13.森の危機

 昨夜はそのままグリードの部屋で眠ってしまったが、ターシャが起きた時には、もうベッドにグリードの姿はなかった。

 シーツが冷たいことから、グリードは随分と早く起きたようだった。

 毛布を跳ね上げて飛び起きると、キッチンへと急いだ。そこにもグリードはいない。ターシャが昨晩少しつまんだものの、マズくて残してしまったパンもなくなっている。

 まさか、出て行ったのだろうか?


(まだお別れの言葉も言ってないのに――!!)


 ターシャが外に飛び出すと、鍋を抱えて歩くグリードが戻って来るところだった。

 中にはミルクがたっぷり入っているのだろう。慎重な歩みで近づいてくる。その姿にホッと胸をなで下ろすと、グリードがターシャの存在に気づいた。


「ターシャ。なんだ、その恰好」

「え? わぁっ!」


 足元を見て、やっと裸足だったことに気づいた。

 慌てるターシャを見て、グリードが笑う。


「どうしたの? ミルクなら、ヴァンスがいつも売りに回ってくるじゃない。それを待っていたらいいのに」

「そうだけど、今日はやけに早く目が覚めたから。ターシャのおかげかな」


 ターシャの顔を覗き込むようにそう言うグリードに、ターシャもはにかんだ。その様子にグリードは目を丸くする。そして、顔をくしゃくしゃにして笑った。


「な、なに。なんでそんなに笑うの」

「いや、ターシャが久しぶりに、俺のことちゃんと見てくれたなぁって、嬉しくて!」

「な、なにが久しぶりよ。そんなこと、ないと思うけど……」


 自分にも思い当たるフシがあるため、言葉がとぎれとぎれになる。

 だが、否定されても嬉しいようで、グリードはニコニコ笑っていた。


「嬉しいなぁ~。ターシャが俺のために食事を用意してくれてたし。あれ、めちゃめちゃうまかったよ。ありがとうな」


 改めて言われると、照れてしまう。しかも、料理上手のグリードにしてみれば、あんなものは手抜き意外のなにものでもない。


「なにか口にできたらな、と思ったんだけど、うまく作れなくて……。本当はマズかったでしょ。夜少しつまんだけど、美味しくなかったわ」


 日頃から真面目に料理をしていなかった事が悔やまれる。

 しょんぼりと肩を落とすターシャだったが、なぜかグリードはより一層笑みが深くなった。


「なんでだ。俺はめちゃめちゃ嬉しかった。よし、お礼に今日はターシャが大好きなチーズ入りふわふわオムレツにしよう! あぁ! チーズも買ってくれば良かった! ターシャ、ちょっと待ってろ! もう一度行って来る!」

「え? あ! ちょ、ちょっと!」


 ターシャの返事も待たずに、グリードが家を飛び出した。きっと、ヴァンスの牧場に戻ったのだろう。

 もう、朝からなにやってるんだか……。そう思い、自分もそうだな、と思わず笑みが零れる。

 グリードを森に送り出そうと心に決めた途端、以前のように自然と向き合えるなんて、なんだか皮肉だ。



* * *



「すみません。今日は予約でいっぱいなんです」


 やって来た客に、申し訳なさそうに断りを入れる。

 残念そうに帰って行く客を見えなくなるまで見送ると、ターシャは看板を裏返しにした。


「グリード。中に入って」

「え? いいのか? もうすぐ最初のお客さんが来るんだろ?」

「ううん、来ないわ」

「でも、さっき今日は予約でいっぱいだって言ったじゃないか」

「いいからいいから」


 さっさと店内に入ったターシャは、慣れた手つきで棚から布を取り出し、テーブルに広げる。

 黒く光沢のある布は、ペンダントに映る光景をハッキリ見るためでもあるが、ターシャにとっては、占い師としてのスイッチでもあった。

 小さな皺もきっちり伸ばし、丸いテーブルを整えると、ふぅっと息を吐いた。


「どうぞ、座って。グリード」


 面を上げたターシャは、もう仕事人の顔になっていた。


「俺……?」

「そうよ。今日はグリードを占ってあげる」

「俺、金なんて持ってないけど……」

「新月の星空を、私に教えてくれたお礼よ。だから、今回は特別」


 新月の夜の出来事は、ターシャの宝物だ。

 あの思い出があれば、ひとりになってからも寂しくない。

 新月になったら、必ず星空を見上げよう。

 暗闇の中、ひとりで外に出る勇気はないけれど、部屋の灯りを消して、窓から空を見上げよう。

 遠く離れた同じ空の下で、きっとグリードも星空を見上げている。そう思えば、ひとりでも頑張っていける。


「昨日、グリード話してたじゃない。森のこと、気にしてたでしょ。それを私が占いで視てあげる」

「ターシャ……」


 あの少女の占いで視た光景をそれとなくグリードに伝えるには、また占いの結果として話せばいい。

 そうすることで、少女の相談内容の秘密を守りつつ、グリードの森の現状を伝えることができる。

 我ながら、いい考えだと思えた。


「――いいのか?」

「勿論よ。じゃあ、グリードが森を出てから……今、新しい長と、群れがどうなったか、占うわね」

「頼む」


 いつの間にかグリードの顔も真剣になり、前のめりになってペンダントを覗き込んでいた。


「こ、これに映るのか?」

「そうよ。でも、私しか視えないみたいよ。皆、最初はそうやって覗き込むけど、同じように視えたという人はいなかったわ」


 ターシャが胸に垂れ下がるペンダントを持ち上げてみせる。だが、そのペンダントの中心は、どこからどう見ても、ただの鏡だ。そこに今は、神妙な面持ちのグリードが映っているだけだった。


「なんだか不思議だな」

「そうね。じゃ、占うわよ」


 ペンダントを自分の方に向け、手のひらを押し付ける。そのまま手のひらで撫でると、じんわりと熱を感じた。そのまま、その熱に意識を集中すると、肌に感じる空気が揺らぐのがわかった。

 目を開けたターシャの前にいたのは、白銀の髪色の精悍な男だった。思わず声を出しそうになり、ターシャは慌てて言葉を飲み込んだ。

 この青年には見覚えがあった。

 少女の占いをした時、彼女の祖母を襲った青年だ。

 やはり、あの少女が相談した森は、グリードの故郷だったのだ。

 話のつじつまも合うわけだ。

 グリードは祖父を亡くした日に、森を抜け出した。

 彼は、おさの直系で、次の長になると言われていた。

 だが、今はその長の座をめぐって、森の厳しい掟と、守り人の干渉を嫌がる革新派が騒ぎをおこそうとしていた。

 青年は、大きなテーブルに紙を広げる。そこに書かれた文字まで読み取ることはできない。だが、その紙を覗き込んだ、仲間と思われる男たちの口調から、白銀の髪の青年が革新派のリーダー格だということが分かった。

 “襲撃”“断絶”“罠”――物騒な言葉が飛び交う。

 ゴツゴツとした指が紙の上を滑る。その指が指した場所に、かろうじて“守り人”の文字が見えた。


(どうするのかしら……?)


 息を飲み、青年の行動を見守る。すると、彼は鋭い爪で、“守り人”の文字を裂いた。


「なにが視えた?」


 グリードの言葉に、ターシャがハッと顔を上げる。

 そこには不安げに揺れるグリードの瞳があった。


「新しい長は……まだ決まっていないわ」

「そんな! 俺が出ていけば、自動的に叔父さんになるはずだ」

「――白銀の髪の、逞しい青年が視えた」


 慎重に、言葉を選びながらターシャは視えたことを伝える。すると、グリードが少し顔を緩ませた。


「ボイスルだ。俺の仲間のひとりだった。元気そうか?」

「――彼が……彼が中心となって、自由を求める革新派ができてるわ。それで……別の長を決めようとしているみたい」

「う、嘘だ!」


 グリードが立ち上がり、ペンダントを覗き込む。でも、やはり彼にはなにも視えなかった。


「そんなはずはない! 俺にとって、唯一村に残った旧友だった。俺のこと、冗談で『若長さま』なんて呼ぶ時があって……」

「その、ボイスル? 勿論、彼だけじゃないわ。何人か、いるみたい。でも、大体先頭に立って動いているのが、彼だわ。森の入口のお屋敷を、何度も訪れている」

「……守り人の屋敷! 俺の……俺の森は人狼族にしては少し特殊で、人間社会との距離が近い。それで、昔じっさまが人間と交渉して、境界線を守り続けてきたんだ。その屋敷は、人狼の森の守り人である、人間の屋敷だ。そこを訪れていいのは、長の一族である人狼だけのはずだ」

「でも……彼のやり方は、少し乱暴に見えるわ。――待って。声が聞こえる」


 手を挙げてグリードの言葉を制すると、アリーシャは再びペンダントに意識を集中した。

 場面は変わり、老女の屋敷になった。だが、青年に対峙するのは相談に来た少女だった。彼女は、ふた回りも大きな青年を前にしても、毅然とした態度をとっている。だが、そんな彼女に青年は乱暴に言い放つ。


「――守り人は、いらない。人狼族を、自由にしろ。俺たちで新しい時代をつくる――そう迫っているわ」


 青年の言葉をそのまま口にしたターシャに、グリードは動揺した。


「そんな! 守り人をしているアメリアは、高齢の女性だ。俺たち人狼族に常に心を寄せてきた。森を離れて人間社会で働く若者の支援や、職探しの面倒までしてくれている人だ。俺たちが月の影響を受けることも……。そんなことも全て理解した上で、信頼できる人物と仕事を人狼に紹介してくれていた。彼女は、俺たちのためだけに、生きているといっても過言ではない。そんな彼女を脅すなんて……」

「いいえ。相手は老女ではないわ。――真っ赤なマントを着ている少女よ」

「えっ! 赤ずきんが!?」


 愕然とした様子で口をあんぐりと開けている。


「その、彼女は守り人であるアメリアの孫娘だ。でも、なぜ……? 赤ずきんがどうしてそこに……!」


 あの少女は、赤ずきんと呼ばれているのか……そんなことをぼんやりと考える。

 グリードがあの少女の存在に、それほど衝撃を受けたことに、胸が痛んだ。

 すぅっと息を吸って、呼吸を整える。

 なるべく落ち着いて、しっかりと伝えなければ。

 そこに、ターシャの感情を決して乗せないように。


「その少女が、毅然とした態度で対応しているわ。こう言ってる。『あなたたちを、私は守り人として認めない』――彼女が、アメリアという女性に代わり、応対している。守り人は世代交代をしたようよ」


 グリードは、まるで殴られたかのように衝撃を受けている。

 グリードよりも若い少女が、自分の倍も大きな身体の男と対等に渡り合っている。それを彼は、どう思うだろうか。

 グリードの顔が、苦し気に歪んだ。

 背中を押すなら、今だと思った。


「グリード。人狼の森は今、危機的状況よ。長が亡くなり、大きな柱を失ってしまったかのような状態。そこに、自由を求める革新派が声を上げたのね。守り人制度の廃止も訴えているわ。それにあの少女が、毅然と立ち向かってる。彼女は、自分の祖母も、守り人制度も、人狼族も、森も、全てを守ろうとしているわ。――グリード、あなたはこの森を今後どうしたい?」

「俺は……俺は、森を守りたい。アメリアがいままでしてきたことも、守り人制度も、人狼族も、そして赤ずきんも」


 胸が痛むのを無視して、無理やり微笑む。


「なら、彼女と考えてることが同じね。一緒に、助け合うべきなんじゃないかな」

「……ターシャ。俺はっ――」

「待って。もう少し視てみるわ」


 グリードが呼ぶ自分の名前に、笑顔が崩れて涙が零れそうになり、慌てて俯く。

 再び手のひらをペンダントに当てて、ゆっくりと撫でた。

 じんわりと熱を感じて手を離す。

 ターシャの視線の先には、森を背景に立つグリードがいた。

 彼は何かを探している。

 きょろきょろと辺りを見渡すと、ある一点を見て、笑顔が弾ける。

 嬉しそうに駆け出したグリードが向かったのは、赤ずきんのところだった。

 グリードが赤ずきんの肩に手を置き、笑いかける。

 ターシャは、目を背けたくなるのを必死で堪えた。

 景色が歪み、場面が変わると、一族の面々だろう。老いも若きも男も女も、皆が着飾って集まっている。その中心には、グリードがいた。

 伸びた髪はそのままにしていたのか、ターシャの知っている姿よりも長く、後ろで結んでいる。緊張しているのが、その背中からも分かる。

 集団の中からグリードが進み出る。

 後ろから赤ずきんが近づき、彼の腕を取って、寄り添った。


(これは――結婚式だ……!)


 赤ずきんの願いは叶うのだ。

 堪らず視線を逸らしたターシャは、ひとりの視線に気がついた。

 一族の皆がグリードと赤ずきんを見守る中、ひとりの老女だけがターシャをじっと見ていた。

 意識だけを飛ばしているため、ターシャの姿は見えないはずだ。

 これまでも、勘のいい人間がターシャの気配を感じることはあったが、存在に気がついた者はいなかった。だが、その老女は明らかにターシャを見ていた。


(……どういうこと?)


 『おぬし……術者か』


 皺枯れた声が頭に直接響き、驚いたターシャはペンダントから意識を剥がした。

 今のは一体……?


「なにが視えた? 赤ずきんはどうなる?」

「え? あ、ああ……。大丈夫よ。グリード、あなたが森に戻ることで、事態は好転するみたい。赤ずきんの苦労も報われるわ」


 グリードは、もの言いたげにターシャを見つめる。けれど、ぎゅっと唇を引き結び、それ以上は言葉にはしなかった。


「はい。終わりよ」

「終わりじゃない」


 ターシャの言葉をすぐに打ち消したグリードに、静かに首を振る。

 終わりだよ……。

 楽しかった日々は、終わりだ。

 彼は、赤ずきんを見捨てることはできない。

 あの時、新月の帰り道、“愛情”という言葉の真意を問わなかったことは、正解だったかもしれない。

 あの時詳しく聞いていたら……グリードとターシャの関係が変わっていたら……。そうしたらきっと、こうして笑顔で見送ることはできなかっただろう。

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