第四話『白色の少女』
「あぁ~~、のっこいしょ」
いかにも年寄り臭い言葉を呟きながら、黒衣は椅子に腰掛けた。
八重が部活動へと向かってから一時間。日の長いこの時期でも、さすがに午後の六時を過ぎれば日も傾き、さっきまでカーテンの隙間から漏れ入っていた茜色の光も徐々に弱まり、今ではうっすらとその余韻が残るばかり。
時刻はすでに六時半。下校時刻までもう少しという時間帯。すでに図書館を利用している生徒の姿はなく、残っているのは数人の図書委員と、黒衣と満月のみ。その数人もすでに今日の仕事を終え、閉館の準備に取り掛かっているところだ。かく言う黒衣自身も、たった今返却された本の片付けを最後に、図書委員の手伝いを終了しようと考えていたところだ。
ところなのだが、さすがに日本でも屈指の蔵書量を誇る図書館塔。館内を行き来するだけでも、十分過ぎる重労働となりえるのである。授業が終わってからこの方、ずっと図書委員の手伝いをしてきた黒衣にとっては、すでに移動するのもやっとというほど疲れが溜まっていて、さすがに限界と事務所へと戻る途中の読書用の椅子に座り、一息ついているのである。
机に置いた大量の本の山に気を付けながら、黒衣は机に頭を預けるようにしてもたれかかる。木材で造られた机の表面はひんやりとしていて、夏の暑さと労働によって疲れた身体に心地良い。
こうして何も考えずにいると、ふと頭に浮かぶのはさきほどの八重の言葉。
『でも、それでもまだ、クロは信じてるんでしょ? さゆ――』
八重があの時言おうとしていた言葉。言おうとしていた『名前』。
今でもはっきりと覚えているその言葉。今でも大切なその名前。
もう随分と昔のようにも感じるし、ほんの少し前のことのようにも感じられる、懐かしい時間。
そのときはよくその名前を呼んでいたし、よくその名前の少女から呼ばれていた。
でも、今は違う。
今はもう、その名前を呼ぶことはなくなった。
黒衣の前から、いなくなったから。
その少女は夏の日の――そうちょうど、今のような日の沈む時間帯に、いなくなってしまった。
忽然と。
どこかに。
姿形もなく。
あれから四年。いつの間にか、黒衣はその少女の名前を口にすることはなくなっていた。
未だに愛おしく感じられるその名前を、黒衣はまるで禁句であるかのように拒み、他人からもその名前を聞くことはなくなっていた。
まるで、必死にその名前を忘れようとしているかのように。
黒衣は執拗にその名前から遠ざかっていた。
でも、八重は黒衣のそんな態度が気に入らないようで、数年前まではずっとその子の話を繰り返していた。
何度も何度も、忘れさせまいとするかのように。
だがそれも、いつの間にかなくなっていた。
諦めたのか、飽きたのか、それともそれ以外の理由か。それはわからなかったが、いつの頃からか、八重の口からその名前は出てこなくなっていた。
ただ、その話になると少し寂しそうな表情になる気がして、やはり黒衣はその名前を避けるようになっていた。
だからこそ、そうであるからこそ、黒衣は申し訳なく思う。
そんな風にしてしまった自分を。何もしてやれない自分に。黒衣は憤りすら覚える。
それでも、そう思っていても、結局は何もできない。
変えられは、しないのだから。
…………。
やめよう。
そこまで考えて、黒衣は思考を止める。
いつものように、考えることをやめる。
いくら考えたって何も変わらないし、変えられない。少なくとも、あの子が帰ってくることはない。
だからこそ、黒衣はそこで思考を止め、顔を上げる。
「――っ、よし!」
さっさと片付けを済ませて帰ろう。上手くいけば、部活上がりの八重とも合流できる。
そう思い、黒衣は勢いよく立ち上がる――
パサリ
と、まるで紙をめくるかのような渇いた音が、黒衣の耳へと届いてくる。
まだ誰か塔内に残っているのかと思い、音の出所を確かめようと辺りを見回すと、それは思った以上にあっけなく、想像以上に簡単に見つかった。
そこにいたのは、一人の少女。
白銀の髪と紅玉の瞳を持った『白色の少女』が、そこにいた。
黒衣が座る席の机を挟んだ反対側の席。少女はいつの間にかそこに座り、ただ一人静かに本を読んでいた。
読んでいるのは、黒衣が片付ける途中だった返却本の中の一冊。黒衣が読んだことのないような、分厚いハードカバーの本だ。
少女は黒衣が見ていることを気にした様子もなく、というよりも全く気づいていないようで、ただひたすらに本を読んでいる。
小さな子だ。付属の生徒ということを差し引いても小さく見える。まるでそう、とても精巧に造られた西洋人形のようで。頁をめくる仕草がなければ、本当の人形と見紛ってもおかしくはないほどに。それは触れることはおろか、視線を向けることすらも躊躇ってしまうほどに、硝子のような繊細さと、華のような儚さを感じさせていた。
そしてもう一つ、感じていることがある。
それは違和感。
いや、違う。既視感だ。
黒衣は彼女を、この子を見たことがある。……気がする。
無論、彼女の白銀の髪も、宝石のような紅眼も、黒衣には覚えがない。もし本当に彼女がみたことがあるのなら、その圧倒的な二つの特徴を見逃すはずがない。
だからこそ、黒衣が見たのは彼女ではない、はずである。
だがそれでも、黒衣の心にはどこかしこりがあった。髪や瞳の色などではなく、顔の形や身体の大きさ。腕の長さや手の大きさ、首筋や鎖骨の形、果てには服の隙間から覗く些細な陰り。そういった、見えてはいるがあまり意識しない部分に関して、黒衣は見覚えがある気がした。
当然はっきりと「そうだ」なんて言えるはずはない。黒子の位置や傷跡の有無などは別として、そんな『誰しもが持つ些細な違い』など覚えているはずもない。だが、無意識のどこかに違和感がある。違和感というよりも、既視感とさえ言えるものが、黒衣の中にはあった。
あの子ことを思い出してしまう何かが、この少女にはあった。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ふぅ」
ぱたむ――
と、息を吐くような小さな声と本を閉じたときの渇いた音で、黒衣の思考は断ち切られる。
どうやら少女が本を読み終えたらしく、少女は本を胸の前で小さく持ち、読み終えたばかりの本を凝視している。
「……おもしろ……かった……」
一分ほどの、僅かばかりの沈黙が続いた後、そんな声が黒衣の耳に届く。
あまりに小さすぎる声だったが、その鈴の音のような声は確かに黒衣の鼓膜を打った。
「……これ、あなたの?」
「えっ」
急に話かけられて、黒衣は動揺する。
「い、いや、俺のじゃない。ここの本だ」
「……そう」
なんとか返事を返すが、少女はそう言って読んでいた本を机に置き、再び動かなくなる。
「あ、あのさ……、もう閉館の時間なんだけど」
再び動かなくなっては困ると思い黒衣は少女に声をかけるが、やはり少女は反応しない。
さすがにそろそろ時間がまずいのだが、こんな小さな女の子に無理矢理出て行けなんて言えるわけもなく、再び時間が過ぎるのを黒衣は覚悟する。
「……本は好き」
そう思ったとき、少女が再び口を開く。
「……いろんなお話があって、おもしろい」
表情はまったく動かさぬまま。
「……こっちに来て、本当に、よかった」
黒衣を気にしないで、話し続ける。
「……あなたは、どう?」
「え……?」
またも唐突に話を振られ、反応に一瞬遅れてしまう。
「ど、どうって言われても」
なんとことか、さっぱりわからない。
「……やっぱり、あっちがいい?」
「あ、あっちって、何処のこ――」
「……あの子は、あっちがいいみたい」
「っ――――――――」
ドクンと、黒衣の中で何かが飛び跳ねた。
「お、おい……。今、何のことを――」
額から汗が噴き出す。
少女が言った『あの子』の意味を、黒衣は何故か理解できてしまった。
わかるはずのない、その子の名を。
「……あの子に、会いたい?」
再び、黒衣は衝撃を受ける。
思った通りだ。思った通り、この少女はアイツのことを言っている!
少女は立ち上がり、一歩黒衣へと近づく。
少女の紅い視線が、黒衣の視線と重なり交わる。
「っ……、お前……っ!」
そこでようやく、黒衣はさきほど感じた違和感の――既視感の正体に気付く。
黒衣は、この少女を見たことがある。
あのときは髪の色も瞳の色もこんなではなかった。
だがそれでも、忘れるわけがない。
忘れようと必死に眼を背けていたが、それでも、忘れられるわけがなかったんだ。
その顔は、四年前の夏の日、黒衣と共に行方不明になった少女と――、
黒衣の妹の顔と、瓜二つだった。
「お前は、一体……」
「……だったらそれは、私の役目」
そう言って少女は、黒衣の胸元へと手を伸ばす。
カチリ――
何かの歯車が噛み合うような、そんな音が黒衣の脳内に響き、
次の瞬間、黒衣の足下に大穴が開く。
「――――ぁ」
黒衣は何の抵抗もすることなく、そのまま穴の中へと落ちていく。
机もろとも落ちていく。
本もろとも落ちていく。
落ちていく、落ちていく。
闇の中へと落ちていく。
落ちていく、墜ちていく、堕ちていく、おちていく。
オチテイク。
そこで黒衣の意識は唐突に途絶えた。
*
「おーい黒、そろそろ閉館だとよ。さっさと戻って――」
満月は黒衣が向かった本棚の方へと歩いている途中、机の上に置かれた本を見つけて不審に思う。
「あ? この本、アイツが持ってった……」
満月は本を手に取り、表紙を一瞥して確かめる。
本は机から崩れ堕ちるようにして散らばっており、その椅子はまるでさっきまで誰かが座っていたかのように引かれている。
「アイツ、どこ行ったんだよ」
満月は辺りを見回すが、人影らしきものはどこにもない。
「ちっ。しゃあねえな」
満月は散らばった本を拾い上げ、指定された本棚の方へと歩き出す。
「こりゃ、あとで奢りだな」
そんなおとを呟きながら、満月は誰もいなくなった図書館塔を一人歩いて行く。
しかし満月は気付かない。
返却するはずの本が、一冊だけ足りなくなっていることに。
その本は、誰も読んだことがなくとも、誰もが知っている有名なタイトル。
一人の女の子が夢の世界へと迷い込み、冒険を繰り広げる童話。
題名を『不思議の国のアリス』という。
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