月の光
バスを降りると港の潮の香りが、ぬるい風に乗って香ってきた。
「海だあ!!!」
子供のようにはしゃいでいる彼女は本当に嬉しそうにしていた。
僕も初めて見た海に感動していた。
夏の強い日差しが海の波に反射してキラキラと輝いている。
風でなびいた雨音の髪から何か懐かしい香りが漂っていた。
尾道の景色を見ながら歩いて旅館を目指した。民家の瓦屋根や異常に多い坂道、そして石垣や石畳の階段。
町から漂う雰囲気はとても心地いいものだった。
そして何よりも猫が多いことが気になった。
人懐っこい猫ばかりだったが、雨音に猫が近づくことはなかった。
旅館に着くと女将さんが出迎えてくれた。
「『いらっしゃいませ』」
こんなに心地いい挨拶を聞いたのは初めてだった。本心から歓迎してくれているのが伝わってきた。
僕は何度も頭を下げ、部屋に案内してもらった。
それから、それぞれの部屋に荷物を置いて、早速尾道観光へ出かけた。
「ちょっと部屋狭かったね!」
確かに他の旅館と比べたら狭い方だった。大体六畳の和室に、壁につけておかれたテーブル。
窓際には広縁があり、窓からはすぐそこに海が見え、絶景だった。
「1人なら十分の広さだよ。それに景色は良かったし」
振り向くと雨音は釣り人と仲良くなっていた。自由すぎる…。
そのあと、海の見える古民家カフェで軽い昼食を取ったあと、ネットで見たロープウェイを目指した。
雨音は景色を見つめるばかりで、今日はやけに静かだった。
ロープウェイから見下ろした尾道の町は、僕の知る言葉をいくら並べても足りないほど、美しい景色だった。
それを見た雨音は「綺麗」と静かに呟いた。
千光寺公園の売店で雨音が訳の分からないキーホルダーを見つめていた。
恐竜?サイ?緑の謎のキーホルダーを雨音が瀬戸内みかんソフトクリームを食べている間に1つ買い、ポケットに入れた。
文学のこみちや稲荷神社、美術館に寄った後
鐘がなった。尾道では6時になると鐘の音で知らせてくれる。
その鐘を聞いた後、千光寺公園にある展望台へ行き夕日を見た。
雲の間から金色に輝く光が海を照らし、町を照らし、いつまでもこの時間が続いていけばいい。そう思った。
素泊まりだった僕らは帰りに尾道ラーメンを食べることになった。
その時は、なんとも思わなかった。
だが、店に入ったラーメンが出てくると僕は凄まじい後悔に襲われた。ああ…。
「ズルゥゥウ!!!ズルゥゥ!ウンメェ!」
だと思った。恥ずかしさでラーメンの味は
記憶から飛んでいた。
旅館に戻り、僕はゆっくりと大浴場に浸かっていた。風呂から上がり、部屋の広縁でコーヒー牛乳を片手に熱を冷ましていると、浴衣を着て、髪をまとめた雨音が入ってきた。
いつもと違う凛とした雰囲気だった。
そして初めて見た髪型に僕は見惚れていた。
ふと顔を見ると高速ウインクをしていた。
そして僕らはいつもと変わらず話していた。
と言っても僕は突っ込んでばかりだったけど…。
「その袋何?」
彼女が指差したのは売店で買った訳のわからないキーホルダーだった。
「ああ。はい、プレゼント」
袋を開けて中を見た雨音は少し悲しげで深い笑みを浮かべた。
「『嬉しい…』」
それから雨音は黙り込んでいた。しばらくするといつもの雨音に戻っていた。
「これ、ありがとね!じゃ私寝るね!また明日ね」
そのまま雨音は自分の部屋に帰っていった。
僕はもやもやした心のまま部屋を片付けていた。すると座布団の下に雨音の携帯があることに気づいた。ボロボロのガラケー。
僕は携帯を持って雨音の部屋へ行った。
ノックをしてもなかなか出てこない。
鍵は空いていた。
そのまま中に入ると電気は消えていて、窓から差し込む青白い月明かりだけが部屋を照らしていた。
雨音は窓際の広縁で1人泣いていた。
「雨音?」
「音無くん…。ごめんね、なんでもないの。なんでもないから」
僕を見つめる彼女の目からは、月の色を綺麗に映し出した涙の雫が、絶え間無く溢れ出していた。
「僕にも話せないことなの」
「君だから話せないの。話したら君と今まで過ごしてきた時間が壊れそうで…怖いの」
僕はこういう時どう話したらいいのかわからなかった。
僕は施設で過ごした時間が長すぎた。
不器用なんだ。
だから本心から伝えるしかない。
そう思った。
「そんな簡単に壊れないよ。だって僕は、
雨音のことを好きだから」
雨音はさらに体を震わせ泣き出した。
「だめだよ音無くん。私、音無くんに近づけば近づくほど、辛くなるの。辛くて辛くて仕方ないの」
「なんで…。なんで辛くなるんだよ。」
「それは、いつか私、音無くんを傷つけてしまうから。迷惑をかけてしまう。ダメなんだよ。私は君の側にいたらいけないの」
僕は唖然としていた。まだ雨音の言葉の意味を理解できていないまま雨音は話し続けた。
「私、君に嘘をついてたの。この心も全部嘘なの、作り物なの」
「何言ってんだよ。雨音は雨音だろ。ここにしかいない僕の大切な人なんだよ」
「私、じゃないの。雨音は私じゃない」
雨音は呼吸を整えて呟いた。
「私は、被験体0番なの」
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