愛しき名前~ある特定失踪者少女の半生

高麗楼*鶏林書笈

第1話 37号の女⑴

 その建物は大韓民国ソウル市――といっても中心部からかなり離れた場所にあった。“国家安全院別館”。ここの地下倉庫に彼女に関する資料が保管されている――。


*   *   *   *


 新学期を迎え、駅はごった返ししていた。近辺に学校が三校もあるせいで、通りは学生だらけだった。そうしたなか、同じ制服を着たグループの脇を一人の女性が通り過ぎた。

「ヒャンちゃん?」

髪を後ろで一つに束ね、さっそうと歩く後姿にグループの女子高生の一人が呼びかけながら後を追った。残りの男女学生たちも続いた。

 行く手を遮るように現われた高校生たちに女性は微笑みながら問いかけた。

「何か……?」

 知性的な、いかにも仕事の出来そうな女性だった。

「……ごめんなさい、人違いでした。」

 女子高生はばつの悪そうに頭を下げる。

「どういたしまして。」

 女性は優しげな口調で応え、歩みを進めた。

 高校生グループは、少しの間、その後姿を見送った。


〝ヒャンちゃん〟こと朴水香〈パクスヒャン〉は、昨年の一時期この高校生たちのクラスメートだった。

二学期の始まりと共に転校して来た水香は、父親が韓国人、母親が日本人のハーフで、昨今のK‐Popアイドルのようにすらりとした足のスタイルの良い、ロングヘアーが似合う美少女だった。

 商社マンの父親の仕事の関係で日本に来たという彼女は、母親の生まれた日本について関心がとても深く、出来れば日本の学校で高校生活を送ることを希望していた。父親が日本勤務になったのを機に、かねてからの望みだった日本の高校入学を果たしたのだった。

 そうした経緯もあり、また日本語が堪能で明るく気さくな性格の彼女は、すぐにクラスに溶け込んだ。

 勉強も良くでき、体育や芸術関係の科目も良い方だったので、二学期の中間試験では上位の成績を得ていた。こうしたことを鼻にかけることも無く、何事にも積極的に取り組む彼女はクラスの人気者になった。

 “韓流”もあって韓国に関心を持つ生徒は水香に、韓国スターやドラマ、その他様々なことを水香に訊ねた。彼女は、そうしたことに一つ一つ丁寧に答えた。

 ある日、彼女は、クラスメートたちがこれほど韓国に関心を持っているのならば、韓国文化クラブを作って皆で学びあってはいいのではないかと担任の先生に提案した。先生は賛成し、自身が顧問を引き受けてくれた。こうして友人たちとともに水香は韓国文化クラブを作り活動を始めた。

 韓国舞踊や伝統楽器の演奏も出来る彼女は、自分の楽器を持ち込んで韓国民謡をクラブのメンバーに教えた。K-Popsとは異なる旋律の民謡に生徒たちは珍しさを感じながら親しんでいった。

 秋も深まり、中高生たちにとっては体育祭、文化祭の季節になった。

 水香の学校でももちろん文化祭が開催され、彼女が属している韓国文化クラブでも何かしようということになった。いろいろ話し合った末、韓国民謡と舞踊を披露することになった。水香が舞い、他のメンバーが伴奏と歌を披露するというものだ。この時、水香は意外な提案をした。

 彼女たちの学校の近くに在日コリアンの民族学校の高等部があるのだが、彼女は、この学校の民族舞踊部との合同で文化祭に参加したいというのである。顧問の先生を含め、この学校のにはリベラルの考え方をする人が多かった。民族学校との交流も以前から考えていたのだが、なかなか果たせないでいた。

そのような状況だったので、水香の提案はよい切掛けとなったようだ。学校側はすぐに民族学校に掛け合ってくれた。先方も同様に考えていたようで、この案はすぐに実現した。

 公演の練習は、水香たちの学校で行なわれた。放課後にやって来た民族学校の生徒たちは最初は緊張してぎこちなかったが、同じ高校生同士だということですぐに打ち解け仲良くなった。

 出し物の具体的な内容は、両校の生徒が話し合った結果、水香がメインとなり、民族学校の生徒たちは彼女の周りで舞うというスタイルの舞踊にした。伴奏も生演奏にすることになり、水香の学校の吹奏楽部と民族学校の民族音楽部が合同で行なうことにした。こうして両校初の合同公演が実現することになったのである。

 民族舞踊なので伴奏も韓国の民謡になるのだが、民族楽器と西洋楽器の合奏は予想以上によいものとなった。両校の生徒ともこの公演は絶対成功すると確信した。

 文化祭当日となった。入場の制限がないため、様々な人々がやって来た。民族学校の生徒や先生、保護者たちも観覧のために訪れた。

 舞台公演は体育館で行なわれた。韓国文化クラブの出し物は前評判も高く、出演時間になると多くの人々が体育館に押し寄せた。

 幕が上がると、伽耶琴や長鼓等の民族楽器とピアノやクラリネット等の洋楽器で演奏された韓国の民謡が流れた。舞台中央には白い韓服を身に纏った水香が優雅に舞い、その周囲を民族学校舞踊部の生徒が取り巻いていた。客席はその美しさに見入っていた。そうしたなか、自身も民族舞踊をしている年配の在日女性は内心で動揺していた。

―あれは昔の共和国の…。

 かつての北で最高峰と評されていた女性舞踊家の作品を彷彿させたのである。政変に巻き込まれて粛清された彼女の舞踊は現在の北では封印されている。北の舞踊家の作品を韓国で上演されることはなく、在日社会でも忘れられている。韓国人の高校生が何故…。

 彼女は一瞬、恐ろしい想像をしたがすぐに否定した。

―女子高生が北の工作員であるはずはない…。


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