3.交渉成立?
結局、ターシャはミルクを多めに買ってしまった。
家に戻ってみて、もしもまだグリードがいたら、彼の目の前で自分だけ飲むというのはどうも嫌な感じがする。それだけなのだ。決して、心からグリードのため、というわけではない。むしろ、その間に出て行ってくれていたらいい、なんてことを考えていた。だが、ミルクパンいっぱいにミルクを買って帰ると、それを見たグリードが嬉しそうに笑った。しかも、どうやって見つけ出したのか、パンを焼き、大きなオムレツまで作っているではないか。
「えっ。……料理、できるの?」
「こんなの、料理のうちに入らないだろ。さ、食おうぜ」
「う、うん」
促され、ターシャは素直にテーブルについた。
ミルクだけのはずが、こうして料理を目の前に用意されると、急に空腹を感じたのだ。
気づかないうちに、なぜかグリードのペースになっている。
こんなしっかりした朝食は、ルーシアが生きていた頃以来だ。
なんだか懐かしくて、ターシャは大きな口を開けてパンに齧り付いた。
表面がカリッと焼けたパンは、バターが染みてとても美味しい。少し甘味を感じるのはなんだろう。
「甘い……」
「戸棚にあった蜂蜜をちょいと拝借した。軽く焼き目をつけてからひと垂らし。美味いだろ?」
「ふ、ふ~ん。まぁまぁ、ね」
自慢げに言われたのがなんだか悔しくて、適当に流すと、今度はオムレツにフォークを入れた。
「んっ?」
ふんわりと柔らかいオムレツは、簡単にフォークで切れた。しかも、中から小さく刻んだニンジンとジャガイモ、そして玉ねぎが、とろりととろけたチーズと共に現れた。
濃厚なチーズの香りが鼻をくすぐると、ターシャは我慢できずに、ほわほわの湯気が出ているそれを、口いっぱいに頬張った。
「豪快だな」
ターシャの食べっぷりに、グリードが嬉しそうに笑った。
「ほいひい!」
「なんだって?」
意味不明な言葉を叫んだあと、聞き返したグリードの言葉が耳に入っていないのか、ターシャは一心不乱に手と口を動かした。
パンとオムレツを綺麗に平らげ、ミルクをゴクゴクと飲み干すと、ターシャはふぅ、と満足げにため息をつき、カップを置いた。
ハッと我に返った時にはもう遅い。
頬杖をつき、ニコニコと微笑みを浮かべながらターシャを見ているグリードと目が合ってしまったのだ。
「……まぁ、うん。そこそこ食べれるわ」
「ふ~ん? それにしては、かなりがっついてたな」
「そ、そんなこと……」
「ま、いいけど。ほっぺにパンくずついてるぞ」
ニヤリと笑って指摘するグリードに、ターシャは顔を赤くし、慌ててパンくずを払った。
「ところでさ、ターシャは、ここに住んでんのか?」
「そうよ」
「ひとりで?」
「そう。私ひとりよ」
当然のように話す姿に、グリードが目を丸くした。
グリードが思わず寝癖の残るアリーシャの頭を撫でると、まるで子供にするようなその行動に、ターシャは頬を膨らませた。
「本当にひとりで? まだ子供なのに?」
「失礼ね! もう立派に働いてるわ!」
「働いてる?」
「そうよ。この先の商店街を抜けた森の入口で、占い屋をやっているの」
「占い――。ふぅん」
からかうように細められていたグリードの目が、まるでターシャの腕を疑っているように見えた。
そんな彼の表情に、自分の言葉を信じていないのだと思い込んだターシャは、なおも言葉を重ねる。
「本当よ! 結構当たるって評判なのよ? 国境を越えて来るお客だっているんだから」
「この家見てると、そうは思えねーけど?」
相変わらずニヤニヤと笑っているグリードに、ターシャもムキになって返した。
「本当だってば! 仕事が忙しくて、家のことまで手が回らないの!」
ターシャは寝室に行くと、ベッドの下から古ぼけた箱を持ってきて、グリードに突き出した。
「ほら! これだけちゃんと稼いでいるんだから!」
箱は、蓋が締まりきらないほどに、札が入っている。それはかなりの量だった。だが、グリードは感心するどころか、ターシャを叱りつけた。
「おまえ、馬鹿か! 証明したいからといって、普通金を見せるか? 無防備すぎるだろう!」
「ちゃ、ちゃんと仕舞うわよ!」
勢い余って売上金を見せたものの、グリードの言う通りだ。
ターシャは失態に顔を赤らめながらなんとか蓋を閉めると、急いで寝室に戻り、またベッドの下に押し込んだ。
グリードの感覚では、これで「仕舞った」とは言わないのだが、ターシャとしては問題ないらしい。
売上金のありかを教えたようなものなのに、蓋をして札が見えなくなれば、仕舞ったということのようだ。
グリードは少し考える素振りを見せると、勢いよく顔をあげ、にっこりと満面の笑みでターシャを見た。その笑顔に、嫌な予感がして、ターシャが身構える。
「……な、なによ」
「俺がここに住み込みで、用心棒をしてやる」
「はぁ?」
この男は一体、突然なにを言い出すのだろう。
ターシャは頭の中に沢山のクエスチョンマークを浮かべた。
「おまえ、危なっかしい。弱ってたからって男を家の中に入れるし、稼ぎを見せるし、さすがにちょっと、無防備すぎる」
「あ、あんたが勝手に家の前に倒れてたんでしょうが! それに、私が家に入れたのは狼であって、人間じゃないわよ!」
「俺は人間じゃない。人狼だ。じゃ、契約成立な」
グリードはそう言うと、ターシャの手を取って、強引に握手した。
「な、なんでよ!」
ターシャは手を払おうとするが、逆にぶんぶんと力強く振られてしまい、立っているのがやっとだった。
なぜだ。
種族が違えば、こうも会話が成り立たないものなのだろうか。
なぜこのやりとりで、契約が成立したことになるというのだ。
やっと手を払い、反論しようとしたが、グリードは早速部屋の物色を始めていた。ブツブツとあーでもないこーでもないと、独り言を呟いている。
「ちょ、ちょっと! ねえ、聞いてる!?」
「まずは掃除だな~。ったく、まさかここが人の住まいとはな」
物が散乱した部屋を見て、小さく呟いたグリードだったが、ただでさえ狭い部屋だ。当然、ターシャの耳にもそれは届いていた。
ターシャが慌てて反論する。大体、好意で入れてやったものを、人の住まいとは思えないなどと、失礼にも程があるというものだ。
「な、なによ! 仕事で忙しすぎて、後回しになってるだけで、普段はもう少しマシよ」
「ふぅん?」
「ほ、本当だったら!」
「へぇ~?」
夜に観察した通り、埃まみれで白くなってしまった物や大きな蜘蛛の巣といった物はない。だが、朝日を浴びると、そこかしこに、置かれて随分経つと思われる物はあった。
疑わし気に返事をし、床の隅に落ちた物を拾い集める。するとすぐに細かな埃が舞い上がり、朝日に照らされた。
「そ、そこは……たまたま、掃除が行き届いてないだけ! 大体ね、使わないから隅に置いてるのよ。そう、置いてるの。だから、多少は埃が溜まっても仕方ないと思うわ。特に困っていないし、この通り狭くてしまう場所も限られているんだもの。用心棒も手伝いも必要ないったら」
「そう頭ごなしに断ろうとしなくても、条件はいいと思うけど? 俺は掃除も料理も得意だ。だが、ここでの住まいと仕事を持っていない。おまえは、家も仕事もあるけど、私生活は破たんしている」
「破たんって……! そんな風に言われる程じゃ――え? ま、待って。掃除? 料理も――得意なの?」
掃除……いや、仕事以外のことには基本的に興味のないターシャには、その言葉は魅力的だった。だが、自慢気にアピールすると思われたグリードは、視線を逸らしてぶっきらぼうに応えた。
「――まあ。俺、両親いなくて、ばーさまや一族のおばさんたちに育てられたから、自然とできるようになっただけだ。……なんだ、その目は。男らしくないってのは、分かってる」
「そういう意味じゃなくて。私、全般が苦手だから」
「だろうな。見ればわかる」
「う、うるさいわね」
ターシャ自身は人狼と会うのは初めてだが、隣の国には人狼族が住む森があると、ルーシアから聞いたことがある。
中には、人間社会に溶け込んでいる者もいるが、それも一部の人狼で、大抵はその人狼の森に棲んでいると聞いていた。
一族――と、いうことは、彼は人間社会で生きてきた人狼ではなさそうだ。となると、人狼の森からやってきたことになる。
人狼の森は、人間が介入できない場所のはずだ。それなのに、どうしてこんなにボロボロな姿で森を抜け出し、国境を越えてきたのだろう。
元気を取り戻したとはいえ、昨晩は力尽きるように倒れたのだ。
自分自身も拾われた身として、ターシャは弱った狼を放っておけなかった。まさか、拾った狼が人狼だとは思わなかったが、人狼と知ったからといって追い出すのも気が咎める。元気になったように見える今も、まだ顔色は悪いし、頬がやつれていた。身に着けている服もボロボロで、サイズが合っていない。服は元々彼の物だろうから、それだけ旅の道中が厳しかったということなのだろう。
(それに――)
ターシャは思わずゴクリと喉を鳴らした。
先ほど食べ終えたばかりの、ふわとろのオムレツを思い出していたのだ。
あれは猛烈に美味しかった。
あんなに美味しい卵料理を食べたのは、ルーシアが生きていた頃以来だ。
その味を知ってしまった後では、確かに彼の料理の腕は惜しい。
(それにそれに――)
先ほど、片付けようとして失敗し、ますます物が散乱した室内を見る。
自分で片付けなくていいというのは、魅力的な提案だった。
(でもでも、相手はよく知らない男の人よ? しかも人狼……あぁ~、人狼だから、道中大変だったのかしら……。このまま追い出す? 行くところなさそうだし……。掃除に料理……人助けにもなるし……ていうか、人狼助け?)
ああでもない、こうでもないと頭の中で問答し、いくつかの理由を自分に言い聞かせ、ターシャがとうとう頷く。
「いいわ、分かった。契約成立よ」
ターシャがそう言うと、グリードはホッとしたように小さく微笑んだ。
* * *
「ここ、本当に使ってもいいのか?」
しばらく使っていない部屋は、少し埃臭い。
窓を開け、新鮮な空気を入れると、止まっていた部屋の時間が動き出した気がした。
「いいわ。ここ、亡くなった
住まわせることに少し抵抗はあったものの、こんな機会でもなければこの部屋を使う勇気は出なかっただろう。
ここを見ると、どうしてもルーシアの最期を思い出してしまう。
血の繋がらないターシャを自分の子供のように可愛がり、お金の計算や読み書きも教えてくれたルーシアは、ターシャにとって全てだった。
そのルーシアが最期、ターシャに言った言葉がある。
『ターシャ。あなたの人生は長いわ。だから、悲しまないで、笑顔で明るく、前向きに生きるのよ』
ルーシアを失うということは、ターシャにとっては全てを失うことだった。
悲しむななどと、そんなことは無理な話だった。だから、ルーシアの言葉は頭にはこびりついていたが、なかなか実行できない言葉でもあった。
今、ターシャは自立しているように見えて、ルーシアが残した軌跡を、ただなぞっているだけだ。
仕立て屋だった店が、ターシャの唯一の特技である占い屋に姿を変えただけで、それ以外はなにも変わらない。
生活も、歩く道も、近所付き合いも。
ターシャは、ルーシアが遺した『前向きに生きる』ということが、よくわからなかった。
久しぶりに空気が動いたルーシアの部屋に、会ったばかりのグリードが立っている。その光景はとても不思議だが、なぜか嫌ではなかった。
「ターシャは、他に肉親はいないのか?」
「いないわ。
こんな話をしても、不思議と涙はでない。
実の親がどんな人か、生まれ故郷がどんなところなのか、そんなことを考えることはあまりなかった。
それほどに、ターシャにとってはルーシアが与えてくれる物が全てだったし、ターシャに“生”を与えてくれた人だったのだ。
「――そっか。俺も両親はいない。物心ついた頃に、じっさまに引き取られた。周りには叔父さんもいたけど、俺はその時まだ小さくて身体も弱くて、ふたりと行動を共にすることはできなかった。だから、殆どばーさまに育てられたようなもんだ。おかげで掃除や料理が上手くなったけどな。それで同族の男たちに、女々しいなんてからかわれたりもして」
女々しい人狼だなんて、なんだか可笑しい。
ターシャはつい噴き出した。
こんな風に、この部屋で笑えるなんて、考えられなかった。
(ルーシアの願い通り、少しは前向きになれたのかな)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
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