平坦な戦場でぼくらが生き延びること
@wakefield
アウトロダクション
夏、夏、夏、夏、夏の光。
地上に並べられた建物のすべてが、真っ白い稜線に帰するような夏。
あなたにはみえるだろうか?
虹彩の限界を超える逆光に照りつけられた住宅街が、幾らかの頂点と辺とで構成された平面な影に変わる。大地から垂直に延びていく電柱のシルエットを追えば、ほら。頭上では家と家とを結びつける架空線が幾重にも絡んでいる。
山を切り崩して作られた街の脇は勾配の強い崖になっていて、そこから遠景に密集したビル群とその向こうの海とを見下ろすことができる。ふと景色がゆらいで砂絵に息を吹いたように崩れるから、いま街は息苦しいほどの熱気のなかにあるのだとわかる。
街の輪郭が陽炎のなかに溶け出していく夏。
七月の終わり。
物語のはじまりにしばしばあるように、過去十数年来最大の熱波が東日本を襲っている。
街のうえにかかる空は快晴で、ここ数日のあいだ、雲のかけらすらみえない。熱中症による死者は例年の4倍を超え、人々は冷房の効いた屋内に逃げ込んでなおも扇ぐものを探している。街には人一人、野良猫一匹、鳥一羽の姿すらもない。鳥瞰できるすべての室外機が轟音をあげて羽をまわし、熱交換によって分離した室内の熱気を吐き出している。真新しい、玄々とした道路に沿って視線を動かせば、いくらかの日本家屋の屋根瓦がまばゆい青のビニルシートで補修されているのがわかる。
緩い傾斜のついた並木坂。架空線の落とす影を追っていくと、疲れ果てた様子の青年がよたよたと歩みを進めているのがみえる。
微かに青年の瞼が開く。汗の玉が目尻を離れ、顎へと伝い落ちる。カッターシャツの捲られた袖から露わになった、生白い腕が雫を拭いとる。淡い薔薇色に上気した頬の上を、緑色をした影が流れていく。並木の葉の影だ。
シャツの生地には深い皺が刻まれていて、ところどころが泥土で汚されているし、風のない、むしむしした日のことだからその脇の下や、胸元、遠く山並みを見渡したときのように霞んだ青のジーンズの股ぐらは、いつまでたっても気化しない汗に濡れそぼっている。
はてしなくはてしなく歩いてきたようだった。息は犬のようにあえぎ、乾いた舌で何度も
熱を肺腑から追い出すように大きく息を吐く。耐えきれず、もっと深く吸う。熱い熱い、自身の呼気を吸う羽目になり、青年は
――どこの国の神話だったろう。こんな坂の向こうに、死者の国があったのは
長く垂れた睫毛越しに坂道の先を見通す。一直線に続く道はずっとずっと、無限にも思われる距離を延びていて、その先端で空へと触れている。
――こんな夏のなかに居たことがある
青年は幼少期の数年をこの街で過ごしていた。受胎してから、両親が離婚するまでの数年間を。
ちょうどこんな、ありふれた路上での出来事だった。
幼い彼の、幼い母親は、配偶者とその私物を乗せた車両に手を振るよう指示した。
「もう会えないから、お別れを言いなさい。」
彼はまだほんのちいさなこどもだったが、この台詞には聞き覚えがあった。早熟で利発な彼はたくさんの児童小説と極彩色のテレビ・アニメのなかで、他の、無数の、虚構の人生を生きたことがあった。
彼は直感した。
父は死んでしまったのだ。
この坂道を越えた先に死者の国があって、父はそこに向かって旅立つのだ。
たった独りで。
いくらかの家財と数え切れないほどの書物を持って。
七月の陽光に熱された、黒塗りのBMWに乗って。
夏、夏、夏、夏の光に照り焦がされた坂道を、昇っていく一台の車。
異界へと続く、夏の坂道を。
***
父親は彼になにもかもを教示した。大切なことだと云って。神学、神智学、ソクラテスからウィトゲンシュタインに至るまでの西欧哲学、
およそ生きる上で役に立たない物事について知り尽くした人だった。働かず、家事をせず、ただ家にいて、本や星々や神様の話ばかりしていた。
青年は崇拝していた。父親をではなく、父親の崇拝する対象を。まだ名前も知らないすがたもみえないなにか。彼はそのなにかが父親の生を価値付けていて、いっけん無為な、突拍子もない、理解を超えた行動に駆り立てているのだと考えた。自分も父の崇拝する対象を崇拝したいと願い、そのために父のすべてを解したいと祈った。
通じたのか、あるとき父親は彼にこんな話をした。ちょうど、いまの君くらいの年まで俺は、暗い部屋のなかにいたんだ。窓のない、ゴムマットで床の隅々までが覆われた部屋。ドアはあったが、俺はその使い方を知らなかった。ドアの下の隙間から定期的に食事が出てくるからそれを食べたし、糞尿はそのへんに垂れ流していた。俺が眠っているときにだけ、おおきな黒い影がやってきて、からだを濡れた布で拭いたり世話をした。一度も出なかった。部屋の外には。何年ものあいだ。俺が部屋に監禁されていたのだと気づいたのは、最初に部屋を出てから十年も経ってからのことだった。その日まで、俺は生まれたときからじいちゃんとばあちゃんに育てられたものだと信じていた。でもちがったんだ。父親は、ことばと隔絶して育ったこどもがどんな言語を話すのか研究していたんだ。きみは賢いから知っているだろう? いまから何千年ものむかし、神様は高い高い塔を建てて自分に抗おうとする人間たちへ怒りを向けた。塔を倒して、建設者たちのことばを永遠に変えてしまった。そのときまで、人間はかみさまとおなじことばを話していたのに。ことばはこの世のものをほんとうに名指していたのに。俺がいま、間違ったことばできみに話しているように、ことばは堕落した。偽物になったんだ。まったく意味をなさなくなった。かたちばかりで、中身を失ってしまった。現実のなにがしと通じる架け橋を。ものの名前と、もの自体に、関連がなくなってしまった。でも、父親はこう考えていた。ことばにいちども触れずに育った子供がなにか話すなら、それは、神様の話すのとおなじことばだと。
このおはなしはこんなふうに終わる。ある日突然ドアが開かれていて、子供の喚き声が隣家まで届いた。不審に思った隣人が警察を呼ぶ。警官は鍵のかけられていない玄関から家に入り、だれもいない、最小限の家具だけが置かれた屋内を見渡す。冷えた飲みかけの緑茶と、子供の観察記録がつけられた手記を発見する。泣き声を辿って、地下室へ降りていく。そこに子供がいる。裸で。四つん這いで。背骨の浮いたからだで、走り回っている。部屋から出ようとせず、警察官の話すことばを、解せぬままに。無数の集音器が仕掛けられた、冷たい部屋で。警官は察することになる。監禁者は突然子供のもとを去った。荷物も持たずに。なにもかもを遺して。なぜかはわからない。そういうことになってる。そうして父親は押し黙る。自分がひとつの物語を語り終えたことも忘れたように。彼は訊ねる。自身の父親の語るストーリーに心を躍らせて。この物語は、世界の秘密の尾っぽにちがいない。漂う異界の論理の匂いが、そう云っている。僕は気付いた。友人もみな気づいている。世界はいま目に見えている部分だけではないのだ。不可視の、魔法と驚異に隠された賜物があって、大人たちはそれを隠している。だが、日常のうちに異界の暗喩を見つけ、ただしいやりかたで秘密の謎掛けに答えれば――届くのだ。そこに手が。
――どうして。なんで『父親』は父さんを置いて出ていったの?
彼は簡単に思い至る。
彼は利発で、早熟だ。無数の児童小説とテレビ・アニメがそうさせた。
――研究の結果が出たんだ。お父さんがはじめのことばを言った。そうでしょう?
父親は彼の、市営プールの塩素に焼けて茶色くくすんだ髪をくしゃくしゃに撫で回す。
耳元に口を寄せ、神秘的で異界の危険に満ちた秘密の呪文を囁く。
生きるすべをなにひとつ知らぬまま生き延びてきたひとだった。
生活と収入とを母に依存し、他所の女と恋仲になって、母と毎日喧嘩をして、七月のある晴れた午後に街を去っていった。いつも本や星や神様の話をして、現実の世界をみることのできなかった父親。むかしむかし、どこか彼方の地下室で、かみさまのことばを話した、平凡な男。
たったひとつの愛さえ遂げることができない。
***
青年は歩み続ける。四方四万キロに渡って続く青淵の下を。
溢れんばかりの陽光に熱された、アスファルトを踏みしめて。
青年は考える。
――ここがもし、死者の国へ続く坂道の途中であるならば
青年は考える。
――振り向けば、この場所から帰れなくなるはずだ
青年は考える。
――振り向けば、永遠に取り残されるはずだ
蹴飛ばした。青年は立ち止まり、目線を下に落とす。足元のものに手を差し伸べ、持ち上げる。
頭部だ。
人の。
おそらくは、彼の知己の。
――しかし
姿を隠した演者によって歌い上げられる、けたたましい蝉声の降りしきる。さなか、青年は考えあぐねる。
――いま俺が背にしているのは、現実の街であるはずなのだ
青年はそのままずっと立ち尽くしている。首筋を太陽の熱で焦がされながら。
地上よりすこしだけ高くにある街並みの、
異界へと続く夏の坂道の、
彼岸と此岸の2点を端点とする線分の、
中途にて。
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