第35話 レモンシロップ

「どうですか、この写真が気に入りました?」


 何分くらい経ったのだろう。写真の前で見惚れるように立ち止っていると、写真部だろうか、カメラを首からぶら下げた女子生徒が隣に立っていた。白い教室の中、鮮明に映える青いTシャツの裾には『3-5』と書かれていた。

 三年の先輩か。

 誰が撮った写真かは分からないから、ここを素直に話したほうが良いな。


「そうですね。この中で一番好きかもしれないです」

「えー、そうなんですね。理由を聞いても?」

「なんとなくですよ。綺麗な写真は他にも沢山あるし、好きな構図も好きな被写体も沢山あるけど、この写真はそんなところも関係なく惹かれるんですよ。撮影した人がファインダー越しに何を感じたんだろうって考えたくなるし、無意識に目が行くっていうか......」

「そっか。他の写真は、そうだね、あの壁に掛かった海の写真とかは?」

「綺麗ですね。鳥の影が映ってるところとか」

「え、それだけ?」

「えっと、空と海の境界が溶け合っている感じが良いけど、やっぱりこの写真の方が。でも、どこの海なんですか。この辺に海なんて無いから、気になる」

「電車で二時間くらいの場所みたいですよ、あまり人が居ない秘密の場所なんだって。他には、あっちのプールサイドの写真は?」

「良いですよね、透明感があって。特に波の反射が脚に映っているのが好きかな」


 何点か写真の感想に答えていると、先輩は僕のTシャツに気付き顔をじっと見つめる。そんなに見つめられると恥ずかしいのだが。


「色々答えてくれてありがとう。そういえば、キミは一年生だよね。もう投票先は決めました?」


 投票先を聞く先輩の顔は、どこか不安そうに見えるが、言葉を言い終わった後、その目に映っているのは僕ではなく、別の場所だった。

 投票先。それは勿論、いま目の前にある写真なのだが、直接それを言うのが憚られ、口から出たのは曖昧な返答。


「なんとなくですね。まだ全部見てないんで、決まってはないです」

「てっきりこの写真だと思った」

「いや、折角の匿名なんだから言いませんよ」

「因みにこの写真、私が撮ったのかも。だから他の写真に投票してあげても良いですよ」

「それ言っても良いんですか?」

「皆には内緒にしてね」

「分かりましたよ。僕も折角の投票だし、もう少しゆっくり見てから決めます」


 ありがとう、またね、と手を振った先輩に背を向け、窓際の写真へと向かう。窓の外には中庭が広がり、向かいの校舎の廊下には今朝置いたクレープの看板が見える。僕たちの教室がある四階へと視線を上げるが、やはりこの角度では四階の様子は全く見えなかった。

 振り向き、先程まで見ていた写真の方を確認すると、いまだに先輩が立ち位置を変えること無く、じっと写真を見ていた。

 もう振り向かないようにし、他の写真を見て歩く。個人的には、一條と雨宮の撮ったらしい写真を見つけることが出来たので、満足した気持ちで出口の投票箱に紙を入れ、教室を後にした。

 結果はどうなるかわからないけど、午後になったらまた見に来ようかな。



 

 屋外にむき出しの四階の渡り廊下は、遮るものがなく、日差しを全身で受け止めることになる。人工芝が敷かれた床と、所々塗装の禿げた乳白色の手すりが、日光を銀色に反射している。

 背中を預けた手すりからは、ジリジリと熱が伝わってくる。

 十一時三分過ぎ。

 そろそろシフトの交代時間かなと思い、順調にクレープ待ちの行列が伸びる教室を横目に、朱音を待っていた。


「お待たせ、もうどこか見てきたの?」

「お疲れ、ワッフルと写真部のところには行ってきた。それ以外は特に行ってないな」 

「写真部ね。確か、美菜とか雨宮さんとかと約束してたんだっけ」

「うん、二人には会ってないけど。さっそく、一ノ瀬のところへ行くか?」

「そうね、行きましょう。そのあとに、少しだけ見て回らない?」

「そうしようか。それにしても暑いな」

「かき氷食べたいね」


 確かにこんなに暑いと、かき氷が食べたいな。

 夏のせいか、模擬店から届く鉄板の熱のせいか、行き交う人々の熱気のせいか、じっとりと肌に纏わりつく様な熱が動きを鈍くさせる。

 真っ白なかき氷に、ピンクのイチゴシロップを掛けた涼しげな姿を想像しつつ、服の裾から空気を送る。朱音はTシャツの襟元から、ぱたぱたと手で仰ぎ空を見上げる。僅かに露になる、首から首元かけての白い肌に目が行き、慌てて足元の影へと視線を落とす。


「行こう」


 朱音の声に顔を上げて、二人で校庭を目指した。

 廊下ですれ違う中学生や他の高校の生徒が話す、模擬店の感想や楽しそうな声が耳に入ってくる。


「ねえ、このクレープ美味しいよ、食べる?」

「うん、食べる。って、それ何味?」

「イチゴとリンゴだよ。はい」

「本当だ、美味しい。また後で行ってみようかな。一番奥の教室だよね」


 会話の内容に僕らは、顔を見合わせる。恥ずかしそうで、嬉しそうな朱音の顔を見て、思わず笑う。廊下を右へ左へとふらふら肩を震わせながら歩いていると、朱音に肩を叩からながら、裾を引っ張られて廊下の端を歩かせられる。

 天井から吊るされた、唇を突き出すタコのぬいぐるみと目が合う。見下ろすようにウインクしてくるタコに、無性に触りたくなった。


「良かったな。めちゃくちゃ褒められて」

「うん、そうね。嬉しい。でも、あれ考えたのは紫苑もでしょ。なんか余裕そうなのがムカつくのよ」

「僕だって嬉しいけど手伝っただけだし、恥ずかしくはないな。まあ、朱音が嬉しそうで良かった。あの日に、一年分のクレープを食べた甲斐があったって感じで」

「そういうことを言う方が恥ずかしい気もするけど、ありがとう」


 笑いと期待に溢れる校舎から、照り返しの強い校庭へと出て、テニスコートへと向かう。ヨーヨー掬いやラムネ、クイズ会場や男装女装コンテスト会場の間を歩いていると、ひし形に編み込まれたフェンスが見えてきた。ソースの香りがどこからともなく薫ってくる。

 日光をギラギラと反射し、いかにも熱そうなフェンスにはいくつものタオルが掛かっている。


「よう篠崎、来たな。それと、五十嵐さんも来てくれてありがとう、暑くない?」

「暑いわね。一ノ瀬君は大丈夫?」

「俺は普段から、この暑さで練習してるから大丈夫。五十嵐さんには後でかき氷あげるからな。篠崎は......うん、暑くても大丈夫だよな。よし、さっそく」

「いやいや何が、うん、だよ。五十嵐と僕の扱いの差はなんだ?」

「ほらほら、小さいことは気にしないの」


 テニスコートの脇で手を振っていた一ノ瀬とフェンス越しに話をしていると、入り口へと案内された。小さな子供から大人までテニスラケットを振って、コートに浮かんだ幾つもの的を狙っている。

 なんだこれ。

 一ノ瀬、これなんだ。

 何の模擬店なのか分からず周囲を見回していると、一ノ瀬が手に持っていた赤いラケットを渡してくる。


「何すれば良いんだ?」

「一球でかき氷をプレゼントって書いてあるわよ。あの的のことじゃない?」

「そうそう、テニス部は焼きそば作ってるんだけど、的に一回あてると、かき氷をおまけでプレゼントしているんだ。篠崎も挑戦していくだろ」

「まあな」

「よっしゃ。因みに篠崎は、隅の二つしか狙っちゃ駄目だからな。簡単なのは狙わせない。そうだ、五十嵐さんも挑戦する? してもしなくても五十嵐さんには、かき氷プレゼントするけど」

「私もやってみたい」


 挑戦する順番を先に朱音へと譲り、コート脇のテントの影へと潜り込む。ラケットの持ち方と振り方から、ボールを打つ位置まで、一ノ瀬が丁寧に教えているのを写真で撮りながら、湿度の高い空気をゆっくりと吸い込む。息をするのも嫌になるほどの暑さだ。

 ボールをバウンドさせてから、大きく肩よりも高く引いたラケットを振る朱音を見て、頑張れーと気の抜けた声援を送る。

 テニスコートの上には延々と広がる青空に入道雲。もう夏だな。

 一球目は空高く、二球目はネットに引っかかり、首を左に傾げなら何回か素振りしている朱音が、チラチラとこちらを振り返り、ジメっとした何か言いたげな目線を送ってくる。たぶん、『どうすれば良いの』ってことで、そして『何かアドバイスある?』って言いたいんだろうな。

 そうだな、的にさえ命中すれば良いなら......。

 素振りする手を腰の位置で止め、ボールとラケットが平行になるようにジェスチャーをする。これで、ボールを掬ったり、上から叩いたりしたから、真っすぐに飛ばなかったのが伝わったかな。

 朱音は右へ首を傾げ、手を振っている。伝わってないな。

 その様子をみて一ノ瀬が笑う。

 ひとしきり笑い終えると、一ノ瀬が伝えてくれたようで、何度も頷きながらラケットを眺めた。

 三球目は的の横を通り、四球目にコンと音を立てて的が倒れる。

 

「やった。あたった」


 的が倒れた瞬間、小さくジャンプして一ノ瀬とハイタッチした。そしてそのまま、僕の方へと嬉しそうに手を振る。

 突然のはしゃぎっぷりに、僕まで周りからの視線を集めて恥ずかしい。キャラが壊れているぞ、と思いながらおめでとうって手を振り返す。

 周りの視線に気付き、ふと我に返った朱音は恥ずかしそうに俯き、そのまま打った五球目はネットすれすれにぶつかって、コートの向こうにポトっと落ちた。

 一ノ瀬から何かチケットを受け取り、俯きながらもテントの下へと戻ってくる。顔が赤く火照ったままで。日焼けではないだろうな。

 あめでとう、とすれ違いながら声を掛け僕は一ノ瀬の立つ、灼熱のコートへと進む。暑すぎだな。火傷しそう。


「とりあえず、ボール五個。なあ篠崎。五十嵐さん、嬉しそうだったな。あんなにテンションの高い姿見られるなんて、二人を誘って良かった。今日は良いことがありそうだ」

「あんなにテンションが高いと、雪でも振るんじゃないかって思うけどな」

「本当、仲良いよなお前たち」

「どこを見たらそうなる」

「そういうところだよ、分かる人には分かるぜ。まあいいや、挑戦してよ。五十嵐さんが見てるんだし、全球外したら格好悪いからな」

「まあ見てろ」


 意識してゆっくりと息を吸い、呼吸のタイミングでボールをバウンドさせる。

 地面から響くボールの弾む音が心地良い。集中力が研ぎ澄まされ、体の芯が冷たくなる感覚。懐かしいなこの感じ、久しぶりだ。ボールが落ちてくるタイミングを狙い、思い切りラケットを振りぬく。

 空へと突き抜ける様な、軽く透明な音。

 ボールはコートの隅へと一直線に飛び、ラインを越えて地面を叩いた。

 そして二球目、三球目と続けて失敗。


「やっぱりこうなるよね」


 成功しないだろうと思っていても、朱音が倒した的を思い出すたびに、失敗できないと感じる。

 本当、これで全部外したら恥ずかしいよな。それに、かき氷も食べたいし。

 四球目は、タイミングをずらして打つが、また失敗。

 残り一球。

 振り返ると、一ノ瀬と朱音が日陰で涼しそうに座っている。しかも片手には紙コップを持って、何か飲んでいるし。


「もうどうにでもなれ」


 一人呟いて空に上げたボールは、太陽と重なり落ちてくる。何も考えずに打った五球目は、風を切ってコートのエンドラインぎりぎりへ飛び、隅に置かれた的を捉えていた。

 あたった。

 よかった、あたった。


「やった、あたった。見た?」


 勢い良く振り返り、涼しげな二人の方を向く。周りの視線なんかにも構わずに、倒れた的を指さすが、僕の視界に入ったのは、こちらを見ようとはせず互いに別々の方向を見ている一ノ瀬と朱音。

 いや、こっち見てくれよ。

 達成感の反動から、寂しさを感じながら二人のもとへ戻ると、我慢しきれない様子で一ノ瀬が大笑いを始めた。それにつられるように笑う朱音。


「ごめんごめん、ちゃんと見てたから。これはあれ、ちょっとしたドッキリ? とりあえず、おめでとう篠崎。さすがだよ」

「ちょっとだけショックだったんだからな。ちょっとだけ」


 一ノ瀬が挙げた右手へ叩く様にハイタッチをする。振りぬいた右手がじんわりと熱くなった。


「おめでとう。こんな喜び方して、篠崎君もキャラぶれてない?」

「いや、そっちほどじゃないわ」


 朱音と掌を重ねるような、柔らかなハイタッチをして、三人でそのままコートを出た。

 焼きそばを貰って、僕と朱音はフェンスへ背を預けながらコート脇の木陰で休憩をした。タイミングよく食べ終わるころに、一ノ瀬がかき氷を両手に戻ってきた。


「本当、仲良いよな。兄妹なのか、夫婦なんか」

「ただの友達」


 朱音と声が被るのを聞いて笑いだす一ノ瀬から、レモンシロップの掛かったかき氷を貰う。もう戻らないと、と言う一ノ瀬と三人で写真を撮って、僕らはテニスコートを後にした。

 かき氷が貰えた喜びよりも、的を倒せた安心感に満たされていた。

 伸びては縮み、重なり絡まっては離れる、波のような影の中を二人でぴったりとくっつきながら進み、校舎の影に置かれたベンチに腰を下ろす。

 少しだけ溶けては固まり、柔らかさの失ったかき氷が、青と白の縞模様にデザインされたカップの中で回るように動く。見ているだけで涼しげだ。

 先端がスプーンになった、赤いストローで一口頬張る。

 シャクっと音を立てて、口の中で溶けていく冷たい氷の粒が、心と頭を冷やす。


「そういえば、聞いたことある?」


 隣で、頭上の木の葉を見上げるようにしていた朱音が、話し出す。


「かき氷のシロップって、全部同じ味らしいわよ」

「えっと、これとそれが同じってことか?」

「そうみたい。なんか色で味を感じているらしいよ。ちょっと試してみる?」


 朱音が持つピンクのかき氷と、僕の黄色のかき氷を見比べる。本当に一緒の味なのか?

 好奇心に負けて頷く。


「そうね。こっちを向いて目を瞑って?」

「こうか」


 朱音の方へと身体ごと向け、目を瞑っていると、お祭りの喧騒が遠くの方から聞こえ、木の葉の揺れる音や、日光が地面を照らす音までも聞こえてきそうだ。自然の音の中で突然混ざった機械音。

 目を開けると、顔の前には白い塊が浮いていた。


「まだ目を開けないでよ」

「いや、写真撮ったでしょ」

「一枚だけよ」

「そっか一枚だけか」


 何に納得したのか自分でも理解できていないが、もう一度目を閉じる。


「それじゃあ口を開けて。はい」


 口を開けると、すぐに口の中が冷たくなる。冷たい。甘い。甘いけど......何味だろう。

 イチゴ、レモン、メロン、ブルーハワイ......いや、イチゴかレモンのはずなんだけど。


「目を開けて良いわよ。どっちか分かった?」


 ストローを片手に首を傾げながら聞いてくる。


「えっと......オレンジ?」

「なんでよ! 選択肢はイチゴかレモンなのに。もう、思わず大きな声出しちゃったじゃない」

「これ本当、分からないって。今の何だった?」

「私のよ。イチゴ」

「駄目だ。ちょっと、試してみるか?」


 そうねやってみる、と目を瞑った朱音の写真を撮り、雛鳥のように開けて待っている口の中へ、掬ったピンクのかき氷をそっと差し出す。

 睫毛長いなとか、唇が綺麗だなとか、髪サラサラだなとか思ってしまう自分が虚しい。


「写真撮ったでしょ」

「撮った。そんなことよりも、味は分かるか」

「そんなことって......。冷たくて、甘いわね」


 まあ、かき氷だし、冷たくて甘いだろうな。暑さで頭が回ってないのかな。

 真っすぐ遠くを見たり足元や頭上へと視線を彷徨わせながら考え込む朱音が、あっ、と呟いた。


「分かった?」

「ええ。これ、ランブータンね」

「なんでだよ!」

「この流れはした方が良いかなって。ちなみに、ランブータンは食べたことないわ」

「ツッコミどころが多いんだよな。さっきのはイチゴね」

「本当にわからないね。少しだけ冗談だと思ってた」

「こっちのレモンも食べてみるか?」


 差し出したカップから掬って食べる。

 何となく酸っぱく感じるかも、と言いながらイチゴと食べ比べていた。

 木の葉を揺らす生温い風が、かき氷で冷えた身体に熱を与え、溶けて殆ど水になった氷がカップの底でゆったりと揺れた。


「午後は予定あるの?」

「私は、美菜と一緒に食べ歩きに行く予定。そっちは?」

「また食べるのか。午後からはシフトがあるし、教室の近くでゆっくりしてるよ」

「あ、予定がないのね」

「やめろ。未定なのが予定なんだ」

「そういうことにしておこうかな」


 そう言うと朱音は、足を前後に振りながら背を伸ばす。足が木陰から出るたびに、細長く伸びた影が揺れる。校庭の真ん中からは歓声が聞こえ、体育館からは誰かの演奏するギターの音色が漏れてくる。ふと見上げると蒼穹を背負って飛んでいた鳥が、大きく旋回していた。

 比翼の鳥と連理の枝か。


「そろそろ教室の方へ戻る?」

「そうだな。その前にゴミ捨ててくるから、それ頂戴」

「良いの? ありがとう」


 空のカップを捨てようと、ベンチから腰を上げ歩き出す。木陰から出るだけで、刺すような日差しに汗が出そうだ。


「よう、篠崎」

「えっと......相良か。どうした?」

「いや、模擬店のシフトが終わって......散策をだな」

「ナンパだな」

「だって、一人じゃ寂しいし、出会いが欲しいだろ。篠崎もそうだろ?」

「別に」


 学園祭に来ている知らない人とも喋ろうとする、そのエネルギーの多さに感心し応援する。

 凄いな。僕が使う一日分のエネルギーでも賄えない気がした。


「どうしたの」

「ちょうど相良に会ってな」


 ゴミ箱の近くで立ち止まっていたからか、朱音が様子を見に来ていた。

 何となく、面倒な流れになりそうだと予感が告げる。

 虫の知らせというか、蒸し暑い知らせというか。


「篠崎と五十嵐」


 相良は僕らの顔を見比べ、手元に持った空のカップへと視線を下げる。


「篠崎......あの噂は本当だったんだな」

「多分、誤解だと思うぞ」

「いや、良いんだ。隠さなくて良いんだ」

「だからそれが誤解だって」

「くそぅ、みんな幸せそうで良いな! 青春って良いな! にんげんって良いな!」

「最後のは違う気がするけどな。あれか、かくれんぼでも見たのか?」

「運動会の方じゃない?」

「そっちか、二番の方?」

「いちゃいちゃと見せつけやがって......篠崎、三秒あげるから、幸せだなって言いな!」

「はあ? まあ良いや。幸せだな」

「次会ったときは、俺も幸せになってるからな。お幸せに!」


 そのまま走って体育館の方へ向かう相良を見送り、僕らは取り残されたようにポツンと佇んでいた。


「忙しそうね」

「だな、最後まで勘違いしているし。テンション振り切っているし」

「いつもは普通なのに、どうしたのかしら」

「きっと夏のせいだ」


 それか、学園祭でテンションが高くなっているのかだろう。

 手に持ったままのカップをゴミ箱に落とす。

 ビニールにぶつかる音がやけに大きく聞こえた。





 控室の前で五十嵐とは別れ、僕は一人教室の机で休憩する。隣の部屋からはクレープの香りが漂ってきて、繁盛しているのが感じられた。朝よりも書き込みが増えた黒板は、緑の部分の方が少なくなっていて、より一層スケジュールを探すのが大変になっていた。

 風が髪を揺らす。エアコンは止められているが、頭上で回り続ける扇風機の風が涼しい。やっぱり科学って偉大だ。いいな、いいな、文明っていいな。

 机の上で溶けたアイスクリームのように、ぐったりとしているとポケットの中が震える。

 誰からのメッセージだろうと思いつつ、重力に逆らえず力の抜けた身体を起こさないようにしていたが、三回、四回と何度も震えていると、流石にメッセージではないのが分かる。

 気合を入れて、着信画面を確認する。

 真っ白なディスプレイには『雨宮 花』と浮かんでいた。


「はい、どうした」

『篠崎くん? 良かった繋がった。よかった』

「ごめんごめん、気付かなかった」

『いま、時間大丈夫かな?』

「良いよ」

『篠崎くんは、写真部の展示......見に来てくれた?』

「見に行ったよ。二人の撮った写真っぽいのも見つけた」

『来てくれた?』

「見に行ったよ。二人の撮った写真っぽいのも見つけた」

『うわぁ、ありがとう。嬉しいな。えっとね、それで問題があって』


 初めに声を聞いた時から、雨宮の声に緊張なのか焦りなのかが混ざっていたのは感じていたが、どうしたのだろう。


『展示していた写真が一枚無いの』


 あの中の一枚が無くなったのか。多すぎる写真の中で、一枚無くなっても流石に僕にはわからないな。

 僕は特に手掛かりを知らないし、無くなったのを今知ったくらいだ。いつ頃から無いのかを聞きたいのなら、僕には何も出来ないだろう。

 情報が無い。


『その写真がね、美菜ちゃんのなの』


 そういうことか。

 一條の写真なら、たぶん......。


「分かった。僕も探すから、情報が欲しい。あと、このことは一條には?」

『ありがとう。まだ言ってない、心配させたくなくって』


 机から起き上がり、時計を確認する。時刻はまだ十二時半を過ぎた頃。

 大丈夫、タイムリミットはまだある。

 気付くと一ノ瀬からも同じような連絡が来ていた。

 仕方がない、何が出来るか分からないけど、もう引けないな。

 どこから調べるのか。ここを間違えるわけにはいけない。

 道から逸れないように転ばないように、一歩目を慎重に踏み出した。

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