高架線下生活

コオロギ

第1話

 家族の家の中の自室の中の押入れの中の鞄を引っ張り出して、その中に必要なものを入れようとして、必要なものって何かあるかなないなないないと、空の鞄を肩にさげて部屋を出ようとしたら待ってって聞こえた気がした。そんなわけないよないよって思うけど振り返って、誰が何がそんなこと言うのかと見回して、それは窓際のトゲトゲのサボテンだった。

 うん、じゃあいっしょに行こうって茶色のプランターを胸に抱いて外に出た。

 きれいな月が出てた。星もたくさんあって、輝いてて、三つの星を繋げて大三角を作った。

「さむいさむい」

 しゃべるのと同時に白い息が出た。

 なんとなく、気分は良かった。気分がいいならこれはきっと良いことなんだって思うことにした。

 最寄り駅へ向かう。ポケットを探るとICカードが知らないけど入っててそれで改札を通って電車に乗った。人は乗っていたけど空いている席はたくさんあって、その一つに入り込んで窓の景色を見た。街の灯りがきらきら瞬いて光ってきれい。星よりも強かった。人間ってすごいなあ。

 すごい怖いなあ。

 窓に映ったぼくに微笑まれて、ぼくは微笑み返した。

 終点まで乗った。車掌さんの声がこの電車が終電だと告げた。

 じゃあもう帰れない。じゃあもうしょうがない。

 改札を出て歩く。魂みたいにほわほわと息が出てってすぐに消えていく。


 ぜんぜん誰もいない広い大通り。

 車の音も失せ切って、歩道から車道に乗り換えた。

 笑えるだけ笑う。笑うだけ笑いがこみ上げるからとめどなく笑う。なんで笑うと泣いちゃうのかな、泣き笑いかな?笑い泣きかな?あんま分かんない。

 くるくる回ってた。ふらふらしてた。誰もいないって素晴らしいなって思った。今車かトラックなんかが走ってぼくを吹っ飛ばしてくれたらぼくはもっと大爆笑できるなって思った。

 倒れたいなってなってきっと倒れたら痛いんだろうなってそのまま横に倒れた。コンクリートに頭をぶつけて一瞬目の前がクラッシュした。カメラのフラッシュみたいだった。すぐに横倒しの景色、続く道路とその境界、ライトに浮かんで真っ暗な空が見えた。

「あー」

 痛みとか、すべてが一度リセットされてから、徐々にそれが解除されていく。じわりじわりと痛みが左側頭部、左腰、左踵から広がっていく。波紋みたいだなあって思う。

 せっかく横になったけれど、眠くはならなかった。コンクリートが冷たいせいと、脳味噌がなんだか覚醒しているからだと思った。

 むくりと身体を起こして、地面を見つめて、ぐわんと首を後ろへのけ反らせた。真っ黒の空を通過して、真っ逆さまな面白い世界へぼくは行く。血が落ちてきて溜まって鬱血気味で頭が圧迫される。でも吸う空気は冷たく澄んできれい。ぼくの血も透明な水にしてくれるかもしれない。

 空が下にあって、ぼくが上にあって、地面に貼りついてて、ベリベリいって剥がれたらいいのに。真っ黒な空に落ちたら楽しいのに。

 あ…

 サボテンが逆さまに、ぼくの目の前にいた。いつ、ぼくの手からいなくなったんだろう。まったく記憶がない。

 緑色のそいつが、腕もないそいつが、あっちへ行こうぜって、指さしてた。あっちって何があるんだろうって目を動かした。

 フェンスだった。青のペンキの剥げた錆だらけの、高い高いフェンス。

 こっちがわとあっちがわを確実に分け隔てる塀だった。そうして、

 あっちがわへ行こうぜって、緑色がぼくにお誘いをした。

 あっちがわは、空よりも黒かった。何も見えなかった。

 何も見えないのなら、何もないかなあ、ぼくはそう期待した。

 首を起こして、振り向いて、サボテンを抱いた。

「うん、そうだね」

 鞄にサボテンを入れて、ぼくはフェンスを登り始めた。かしゃんかしゃんわりと大きな音が響いた。一番上で、柵を跨いで反転して、あちらがわがこちらがわになった。降りていくとき、こちらがわからの景色を見た。意外なほど明るかった。あんなに照らされていたとは気付かなかった。誰もいない舞台みたいだった。きっとこれから役者が出てくる、賑わう、音、声が加わるに違いなかった。さっきまでぼくが寝転んで遊んでいた場所は、もうぼくには二度と届かない場所なんだと思った。

 地面に到達した。鞄を肩から下ろして放置して、ぼくも放置した。目の前に空は広がっていなかった。遮られて、すべて隠されて、きっと、ぼくには都合がいいに違いなかった。

 親指と人差し指で三角を作って腕を伸ばしてかざして見上げていたら、寝た。


 爆発した。

 体が寸断されたのかと思ったくらいだった。そんな豪速球の衝撃とずたずたな鼓膜のぶれだった。それから少しの間をおいて、それは何度も通過していった。

 高架線。

 ぼくの頭の上にある電車の通り道。金属のレールがものすごい重さとスピードに耐えながら悲鳴を上げている。

 薄い白い膜が張ったような視界。まだ暗いけど、黒くはなかった。

 朝一番の列車が、ぼくの上空を通過していく。

 朝。朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝朝あさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあ、

「ねえ」

 鞄の中、あいつを出してあげた。手ががちがちでなかなか思ったように動かなかった。でも出してあげた。あいつがにやって笑ってこっちを見た。

「おはよう」

 あいつと同じ目線にするから、なんだかあいつに平伏しているみたい。だとしても一向に構わないし、変わらないと思った。

 また電車が通過した。

 みるみるうちに時間は経って、がやがや世界は明るくなった。明るくなったら、生き物が出てきた。きっと目を覚ましたのだ。たくさんたくさん、出てくる。わんさかと、

 人間の脚たち。

 いろんな脚が目の前を歩いていく。本当にいろんな脚。網タイハイヒール、黒光革靴、羊ブーツ、シマウマブーツ、よちよちのピヨピヨ、ピンクにグレーに黒に黒に黒に紺に青に茶に焦げ茶に黒に白に黒に黒に白に黄土に黒、黒黒黒黒、羊、黒羊。

 柵のあっちがわでは時間が突っ走っていく。こっちがわはまるっきり停滞状態だ。上空のあれに到達できれば、なんとか追いつくかもしれないけれど。

 列車が真っ直ぐ、遠くへ走り去る音。ものすごい音だ。なんでこんなものをみんな知らん顔できるのかぼくは知らない。みんな聞こえないのかもしれない。超特急で駆け抜けるから気付けないのかもしれない。

 高架線を見上げていたら欠伸が出たので、ぼくは伸びをして倒れた。

 あいつと一緒になって転がって、ぼくはこっちがわで三角を作る。



  


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