第五話『本の妖精』
それは、黒衣がまだ幼い頃の――小学生だった頃の記憶。
今の少々斜に構えた性格とは違い、その頃の黒衣は他の多くの少年たちと同様に、年相応にやんちゃな小学生だった。もっとも、よりやんちゃをしていたのはもう少し成長した中学時代だったのだが、それはひとまず置いておこう。
何にせよ、その頃の黒衣は同年代の友人たち以上にやんちゃで、他のどの年代の子供たちよりも好奇心旺盛だった。
学校で習うどんな勉強にだって興味を示し、体育で行うどのスポーツにも勇んで参加する。新たに目にする物事の全てに目を輝かせ、新しい発見に胸を躍らせながら日々を闊歩する。当時の彼にとって、それはまさに毎日が冒険の連続だった。
この世界は不思議に満ち溢れている。
世界はなんて面白いんだ。
その頃の黒衣は心の底からそう信じていた。
そしてそんな黒衣の隣にはいつも決まって一人の少女が並んでいた。
黒衣の実の、妹である。
黒衣の二つ下であるその少女は黒衣がどこかへ遊びに行く度に付いていき、黒衣が何かを始める度に同じように少女もそれを始めていた。
何をするにも常に一緒。
何処へいくにも常に一緒。
別に黒衣が一緒に行こうと言ったわけでも、少女が共に行きたいと言ったわけでもない。ただそうあるべきものだとでも言うように、常に二人は共に行動していた。
世間的にそれを仲の良い兄妹とでも呼ぶのだろう。実際にその様子を見ていた周囲の人間も、その兄弟を仲の良い兄妹と呼んでいたし、黒衣の方もそう言われて嫌ではなかった。
常に一緒。
それが当たり前。
それはたとえ二人が大きくなろうとも、大人になっても変わらない――ずっと続いていくものだと思って疑いはしなかった。
そう――、
あの夏の日までは――。
*
「…………」
懐かしい夢を、見ていた気がする。
とても昔のことのようで、ついこの間のことのような、そんな夢。
もうはっきりとは思い出すことのできない夢の内容を、何故か俺は、そんな風に感じた。
「おい」
あの頃の俺は馬鹿で、無鉄砲で、ただ前に進むことしか考えてなくて。
だから横で微笑んでくれていた大切な存在のことなど、何一つ考えていなかった。
そして失った。
失ってようやく、それが自分にとってかけがえのない存在であることを知り、後悔し、絶望し、苦悩し、取り戻そうと、そう考えていた。
でもそれは二度と叶わないことだと知り、それでもどうにかしようと足掻き、傷ついていった。
「おい」
そんな傷を大したことではないと言い張り、若さゆえの足掻きを続けていた俺を止めてくれたのは、他でもない、八重だった。
八重がいなかったら、俺は未だに廃れたままだっただろう。
昔は泣き虫だった八重は、いつの間にか強くなり、そして俺を止めてくれた。
「おい」
だからこそ、あの時涙を案がした八重を見て、俺は酷く驚いてしまった。
八重の涙を見たのはいつ以来だろうか。
もう、覚えてすらいない。遙か昔だったような、そんな気さえする。
「おい」
いつの間にやら強くなってしまった八重。
そんな八重に、涙なんて流させてはいけない。
「おい」
今度は、自分が八重を守らなくてはいけない。
「おい」
そんな思いを胸に宿し、黒衣はゆっくりと眼を開き――、
「だぁぁうるっせぇえええええええええええええええええ!!!!」
唐突に、叫び出す。
「なんだ、起きているではないか」
その叫びに、聞き慣れぬ声が応えを返す。
声の主は、そこにいた。黒衣が起きた、目の前に。
「ふむ。やはり、人間か」
そこにいたのは、一冊の大きな本だった。
まるで画板ほどの大きさもあろうかという革製のハードカバーの表紙に、長い年月を思わせる陽に焼けた羊皮紙の頁。
古書と、そう形容するのが相応しいそれは一冊の古き書物。
そんな本が、まるで蝶のようにその身を羽撃かせ、ぷかぷかと宙に浮いていた。
「人間の客は久しいな。今までも幾人もの人間がこの空間を訪れたが、近頃は終ぞ見かけない」
さきほどの声が、そう黒衣へと語りかけてくる。
一見すればどこから聞こえてくるのかわからないその声を、何故だか黒衣は目の前に浮かぶ本が話しているのだと、そう確信を持てていた。
「アンタは……誰だ? 俺がおかしくなけりゃ、本が喋っているように聞こえるんだが」
「ふむ……。それも当然の疑問、か。聞くところによると、外の世界の本は口を聞かぬらしいからな」
何やら妙なことを呟いたと思うと、本はこう続ける。
「いかにも、わたしは本だ。少しばかり話ができる程度のただの本だ。だがまぁ、お前たち人間に告げるのならばこちらの名の方がわかりやすいか」
そう言って本は一呼吸置くと、
「『本の妖精』だ」
と、黒衣にそう告げる。
「本の、妖精……?」
その名には聞き覚えがある。
それはさきほど満月から聞かされていた、最近噂になっているという都市伝説であり、図書委員たちにとっての悩みの種の名前。
「アンタが『本の妖精』……、だってのか?」
「ふむ。その口ぶりからすると、どうやらわたしのことを少しは知っているようだな」
にやりと、ありもしない本の唇が笑ったような気がした。
「ああ。一応、人に聞いた程度だけどな」
「ふむ。それなら話は早いというものだ」
そう言うと本は、バッと身を翻す。
「では問おう、人間よ。お前の願いは何だ」
「願い?」
唐突に、本は問う。
「そうだ。己が抱く真なる願いを『妖精』たるわたしに告げるがよい。さすれば、この世のありとあらゆる願いを叶えてやろう」
本は声高々に、辺りの空間を震わす声でそう告げる。
願いを叶えると。
それはまさに、満月から聞いた都市伝説の通りに。
どんな願いでも叶えてやる、と。
「どんな、願いでも……」
「そうだ。お前も一人の人間なら持ち得ていよう。ありとあらゆるものを捨ててでも手に入れたい願いを。どんなことをしてでも、それがたとえ蛮族と罵られるようなことだとしても、幾千幾万の同胞を屠ることになっても叶えたい願望が。お前にもあるだろう。その内に秘めた願いを、その渇望を、その信念を、わたしに告げるがいい。わたしはそれがいかなる悪謀だろうと、余りある野望だろうと、叶えてやる。それが己が願いというのなら!」
その言葉と共に、空気が変わる。辺り一帯は緩やかな風で覆われ、本はその風に乗せて頁を踊らせる。頁の合間からは時折黄金の光が瞬き、風が逆巻き、辺りを山吹色の空間へと変貌させる。
「さあ言え! お前の願いを――!」
映画や小説の中で見たことのある魔法のような空間。不思議が織りなした幻想的な世界の中で、本が再び黒衣に問いかける。
願いは、何だと。
その問いに対し、黒衣はゆっくりと、口を開く。
「いや、特にないけど」
「…………え」
風はゆっくりと収束し、光はそよ風と共に消えていく。
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