第六章 残欠の災禍

第59話 訪問者

 第六章



     1【有巻 七月二日 18:27】



 今年初めてセミの声を聴いた。まだ遠く弱弱しい声にふと顔を上げる。鉄骨を組み始めた建設現場には、重機がいくつも駆り出されている。セミの声はその駆動音にかき消され、すぐ聴こえなくなってしまった。


 更科さらしな玖玲葉くれはの仲介でオレがここで働き始めて早くも一月ひとつきが経過しようとしていた。だんだんと暑さを増す気候にも負けず、首から下げたタオルで汗を拭う。


「おおい、有巻ありまき。こっちはいいから、先に上がって来ーい。今日はなんか用事あるっつってたろ」


「ありがとございますっ! お先に失礼しまっす!」


 優しい親方に勢いよく頭を下げ退勤処理へと向かう。ちょっと前まで路地裏で泥水すすって、危うく冤罪で前科持ちになりかけたオレにはもったいないくらい良い職場だ。


 先輩達に挨拶してから一度社宅に帰り身支度を整えた。今日はオレにあの職場を紹介してくれた人に近況報告をすることになっているのだ。まだ待ち合わせまで時間があったが、遅れるよりはいいとさっさと外出する。オレのことだ。運悪く事故に巻き込まれて遅刻とかありそう。だから行動は早いほうがいい。


 とりあえず待ち合わせ場所の周辺で時間を潰そう。そういえば近くの古本屋が処分セールをやってたはずだ。間に合うように速足になり、近道のために大通りから脇道に逸れた。


 それがいけなかった。


「…………?」


 日光が遮られ、大通りよりも少しだけ涼しい路地。けどなんか寒すぎる。長年裏組織の下っ端として逃げ回ってたオレの直感が叫ぶ。なんかヤバい。


 これは大気が冷えているんじゃない。オレの血の気が引いてが立ってるんだ。オレの本能が無意識にこの場所に立つことを恐れてる。


 けど路地は見渡す限り平和な様子だ。特に異物も、人影もない。ならなんでオレはこんな怖がってんだ? 自分の感覚に疑問を抱くしかないオレは、直後原因を知る。


 路地の向こうから一人の男が姿を現した。夏だというのに分厚い黒のコートを着ている。乱れてごわごわに広がる長い髪の毛を後ろで無理矢理一つ結びにしていた。まるで観葉植物をひっくり返してぶら下げたみたいだ。


 男は絵本に出て来る邪悪な老人みたいな顔をしていた。不機嫌そうに口を結んで、しかめっ面のせいで鷲鼻にしわが集まっている。外国人だろうか。出で立ちもそうだが、まとう空気が尋常じゃない。怒った時の射牒さんくらいの迫力があって、見てるだけで背筋が凍る。


 男は真っすぐこっちにやってくる。オレは道の脇に退けて男に進路を譲った。へたに関わりたくなかったからだ。呼吸を抑え、気配を殺し、オレは男が通り過ぎるのを待った。


 しかし男はなぜか、オレの真横で足を止める。


「おお、貴様。なにやら懐かしい香りを漂わせておるな」


「はいっ?」


 思ったより若い声に驚いてつい顔を上げる。男はくぼんだ目元に不気味な光を宿してオレをじっと見ている。


 背筋に冷たいものが走った。感じたのは明確な命の危機。捕食者に出会った哀れな小動物の気分だ。男は怯えるオレを見て、口角をつり上げた。


「くくっ。そう怯えるな。お主のおかげで良い稀癌を思い出した。そうさな、あれはそろそろ食べ頃であろう。狩りに向かうとするか」


 男は愉快げに喉を鳴らし、コートを翻して歩き去って行った。男の視線から解放されたオレはどっと汗を拭きださせながら、その場にくずおれる。


「きがん……?」


 そういえば、前に奏繁そうはんが同じ言葉を使っているのを聞いたことがある。きがんとは、いったい何なのだろうか。


「まあ、オレみたいな凡人は関わらないほうが賢明ってやつかな」


 呟き、オレはとにかく自分の命が無事だったことに感謝を捧げたのだった。



    2【奏繁 七月十四日 08:05】



 依琥乃いこのが死んでから三か月以上が経過していた。自分ぼく以外に彼女のことを覚えているのは数えるほどの人数だ。誡もまだ彼女の存在は覚えているものの、名前を言っても反応が数瞬遅れるようになった。


 依琥乃の調査を引き続き行ってくれている射牒いちょうさんは依琥乃を忘れていないが、それはあの人がイレギュラーだからだ。この世のありとあらゆる奇跡を受け付けない、神の威権すら無力化する人間。だから逆に射牒さんがどれだけ依琥乃を覚えていても、依琥乃の不全能は改善されないだろう。


 依琥乃の名に反応してくれるのはこの二人とレゾンだけだ。依琥乃と親しかったはずの自分ぼくの両親はもう完全に忘れてしまった。へたしたら、依琥乃の両親も自分の娘の存在を忘れているかもしれない。


 なぜ自分ぼくが人より鮮明に依琥乃を覚えていられるのか、それはきっと稀癌の影響だろうとレゾンは言った。稀癌きがんによって二重人格である自分ぼくは身体に二つの人格がいる分、依琥乃を思い出す頻度が人の倍あるからだと。


 そういえば、うるし賢悟けんごの件のちょっとあとからレゾンに会っていない。何度か廃ビルを訪ねたけど留守だった。あの吸血鬼はいったいどこに行ったのだろうか。


 そんなことを自宅で一人、課題のレポートを書きながら考えていた時だった。来客を告げる呼び鈴が鳴る。


 今日は誡と約束はしていない。以前は自分ぼくのところによく顔を見せていた有巻兄さんも、東北のほうに仕事へ出て行ってそれきりだ。他に朝から自分ぼくを訪ねて来る人物に心当たりはない。通販もやらなければ、この辺りじゃ宗教の勧誘も見ない。ふいに呼び鈴を鳴らす人間に心当たりがなかった。


 じゃあいったい誰だろう。首を傾げながら扉を開ける。ドアチェーンに阻まれた細い隙間から見えたのは、見覚えのない少年の姿だった。


 フードを目深に被った、十五、六歳くらいの男の子だ。気になるのは、彼の髪の毛が純白の色をしていたことと、瞳が日本人とは思えないほど明るい色をしていたということ。


 少年が自分ぼくの顔を見とめ、ぱっと顔を輝かせる。


「初めまして、更科さらしな奏繁そうはんさんです……よね? 私はしがない罪人です。本日はお願いがあって参りました」


 隙間の向こうで少年が深々と頭を下げる。その声は姿同様、まだ変声期を迎えていないらしく可愛らしい。罪人という単語に驚いて自分ぼくがドアチェーンを外すと、少年は嬉しそうに笑う。


「いったい自分ぼくになんの用ですか」


「ええ、それがですね、とても言いにくいのですが……」


 少年は口ごもらせ、遠慮がちに自分ぼくを見上げた。


「私と私の師匠を、殺していただきたいのです」



    3【■■ ■月■日 ■■:■■】


 殺さねばならぬ。殺してやらねばならぬ。肉を裂き、血を絞り、頭蓋を割って、その命を終わらせねばならぬ。

 そう自分に厳命した日のことを、私はきっとすぐ思い出せなくなる。

 それでもやらねばならぬ。あの日の想いがかすれても、あの日々の記憶がうすれても、私は殺す。彼を殺す。

 それだけが唯一、私が彼に捧げられる幸せなのだから。


     3【誡 七月十五日 14:12】


 大学が終わって私は、上城かましろ町の商店街を歩いていた。

 夏休み前の集中講義で疲れた私の脳みそは糖分を欲している。そこで商店街にある小さな喫茶店でパフェでも食べようと、たまたま立ち寄ったのだ。


 平日の微妙な時間帯だからだろうか、お世辞にも広いと言えない道幅にぽつりぽつりと人影があるだけで商店街は閑散としていた。おかげでフードをかぶらなくてもゆったりと進むことができる。片目に眼帯をつけた私に意識を向ける者もなく、稀癌の反応もない。田舎町の、知人以外にに無関心な平穏な日常。


 ただ一つ気がかりがあるとすれば、今日の集中講義に更科君が来ていなかったことだ。彼も取っている講義だったはずなのだが。……彼の単位は足りているから心配はしていない。それでも、いつも当たり前にあるはずの顔がいないと少し調子が狂う。


 そうやって考え事をしながら歩いていたせいか、私は目前に迫る人影に直前まで気がつかなかった。


 中学生くらいの少女だ。背丈は私と同じくらい。少し長い金髪は染めたものらしく、頭頂部から黒い部分が伸びてきている。この時間帯ならまだ中学校は授業中のはずだ。少女は俯いて歩きながら、周囲を注意深く観察していた。不良さんだろうかと近づこうとすると、私の視線はなぜかあらぬ方へ引き寄せられた。


 その先は降りたシャッターがあるだけで目立つ物などなにもない。なのに目がそこから離れない。何事かと立ち止まると、ふいに腰の辺りに冷ややかな空気が流れた。


 ――――危険察知クリエ


 顔を向けられないまま、眼帯の死角から腰に伸びてきた腕を掴む。するとようやく首が回るようになった。私に掴まれて暴れる細く白い手の中には、間違えるはずもない、緑色をした私の小銭入れがあった。ポケットに入れていたはずのものだ。


「……やはりスリですか」


 手の先にある顔を見る。プリンみたいになりつつある染めた金髪。間違いなく不良少女だ。少女は顔を青ざめさせ、驚きに目を見開いて私を見つめている。


「おっ、お前どうして――」


「……泥棒はいけません。……これは返して頂きます」


 彼女の手から小銭入れを奪い返す。すると少女は途端に顔を真っ赤にし、私から飛び退いた。


「うっ、うるせー! なんなんだよお前! くそっ」


「あっ…………逃げられた」


 焦ったように私を睨みつけた少女は、私の手が緩んだ隙に一目散に走り去ってしまった。


 手馴れた様子から彼女のスリが初犯でないことが分かる。追いかけて注意すべきか。いや、そこまでの義理はないだろう。まだ未成年のようだから、一度捕まるくらいが丁度いい。

 しかし先ほどの私はどうしたのか。突然視界が意識に反して動くなど、明らかに自然の現象ではなかった。


 もしも今のを少女が故意にやったのだとすればそれは、魔術か魔法か、それとも……。


「…………まさか、ですね」


 私は予感を吐息に変えて、少女の消えた路地に背を向けた。


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