14.別れ
「すぐに出発するのかと思った」
意外にも、グリードはもう数日泊まってから森に帰ると言い出したのだ。
「パン屋の作業小屋、まだ改修が終わってないんだ。一度受けた仕事だから、最後まで責任持ってやらなきゃ失礼だろ」
軽口をたたくターシャを軽く睨むと、グリードはキッチンに向かった。
「なに作るの? 今、晩ご飯食べたばかりなのに。あ、森までは時間がかかるから、お弁当を持って行った方がいいわよね」
「俺のじゃない。ターシャのだ。日持ちしそうなものをいくつか作って行く。出て行く日だって、ちゃんと翌日の弁当も作っておくから、食事は抜いたりするなよ」
残酷なほどの優しさに、言葉が詰まる。
(私のことなんて、もういいのに……)
「仕事は忙しいかもしれないけど、部屋はなるべくこの状態を維持しろよ。売上金もちゃんと計算して鍵つきの箱に入れるんだぞ。それと、食料品はちゃんと日の当たらない場所に保管すること。それと、俺がいなくなっても、もう湖では水浴びするな。稼いでないわけでもないし、もっと危機感を持て。それと――」
「なによ。もう、まだあるの?」
「キスしたい」
「はっ?」
グリードが手を止め、真面目な顔で振り返る。
「仕切り直し。まだできてない。ちゃんと、人間のキスがしたい」
「な、なに言ってんの……」
グリードは、動揺して俯いたターシャに素早く近づくと、両頬を手のひらで挟み、顔を上向かせた。
そこにすぐに唇が降って来る。
ターシャがなにか言おうとした言葉は、唇もろとも、グリードの口に吸い込まれた。
最初は柔らかく……まるで、壊れてしまわないかと確認するかのように、優しく重ねられた。
一瞬離れたが、息をする間もなく、また口づけられる。最初とは違って、それは少し強引で有無を言わせない強さがあった。
それで終わりかと思いきや、角度を変え、時折唇を食まれる。その初めて味わう感覚にターシャは翻弄された。まるで全身が心臓になってしまったかのように、ドキドキとうるさく響いた。
やっと唇が離された時、ターシャは息が上手くできずに頭がクラクラして足が震え、立っているのがやっとだった。
思わず両手で口を覆う。まだそこがグリードの唇で塞がれているような、自分の唇ではないような感触があり、顔に熱が集中した。
「うん。やっぱりこっちがいいな。柔らかくて、甘い」
「な。なに、なに! なにしてんの! もうここを出ていくって時に……!」
「でも、忘れて欲しくなかったから。俺も、忘れたくないから。印はちゃんとつけておかないとならないだろ」
「い、意味わかんないっ!」
あまりの恥ずかしさに、家を飛び出すと、足早に店に向かう。風にあたっても、顔の火照りは冷めないし、心臓のドキドキも止まらない。
(なんで、今? なんで? 本当に忘れられなくなるじゃない……)
占い屋についてからも、グリードのことが頭から離れない。
いつどんな時も、店にいる時は冷静でいられたのに。
それでも、ここに来ると身体は自然と動く。棚から黒い布を出し、皺ができないよう手のひらで撫でながら広げる。だが、時間になっても誰もやって来ない。こんな日もたまにはあるが、最近はひっきりなしに客がやって来るのが常だったため、不思議に思っていると、コンコンとドアが控えめにノックされた。
「はい」
「あのう……。お店、もうやってますか?」
「はい。やっていますよ」
「看板が“閉店”のままだったので……」
「え……。あっ!」
ターシャが慌てて立ち上がる。
外に出てみると、東屋では既にふたりが待っていた。「すみません、すみません!」と頭を下げて、塀に掲げた看板を裏返す。
(ああ……もう。私、なにやってるんだろ……)
私はひとりでもやっていける。
今までだって、そうだった。これからもそうだ。グリードと出会う前と同じ日々を繰り返すだけだ。これまでやって来たことを、なぞるだけ。難しいことではない。
トキメキは思い出になる時が来る。切なさはカサブタのように、少ししぶとく心に貼りつくかもしれないが、時が経つと共に剥がれ落ちるだろう。その下から現れる新しい皮膚は、以前よりも丈夫になっているはずだ。そうなったら、いつかグリードとの暮らしを、笑って話せるようになるかもしれない。
最初の客をテーブルに案内すると、ターシャは向かい側に座り、両頬をパチンと叩いた。
(大丈夫。大丈夫よ。私は強いの)
「失礼しました。改めまして、おとぎの国の占い屋へようこそ。では、あなたの悩みを、聞かせてください。勿論、秘密は守ります」
語りかけたターシャの目は、いつもの占い師の目になっていた。
* * *
出だしこそドタバタしたものの、なんとかその日も、すべての依頼人の相談を終えることができた。
最後の客を外で見送ると、そのまま看板を裏返し、ランプの火を消す。
外はもうすっかり暗くなっていた。
全員の相談が終わると、さすがに安堵のため息が漏れる。占っている時は、感覚が鑑の中にあるということが作用するのか、グリードに感情が引っ張られずに済む。日常もこんな風にいけばいいのだが……。
首を大きく回すと、コキコキと鳴り、じんわりとした疲労感を感じた。さて、グリードと顔を合わせるのは怖いが、帰らなければ。ターシャは布を丁寧に畳み、棚に置いた。そこで、ペンダントの曇りに気がついた。
前回は、赤ずきんの来訪を告げるものだったが、今回はなんだろう。
少し胸騒ぎを覚え、急いでドアを開ける。すると、そこにいたのは、グリードを占った時、まっすぐにターシャを見ていた老女だった。
「おや。視えたかい?」
「あ、あなたは、あの時の……」
「ああ、そうさ。ちょっと邪魔するよ」
「――どうぞ」
まさか、占いで視た景色の中の人物が、こうして自分を訪ねてくるとは思わなかった。
老女はさっさと中に入ると、部屋の中を見回した。
「ここにグリードはいないようだね」
「……はい。ここは、私の仕事場です」
「そうかね」
「ええと……どうぞ」
テーブルに案内すると、意外にも、老女は素直にそこに座った。
グリードがいないと分かった上で座るということは、ターシャ自身にも用事があるという事なのだろう。そしてターシャもまた、自分を術者だと言った彼女の事が気になっていた。
「ワシがなぜここに来たか、疑問に思っとるじゃろう」
「それは……グリードを探しにいらっしゃったのではないのですか?」
「ま、それもある。おぬしも視ておったじゃろう。今、人狼の森は危機的状況でな。血の気が多い若者たちが、騒ぎを起こしとる。それで、情けないことに、あの甘ったれのグリードに頼らざるを得ないんじゃ。じゃが――それだけではない。おぬしに忠告したくての」
「忠告ですか? あの……グリードの事なら、引き留めませんよ。むしろ森に帰るべきだと、説得したところです」
それを聞き、老女は驚いたように少し目を見開いた。
「ほう。それは意外じゃな」
「なぜですか?」
「おぬしの視たものが、歪んでおったからな」
「歪んで――? どういうことですか? 私はこれでも腕の良い占い師だと評判で、頼ってくれるお客さんはたくさんいるんです。勿論未来は変わることがありますが、歪んでいるって、どういうことですか?」
「それはおぬしが――」
だが、その続きは聞くことができなかった。勢いよく扉が開けられ、老女の言葉が途切れてしまったのだ。
「ターシャ! 随分と遅いから迎えに――」
「なんじゃ、グリード! その恰好は!」
ターシャの帰りが遅いことを心配してやって来たグリードだったが、料理中だったこともあり、エプロン姿だった。
「ええっ? ヨダアン!? な、なんでここに!」
「お前を迎えに来たに決まっておろう! まったく、世話の焼けるやつじゃ! 子供の頃から変わっておらん!」
「ええっ? ターシャ、どういうこと?」
「ええと~。うん、そういうことみたいよ」
「ターシャ……。あ~っと、なんか、突然ごめん。この人はヨダアン。人狼族の長老であり、呪術師だ」
「長老は余計じゃ。人を年寄り扱いしおって」
「じっさまが死んだら、順番からしてそうなるじゃないか」
呪術師――その言葉を聞き、ターシャは老女がこの場所に来れたことに納得した。
ヨダアン自身も、呪術師とあって、人には見えないものが視えるのだろう。だから、あの空間に意識だけ存在したターシャに気がついたのだ。そして同時に、ターシャを通してグリードの現状も知ったのだろう。あの、全てを見透かすような視線は、本当にターシャの意識を通り越して、その先にあるものを視ていたのだろう。そうでなければ、すんなりと居場所を探り当てることなど、できない。
「ヨダアン。俺、ちゃんと帰るから。ターシャともちゃんと話をしたから」
「ふん。なら、いいが。今宵、ワシは近くの宿屋に泊まることにする。出発は明日じゃ。いいな」
「えっ、俺、ひとりで帰れるけど……」
「お前の足では何日かかると思うとる! まったく、星も風もまだちゃんと読めんうちに飛び出してからに……。なんのために、呪術師のワシが迎えに来たと思うとるんじゃ!」
「あ、あの、グリードだって飛びぬけて上手なことがあります!」
言い負かされ、しゅんとした様子のグリードを見て、ターシャが慌ててフォローする。確かに星も風の読めないかもしれないが、彼には他の良さがある。
「例えば、なんじゃ?」
「料理だって誰よりも上手だし、食材は余すところなく使います。掃除だって隅まで綺麗にできるし、家や家具を直すのも得意です。種族が違う人間にも優しくて人当たりがいいし、今では、村の皆に頼りにされています」
「ふん。残念ながら、そんなものは人狼族の
「でも……」
「ターシャ。もう、いいよ。ヨダアン、わかったよ。明日一緒に森に帰るから」
「それならば、ワシの用事はこれで終わりじゃ。そこの人間の術士よ。おぬしには世話になった」
ヨダアンが深々と頭を下げると、ターシャも慌ててお辞儀を返した。
気難しそうに見えたが、一族が頼るだけあって、人格者なのだろう。
ヨダアンが出て行き、ふたりになると、今朝の記憶が一気に蘇ってきた。
並んで歩くいつもの距離にさえ、ターシャは心臓がバクバクで、少し距離を取る。
結局、その夜は気まずくて顔を合わせることができなかった。
夜が更けてからも、隣の部屋の物音に敏感になり、なかなか寝付けない。
ターシャがやっと眠りについたのは、もう随分と経ってから……朝が近づいていた時間だった。
前の日の寝不足がたたってか、ターシャが目を覚ましたのは、ヴァンスがミルクを売るカウベルの音でだった。
随分と寝坊をしてしまった。
慌てて起き、キッチンに声をかける。
「ごめん、グリード。寝坊しちゃった。今日は朝ごはん食べる時間ない――」
手早く着替えを済ませてキッチンに入ると、そこには誰もいない。
慌てて裏口を開けるも、もはやグリードの気配はなかった。
(……行っちゃった……)
トボトボとキッチンに戻ると、テーブルの上には、きちんとターシャひとり分の朝食が用意されている。
キッチンの片隅には、グリードが作り置きした料理が並んでいた。ご丁寧に、それらが何で、いつまでに食べるようにと書かれたメモも置かれていた。
作り置きの料理は、買い込んでいた食材の殆どを使っており、グリードが自分とヨダアン用には弁当もなにも用意して行かなかったことが分かる。
どうして、こんな大事な日に限って寝坊なんてしてしまったんだろう。こんなにも早く出て行くのなら、森に帰るまでに必要なお金も渡しておくべきだった。
グリードは、来た時と同様、なにも持たずに出て行ってしまった。
別れがこんなにもあっさりしたものになるなんて、ターシャは思ってもみなかった。
なんの言葉もかけていない。元気で、とも。ありがとう、とも。
力なくイスに座り込むと、用意されていたパンにかぶりつく。
「……おいしい……」
こんな時でも、グリードの作った料理はとても美味しい。だが、飲み込もうとしても、喉につかえてうまく飲み込めない。ターシャの目からはどんどん涙が溢れて、息が苦しくなってしまった。
自分で決めたことなのに、こんなにも苦しい。
でも、自分の感情を優先して引き留めても、いずれ苦しくなるのは分かっていた。
森を出てからも、グリードの中で森の存在は大きかった。そこにターシャが入り込む余地など、なかった。
優しい彼のことだ。自分が逃げ出したことで、森が大きく変わることは望まなかっただろう。
これでいい。これでいいのだ。
何度もそう自分に言い聞かせる。でも、感情がそれに追いつかない。
一緒に過ごしたのは、ほんの少しの期間だった。
新月の星空も、結局一度しか一緒に見れなかった。
そんなに短い期間だったにも関わらず、グリードはターシャの心の中にしっかりと住み着いてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます