第29話 ハッピー・クラック

 ここ数日で既に鳴らしなれたインターホンを押すと、扉越しに乾いた機械音が聞こえる。

 少しずつ大きくなる足音を聞きながら、果物が詰まったビニール袋の持ち手を捩じっては離し、捩じっては離しを繰り返す。扉が開けられる頃には、人差し指からぶら下がるビニール袋が右へ左へと勢いよく回転していた。遊園地で乗ったコーヒーカップよりも、何倍も速く回っているに違いない。

 ゆっくりと開いた扉から、「おはよう」とエプロンを着けたままの朱音が顔を出す。編み込んだ髪が肩で揺れている。ビニール袋の中で目を回しているであろう果物たちを、朱音へと渡して玄関に入った。

 部屋の中に充満する焼けたバターの甘い香りが、食欲を誘う。

 今日は一日、学園祭に向けたクレープメニューを考えることだ。この生地が焼ける匂いをどれくらい嗅ぐことになるのか。そんな食欲と不安に、少々の期待をトッピングしてリビングへと向かった。

 テーブルの上には、色とりどりのペンキを零したように、赤や黄色、緑のフルーツやソースが並べられている。


「もうクレープ作ってるのか。どう、上手く焼けた?」

「ええ、見た目は大丈夫そう。一つ目はシンプルにチョコバナナにしてみたの、とりあえず食べない?」


 冷ましたクレープ生地に、ホイップクリームとバナナ、そしてチョコレートソースを掛けて棒状に巻く。最後に、巻いたクレープを半分に切って、二つにした片方を僕に差し出してくれた。

 お店のように三角錐の形ではないのは、二人で分けるかららしい。

 貰ったクレープを一口頬張る。柔らかく甘いクリームと、バナナの食感、そしてチョコレートの香りが口に広がる。うん、美味しい。クレープと言ったらこの味だ、やっぱり王道だよな。


「シンプルだけど、チョコバナナって美味しいな」

「そうね。クレープ自体は美味しい?」

「うん、もちろん美味しい。あとで焼き方教えてよ」

「後でね。まあ、そんなに難しくないから紫苑なら出来るわよ」


 今日の目的はただクレープを作るのではなく、新規のメニュー作成だということを、キッチンに立ち嬉しそうにクレープを食べる朱音を見ながら思い出した。

 テーブルの上で甘酸っぱい香りを放つ果物を、どう組み合わせるようか考える。


「ごちそうさま、美味しかった。メニュー作りどうしよう、何かもう決まっているのか?」

「定番のやつだけね、チョコバナナとイチゴだったかな。それ以外は皆の案を取り入れることになったの」

「メニュー数多そうだな」

「七、八種類くらいは欲しいらしいの。そのほうがお店としての見栄えは良いし」


 それもそうか。焼きそばとかなら別として、クレープの場合は多すぎても大変だけど、少なすぎても寂しいのか。


「とにかく作ってみないとな」


 席を立ちながら、目の前に置いてあったイチゴと、ここ最近で使い慣れたエプロンを手に取り、キッチンへ手を洗いに行く。キャメル色のエプロンから伸びた黒い紐を、背中で交差させて腰の前で結ぶ。朱音と夕飯を食べるようになってから、毎回借りるようになったこのエプロンは、すっかりもう体に馴染み始めていた。


「何枚か生地は焼いてあるから適当に乗せて良いよ」

「一枚で何種類か試していいよな、右半分はイチゴ、左半分はブルーベリーみたな感じで」

「そうね。流石に何枚も食べられないし、まずはそのイチゴ切って」


 足元の扉を開け、包丁を取り出す。洗いたてのイチゴに包丁を軽くあてがうと、シャクッと音を立てて二つに切れた。シャーベットのような瑞々しいイチゴの断面が食欲を誘う。

 最後の一個を切り終え、イチゴを一欠片摘み口へ運ぶ。凄く甘い。

 クレープに入れないでこのまま食べるほうが良いのでは、と思いつつ、もう一口、また一口と食べようと手を伸ばすが、横から伸びた細い腕に止められる。


「つまみ食いはその辺までね、始める前にイチゴが無くなるわ」

「悪い、つい。でも、このイチゴ美味しいから食べてみなよ」


 摘んだままのイチゴを朱音の口へ、そっと触れるように差し出す。

 イチゴを食べる朱音の唇が指が触れ、綿のような柔らかさに指先が火傷をしたように熱を持つ。


「ん、ちょっといきなり......」


 睨むような目をしながらイチゴを噛んだ朱音は、「確かに。これ美味しい」と呟くように言って、手元に転がっていたキウイを半分に切った。茶色い皮の間から、透明感のある若葉色が顔を覗く。


「紫苑、あれ取って」

「大きいのと小さいのどっち」

「小さいので良いわ」

「ここに置いておくよ。代わりに、それ取ってくれない?」

「どっちが良い、イチゴ? ブルーベリー?」

「イチゴで」


 キウイを切る朱音の脇に、小さな皿を置く。そして朱音からイチゴジャムを受け取り、瓶の蓋に力を込める。カコンッと乾いた音が鳴り、外れた蓋の隙間から甘い香りが溢れ出した。

 甘く、赤い、香り。

 大皿に乗せたクレープにホイップクリームを絞り、切ったイチゴとジャムを盛り付ける。

 シンプルなトッピングの上に、ブルーベリーやキウイ、オレンジを乗せては一口サイズに切って朱音と二人で味見をした。

 甘みと酸味、冷たさと温かさ、それぞれのバランスを調整するのが難しく、何度も何度もクレープを食べ続ける。

 納得するものが出来ない。さすがに、そろそろ食べるのが辛くなってきた。お腹いっぱいだ。

 朱音もクレープが憎そうな顔をして、果物を乗せては切り分ける。

 そんな、しかめっ面をしてると皺になりそうだと思う。本人には言えないけれど。


「もう無理よ、さすがにお腹いっぱいね。残り一枚、何にする?」

「難しいな、最近食べたものを思い出すしかないか」

「遊園地で食べたパフェはどう。私はイチゴとりんごで、紫苑はオレンジとチョコだったよね」


 遊園地で食べたパフェを思い出す。クリームの上に飾られたオレンジと夕日に照らされた観覧車、あの日がだいぶ前のことのように感じる。

 もう一度、あの日が来てほしいと思うのは僕だけかな。

 いや違うか。三人で並んだ朱音の家族写真の横に並べられたデジタルフォトフレームには、観覧車の中で撮った写真が浮かび上がっていた。

 隣でりんごを切る朱音へそっと目を向ける、柔らかなリラックスした表情を見られるのはここだけなんだよな。学校だと絶対に見せないし。

 まな板を叩くリズムの間に、一瞬だけ目があったように感じたのは僕の気のせいではないはず。




 最後に作ったイチゴとりんごのクレープと、オレンジとチョコのクレープは美味しかった。完璧とは言えないけれど、好きな味。多分、思い出がトッピングされているからかな。


「この二つで良いんじゃないか」

「ちょっと面倒になってきてるでしょ。でも、そうね。この二つなら被りそうでもないし」

「お疲れ。はあ、一年分のクリームを食べたような感じなんだけど、当分クレープは食べたくないかな。はやく片付けて休憩しよう」

「残念だけど、学園祭の準備でもっとクレープ食べることになるわよ。逃げないでよね」


 片付いたリビングのテーブルにマグカップを二つ置く。

 朱音の家に置かれた僕専用の黒いマグカップ。夕飯を一緒に食べる約束を面白がった結衣さんと母さんが、お互いの家に用意したものだ。

 エプロンを外し、甘いクリームを溶かすように紅茶を飲みながら、二人で映画を観る。写真の呪いから逃れるために、呪いの原因を究明しようとするホラー映画。

 お化け屋敷が苦手な朱音もホラー映画は好きで、あの日以来、夕飯後に一緒に見るようになった。


「写真で思い出したけど、美菜と雨宮さんが学園祭で写真を展示するみたいよ。部活展示だって」

「どんな写真か気になるな」

「楽しみ。ただ、当日にならないと見せてくれないでしょうね」


 テレビでは、ホラー映画にありがちなロック調の曲が流れるご機嫌なエンドロールが映っていた。




 クレープ作りをしてから一週間、僕の放課後は本格的に始まりつつある学園祭の準備一色に染まりつつあった。この一週間は、朱音とは一緒に帰ることもせず、一度も一緒に夕食を食べることもしなかった。何となく日常だったものが無くなると寂しく感じる。

 量産されていく、模擬店の看板の下書き。

 飾り付けようの小道具。

 書き足されていく買い出しリスト。

 入れ替わるように手伝いに来てくれるクラスメイト。

 みんなが床に座って作業をしている。散らかるカラーペンと、段ボールの破片が学園祭らしさを一層引き立てる。

 一人ひとりに作業を割り振っては計画を進めていると、忙しさに目眩がしそうだ。

 向かいに座ってポスターを描いてくれる川口さんも、忙しそうにペンを動かしていた。こうしている内にも、教室に戻ってくたクラスメイトが声をかけてくれる。


「篠崎、今日は何か手伝うことあるか」

「リストはここにあるから、買い出しを頼んで良いかな」

「了解、行ってくる」

「紫苑、俺達は何を作れば良い。飾り付けか」

「頼む。作り方は誰かに聞いてくれ」

「ああ、任せてくれ」


 毎日クラスの半分くらいが、部活を抜け出してまで作業をしに来てくれていた。そのおかげで準備は順調に進んでいる。


「やっほ。紫苑くん、元気? 私達も部活抜け出してきたんだけど、この看板作りを手伝いたいな」

「一條と雨宮か、頼むよ。この下書きどおりに段ボールに描いて。ところで展示用の良い写真撮れた?」

「あれ、写真の展示のこと知ってたんだ。そっか、朱音ちゃんに聞いたんだね。恥ずかしいから、私が展示室に居るときに見に来ないでよ」

「はいはい、気をつけるよ」

「ごめんね、篠崎くんに任せっきりで。私もサブリーダーになったのに」

「気にしないでいいから、部活も大変だろうし」

「ありがと。私も頑張って良い写真撮るから見に来てね。......ちょっと恥ずかしいけど」


 雨宮と約束をしながら、段ボールの看板に鉛筆で短い線を引いていく。でこぼこな段ボールの上で、真っ直ぐに引けなかった何本もの薄い線が、直線になって、曲線になる。

 そして、その全てが合わさって一つの模様が出来上がった。

 絵が苦手だから心配だったけれど、下書きと見比べても悪くはない出来だと思う。

 ただ、一條と雨宮の手元には僕のよりも綺麗な絵が描かれていた。

 本当、簡単に描いているっていうのに上手いよな。

 軽くショックを受けつつ、続きを描くために手を動かしていると、委員長を始めとするクレープ作りをしていた班が戻ってきた。最後に教室の扉を締めた朱音が、こっちを見て口を小さく動かした。

 

「か・ん・ぺ・き」


 多分あっているはず。

 苦労して作ったクレープ案が上手く行ったみたいだ。


「お・め・で・と・う」


 僕もそっと口を動かし、小さくピースを作った。

 伝わっているかな。


「ば・か」


 誰にも分からないような笑顔を一瞬だけ浮かべ、腰のあたりでピースが帰ってきた。

 なんとか伝わったみたいだ。

 不意打ちの反応。今の一瞬、朱音を可愛く思ってしまったのは、少し疲れているからかな。

 まだクレープは食べたくないなと思い直し、再び鉛筆を握って続きを描くことにする。


「どうしたの篠崎くん」

「いや、なんでもない。そんなことより、雨宮はクレープ好き?」

「うん、私は......好きだよ」

「よかった。美味しいの作ろうな」

「えっと、そうだね」


 気分を紛らわすように、唐突な話をして雨宮を困らせていると、今日も下校時刻のチャイムが鳴った。

 教室全体の空気が弛緩するのを感じる。この気が抜ける瞬間が好きだな。

 向かいに座る川口さんが「お疲れ、今日もありがとう」と声をかけてくれる。この一週間、毎日この言葉を聞いているな。新しい習慣になっていた。

 川口さんに「お疲れ」と返しながら、作っていた看板や装飾の片付け場所を指示し、帰り支度を終わらせる。

 いつの間にか五月も折り返していた。こんな生活があと一ヶ月は続くのか。

 まだ日が沈まず、明るい午後六時半。部活帰りの制汗剤の匂いが漂う玄関を抜け、いつもの帰路についた。

 ただ違う点は、僕の隣には川口さんがいて、朱音の隣には委員長の葉山がいることくらい。

 僕は今日も川口さんと二人で、準備についての打ち合わせをするために駅へと向かう。

 朱音からの『今日も夕食無理そうだね』というメッセージに返信をしながら。




 ああ、はやくいつものゆっくりとした生活に戻りたい。

 学園祭とか、リーダーとかは僕には眩しすぎる。

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