第18話 狂気の少年
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昼食後、いくつかのお店を廻った後、歩き疲れたという仕種さんにカラオケへ連れ込まれて数時間。ようやく店から出るとすでに辺りは暗くなっていた。
「もぉう無理。歌えない。喉つらい」
「……なぜ時間延長したのですか」
「だって楽しかったんだもーん! ていうか誡ちゃん歌ウマすぎ! 上手過ぎてうまうま!」
給食のグルメリポートを求められた中学生女子のような褒め言葉を聞き流しつつ腕時計を確認すると、時刻は十九時を過ぎていた。日が落ちて人通りがいよいよまばらになっている。
「誡ちゃんもバスで帰るわよね? 方向同じなんだし、一緒に行きましょ。近道はこっち!」
言いながら仕種さんは裏通りへと入っていく。確かにそこを抜ける方が近い。しかし日が暮れた以上、あまりその道は通らないほうがいい。これからは素行に問題のある方々の時間なのだから。
「……仕種さん、別に急いでいませんし、表から行きましょう」
「えぇ? 大丈夫よ。まだ時間も早いし。人もいるし。お姉さんが誡ちゃんを守ってあげるから」
提案は一蹴された。案外頑固なのかもしれない。まぁ、私が警戒していれば平気だろう。今のところ周囲に危険は存在しない。それにバッグの中には護身用に武器も入っている。
「あっ」
仕種さんが何かに気づいたように歩を速める。なにかと見てみれば、前方を行く男性がハンカチを落としたらしい。ハンカチを拾いあげた仕種さんが小走りに駆けていく。
「すみませーん、落としましたよー」
落とし主は花屋の店員だったらしい。バケツを抱え、ちょうど店じまいをしている最中だった。
なにか声を掛けられていたが、仕種さんは丁寧に謝してこちらに戻って来る。
「いやあ、お礼にお花でもどうですかって言われちゃった。でもこれからバスに乗るし断って来たよ」
どう考えても第一目的はお礼ではない。その証拠に男性は未だこちらへ熱い視線を注いでいる。
これで今日は二度目。仕種さんはつくづく男性に声をかけられやすいようだ。整った顔立ちに優し気な雰囲気が相まって、話しかけやすいからかもしれない。
「ねぇねぇ、誡ちゃんはどんな花が好き?」
微笑みながら二つ隣の路地へと道を移す。花屋の前をもう一度通るのを避けたようだ。意外と彼女は男性のあしらい方に精通しているのかもしれない。これなら昼間も私が助ける必要はなかったのではないだろうか。
「……あいにく、あまり花には詳しくありません。ですが道端に咲いている小さな花は好ましいです」
「なるほど。野に咲く花タイプなのね」
それはどんなタイプだろうか。
「……仕種さんには、好きな種類があるのですか」
それが礼儀だと考え訊き返した。仕種さんは唇に人差し指を持っていき、ぷにぷにしながら思案しつつ答える。
「そうねぇ。アネモネとか好きよ。紫色のとか特に。ちょうど見ごろらしいからよく売ってあるし、どこかに咲いてるかもしれないわねぇ」
やはりというかなんというか、知らない花の名前だった。色が違えば別の種類の花に見えてしまう程度には興味が薄いので、当たり前といえば当たり前だ。
前を歩く仕種さんの顔を見上げていたせいだろうか。仕種さんが入った路地が、先ほどよりもさらに裏側であることに私は遅れて気が付いた。
そこは店々の裏側であり、窓も入り口も面していない、完全に人気のない狭くて暗い道だ。動きを止めた換気扇と詰め込まれた段ボールだけが路地の住人だった。
ふいに路地へ駆け足が鳴った。
ここ数時間、危険を全く感じさせない仕種さんにずっと意識を向けていたせいか、背後から迫る
「――――っ」
「きゃっ!」
振り返ればそれは目前だった。
背後の仕種さんを斜め後ろへ突き飛ばし自らも後ろへ跳ぶ。鈍く輝く冷たい切っ先が喉元を舐める。肩口の髪が何本か舞うのを無視して、停止した脅威とそのまま距離を取った。
無理矢理に引っ張った仕種さんが隣でたたらを踏んでいる。私は取り忘れていたフードを脱いで前方の危険を直視した。
姿は人だ。それも背の丈が私と同じくらいの子供である。灰色のシャツに半ズボン。黒い髪は若干長くその顔を隠しているため判然としないが、服装からして恐らくは小学校高学年くらいの少年だろう。
少年は両腕を脱力したように
よく見ると、ぶらぶらと揺れている左手には刃が限界まで出されたカッターナイフが握られていた。私の首を狙った得物はあれだ。
「――けた。……よ――――た」
少年がなにか呟いている。なんだろうかと身を乗り出した途端、少年は突然顔を上げその血走った目が私を捕らえた。
「避けた。避けた、避けたっ! ボっ、ボクの刃をよけたね!? ああああはははははははは!!」
にやけた口角からよだれを垂らしながら少年が叫ぶ。言葉が一つ一つ発せられるたびに彼を包む脅威が増していく。まともではない。この少年は狂っている。笑いながら少年が腕を振るった。
「なっ――!」
仕種さんが驚きの悲鳴を飲み込んだ。刃に触れた室外機の角が、豆腐かなにかのように欠けて落ちてしまったのだ。
「カッターじゃないの、あれ……?」
見た目はそのはずだった。しかし切れ味がカッターの比ではない。あれでは人間の骨など容易く刈り取ることができてしまうだろう。
まさかこの少年が連続殺人犯だというのか。
一人ならば
私の稀癌が感じられるのは己に降りかかる危険だけだ。他人に迫る危機までは感知することができない。故に仕種さんと離れるわけにはいかなかった。
ここでどうにかするしかない。
私は叫び続ける少年を見据えたままウエストバッグから銃を取り出し――――
「―――――――ぁ」
手元を見て声が漏れる。バッグの中、私の指がかかるそれは、テレビのリモコンだった。
「…………」
手中のモノをバッグに入れなおす。そして、もう一度、今度は慎重にそれを取り出した。
……………………リモコン。
何度確認しようと、リモコンはリモコンだった。
そういえば通話しながら手探りでこれをバッグへと入れた。どうやら似た重さだったため間違えて持ってきてしまったようだ。
そっとチャックを閉めて、状況を確認する。
目前には危険人物。隣には美人のお姉さん。そして手ぶらの私。
これ、どうやって切り抜ければよいのだろう。
自分だけならどうとでもなるのだが、いかんせん、人を守りながらだと装備がリモコン一つでは心もとない。だからと言って目の前で奇声を発する少年に言葉が通じるとは考えられそうになかった。
「はははっ」
そうやって逡巡しているとついに少年が動いた。カッターの刃をカチカチと出し入れしながら、一歩進む。
とにかく動きをよく視て対応するしかない。今は後手に回るしかないだろう。覚悟を決めて腰を落とすと、唐突に視界が塞がれた。
思考より先に身体が動きかけたが、稀癌が反応しないことに気づき振りかぶった腕を下ろす。私の目の前を塞いでいるのは、震えを抑えきれていない、仕種さんの背中だった。
大きな背中が、私を庇うように前へ出る。
「……仕種さ――」
「動かないで誡ちゃん。――――ねぇ。君の目的はわからないけど、友好的じゃないことだけは理解してるつもりよ。でもお願い。そのまま後ろを向いて、立ち去ってくれない? 私達、見ての通り女の子なの」
仕種さんが少年へ話しかける。その声は凛としていて、他者を揺れ動かす覇気がある。
はたして少年は……。表情を変えずに左足を踏み出した。やはり声は届いていない。
「そう。……残念だけど、私の友達を傷つけるっていうなら、容赦しないわ」
言いながら、仕種さんがちらりと私を見た。その口が音もなく小さく動く。
『にげて』
そう告げていた。震えながら、心から。
「…………いいえ、貴女です、逃げるのは」
「えっ、誡ちゃ――――ひゃっ!」
目前に立つ女性を押しのけ前へ出る。
守らなければならない。
己の全霊を以て、この
肩の力を抜き、腰を落とし、出来得る限りの対応ができるように構える。そんな私を見てまた少年の口角が上がり笑いが漏れ出した。笑い続ける少年の脅威を五感で感じ取る。特に鼻が曲がりそうだ。
―──―狂人の香りだ。
「……言ったでしょう。一億と二千年早いと」
前を見据えながら、後ろで狼狽えている仕種さんへ言う。
「……どれだけの時をかけようと、私の友人には刃先一瞬向けさせたりしません」
意図せず少年と呼吸が同調する。隙を見計らいながら互いに前へ踏み込もうと重心を倒す。
風が止み蛍光灯が瞬いた。皮膚の表面をぞくぞくと沈黙が
なぜか、場違いな着信音が鳴り響いた。
殺気漂う狭い路地に軽快な音楽が響く。私の着信音はあのような間の抜けた音ではない。だからと言って後ろから音はしない。
構えを解いて着信ボタンを押したのは、少年だった。
「はい。もしもし。――――うん。え? 駄目? どうして、どうして? …………うん。わかった。戻る」
折り畳み式の携帯をポケットに仕舞った少年は、笑みを引っ込め、極普通の表情でぼんやりと呟く。
「あの子の所に帰らなきゃ」
そうして私達への興味をすっかり忘れたように、踵を返して引き上げていった。
「…………………………えっと、なにがあったの?」
仕種さんに問われても答えられない。ただ、あれほど充満していた危険が風を通したように路地からは消え去っていた。
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