!!!」
聞こえるはずのない金属音が激しく交差する。
黒衣にも大男にも見えはしないが、それはたった一撃に非ず。研ぎ澄まされた技巧によって繰り出されたのは実に十六連撃。大砲の一撃にも匹敵する力を散弾の如く浴びた大男の左胸は摩擦によって白煙を挙げている。 だが――、
「よもや、ここまでとはな……」
それでも、大男の胸には傷一つ付かない。
煙を上げてはいるものの、一筋の焦げ目すらそこにはなかった。
「Grrrr……」
大男はようやく攻撃されていることに気付いたのか、やはり緩慢な動作で斧を振り上げる。
「はてさて、さすがにこれはわたしも想定外だ。どうしたもの……、か!」
言いながら、アリスは大男の斧をひらりと躱す。
「アリス!」
「おい、人間!」
男の動きは未だ遅く、その斧も紙吹雪の如く舞うアリスを捉えるには至らない。
だがその一撃の重さは変わることはない。一撃どころかかすり傷でさえ致命傷に届き得る。
しかしアリスはそんな大斧の
「気付いたか?」
「な、なんのことだ?」
「このデカブツ、外に出ていた」
「そ、それがどうし――」
そこでようやく、黒衣は杏の言っていたことを思い出す。
「契約者がいないのに、外に出ていた?」
そう。それは明らかな矛盾。聞いていた話とは違う、あからさまな食い違い。
「いや、そうではないぞ」
だがアリスは否定する。
「契約者がおらずとも外に出ていた、のではない。契約者がいたからこそ、外に出ていたのだ」
確かに、そういうことだ。杏から聞いた話が正しいのなら、それが事実。
だというのなら――、
「人間、わかっているな」
「ああ。その契約者とやらを見つけて……、ぶっ飛ばす」
簡単なことだ。目の前の大男が倒せない存在だとしても、その契約者は別だ。いくらこのバケモノが化け物染みていたとしても、契約者はただの人間。だったら、そいつを先にやってしまえばいい。
そう思い至り、黒衣は走り出そうと振り返る。
だがアリスは大男と対面したまま動かない。
「アリス?」
「わたしは、コイツをどうにかしておく」
「なっ……、でも――」
「どの道このデカブツを止めておく役目は必要だ」
言われてみればその通りだ。この大男が黒衣のやろうとしていることを理解しているのかは定かではないが、それでもおそらく相手がいなくなればコイツは追いかけてくるだろう。そうなった場合、契約者捜しどころではない。最悪、昨日の二の舞だ。
そのことを悟り、黒衣は歯噛みして走り出す。
「フラグかもしれないが言っておく。死ぬなよ」
「ふ……。生憎、わたしにはそんな安っぽい伏線は通用しないぞ。なにせわたしは、『アリス』だからな」
そう言ってアリスをおいて、黒衣は走り出す。
「それに、わたしは少し高揚しているのだ。なにせ、わたしの傘が通じぬ者がいるとはな。これほどの高鳴りは女王と一戦交えて以来だ。やはり、この世界はいい。この世界は不思議に満ちている! そうだろ、デカブツ!」
アリスは一歩退き、大男に日傘を向ける。
呼応するかのように、大男は赤い瞳を光らせ、再び戦闘が開始する。
*****
『 てんとう虫さん
てんとう虫さん
家へ帰れ、飛んで帰れ 』
澄み渡る唄声に乗り、大男の背後に一軒の『家』が現れる。
まるで子供が描いたようにチグハグなそれは、突如とってつけたような扉を開き、『家』の主人とした大男をその身に呑み込んでしまう。
大男を抵抗の暇さえ与えず吸い込んだ『家』は、コミカルにバタンと扉を閉ざす。
『 お前の家が火事だぞ大火事だ
子供たちみんな焼け死ぬぞ 』
「完全燃焼! 『
その言葉をきっかけに、男を孕んだ『家』は瞬く間に炎に包まれる。
薄暗い空間を埋め尽くすほどの光が唄い手であるアリスを煌々と照らし、中の凄惨さを雄弁と物語る。
だが、
「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」
もはや当然とばかりに、大男は炎振りまく『家』から飛び出してくる。
「まだ終わりではないぞ!」
『 わたしは叫んだ
あなたも叫んだ
みんなで叫ぼう
アイスクリーム! 』
途端アリス目掛け飛んでくる大男の頭上に、覆い被さるほどの氷雪が降ってくる。
いや。それは厳密に言えば氷雪ではない。カラフルに彩られ、見上げるほどに巨大なそれは氷菓。アイスクリームだ!
子供ならば叫び喜ぶ旨のような氷菓の塊を浴び、大男は埋もれるように押しつぶされる。
「GAAAAA!!!!」
だがそれも物の数秒で打ち破られる。
「畳みかけるぞ! 【イカれ帽子屋】!」
「お呼びでお嬢?」
アリスの声と共に影より現れたのは、影よりも暗いタキシードに身を包んだ一人の男。
目深に被ったシルクハットが特徴的なその男は、膝を着いたままアリスの背後に現れ主人の命を待つ。
「奴の動きを止めろ」
「御意に」
短い命令に短く応えると、帽子屋と呼ばれた男はおもむろに自身の帽子を大男に向かって放り投げる。
投げられた帽子は遠近法を無視してその大きさを肥大化させ、あっという間に大男をすっぽりと包み込む。
無論大男は激しく暴れるが、帽子はビクともしない。
『 ハンプティ・ダンプティ塀の上
ハンプティ・ダンプティ落っこちた
みんながどんなに騒いでも
もう元には戻らない
二度と元には戻らない 』
いつの間にか消えた帽子屋を気にすることもなく、アリスは詠唱を開始する。
それはいつか聞いた還らずの詩。昨日の夜も聴いたはずの童歌。同じ相手に同じ詠い手。
ただ違うのは、今の詠い手に口があるかないか。本の形をしているか、人の形をしているか。
ただそれだけの違いのはずなのに、その詩は確実に昨日とは違うと言い切れる。
「爆発四散! 【
落ちて来たるはマトリョーシカにも似た卵の人形。昨晩見た物よりももう一回り巨大な卵人形。
だがそんなことよりも決定的に違う箇所がある。
それは――、
「爆ぜろ」
地面へ触れた瞬間、卵は轟音を響かせながら爆発する。
一つが二つ、二つが四つ。卵の爆発は連鎖し、辺り一帯を火の海へと塗り替える。
「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA――――」
同時に弾け飛んだ帽子の隙間から大男の叫びが聞こえたが、すぐに爆音にかき消され、聞こえなくなる。
『 釘がないから蹄鉄打てない
蹄鉄なくては馬駆けない
馬もなくては騎士戦えず
騎士もないから戦もできず
戦がないから国が滅びた
全ては蹄鉄が打てないせい 』
日傘に光が灯る。
決して美しくはない、それは
それも当然。その光は決して陽に当たることのない戦火の鈍色。戦の中で散る運命を持つ、剣尖の光。
『 風が東に吹くときは
人も獣もいいことなし 』
風が吹く。風はアリスの体を押し上げるように吹き、アリスもその風に乗り駆け出す。
まるで風そのものがアリスであるかのように、アリスの体は弾丸の如き速さでもって駆け抜ける。
目指すは、粉塵吹き荒れる爆煙。
と――、
「ッッッッ――」
煙の中から何かが這いずり出る。
木の幹と見紛うそれは、肌を焦がし黒ずんだ男の豪腕。迫るアリスを捕まえんと伸ばした、大男の右腕だ。
だが、
「遅い――ッ」
爆発のダメージが効いているのか、その腕は力こそ感じさせるものの、動きはさっきよりも遅い。風と同化した今のアリスならば、止まっているも同然。
アリスは男の腕を難なく躱し、右腕に後ろ手に――溜める。
狙うは一点。
「はぁああああああああ――――」
鈍色の光を乗せ、アリスは日傘を穿つ。
穿たれた日傘は戦場を駆ける一筋の銀閃と化し、大男の左胸を刺し貫く。
大火事に特大アイス。さらにいくつもの爆弾による大爆発。度重なる急激な温度変化に、鋼の如し硬度を誇る大男の分厚い肉体もさすがに強張りを見せていた。そこに強化された銀槍の一撃。それもアリスが刺し穿ったのは、さきほどから狙い定めていた左胸。さしも不死身に近い肉体を持つ大男と言えど、心臓を穿たれて生きてはいまい。
「GA……、A……」
それでもなお、大男は腕を振り上げる。そこにある大斧を握って。
だがそこに、いくつもの鎖が絡みつく。
『 一、二数えて靴を履き
三、四数えて戸を叩き
五つに六つ、棒きれいくつ
七、八、キラキラ瞬いて
九つ十、醜い豚さん 』
見えない空間より伸びた鎖は腕、足、胴、最後に首を締め上げ大男を拘束する。
男は鎖を引き千切ろうともがくが、大男の力を持ってしても鎖は契れない。
「心臓を貫いても未だ動くとは。その生命力には流石のわたしも驚かされる」
言ってアリスは手を前へと伸ばす。
「だが、これで終わりだ」
『 一の月は雪運び
僕らの手足に赤ギレ作る
二の月は雨運び
湖の氷をゆったり溶かす
三の月は風運び
水仙の華を烈しく揺らす 』
アリスが静かに呟くと、雲もないのに雪が降る。
こんこんと、こんこんと舞い落ちる季節外れの白い妖精は、身動きのとれない大男の上にだけ降り積もり、しんしんとその体積を増していく。
「凍り付け。『雪降る睦月』」
一分もしなういちに大男の体を全て埋め尽くした雪は、アリスの一言で氷へと変わる。
鎖と氷によって固められた大男は動く気配もなく、見事な氷像と化して真夏の空間に冷気をもたらす。
「ふぅー……。ちとやり過ぎたか」
効き過ぎた冷房に思わず体を抱きながら、アリスは白い吐息を口より漏らす。
「だが、まだまだ不思議が足りないな」
文字通り手も足も出せなくなった巨大な氷像から視線を外し、見るのは氷像の反対側。
少々頼りない契約者が走り抜けた、暗き空間の先だった。
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