第11話 ロストメモリー
「ただいま」と、リビングの扉を開ける。
「おかえり」と椅子に座ったまま振り向く母さんの姿が目に入った。
今日は言われた通り早めに帰宅したのだが、これから一体何があるのだろう。面倒なことでなければいいのだが。
冷蔵庫から、緑茶を取り出しグラスに注ぐ。新緑のような若葉色が、日差しに照らされ綺麗に輝いている。
冷たいお茶を飲み、体を落ち着けながら疑問に思っていたことを尋ねる。
「早く帰ってこいって言ってたけどさ、これから何かあるの」
「よかった、ちゃんと覚えてたのね」
さっきまで忘れてたけどな、と心の中で言いつつ話の続きを聞く。
「夕飯食べに行くよ。だからちゃんと着替えといてね、五時半……あと一時間くらいしたら出るから」
「いきなりだな。いや……まあ良いけど、どこに行くんだ」
「それは行ってからのお楽しみ。イタリアンだから期待していていいわよ」
「はいはい、時間になったら呼んでくれ」
本棚から適当に一冊を選び、部屋でくつろいでいると時間になり呼ばれる。着ていた薄手のパーカーの上にジャケットを羽織り、母さんに連れられ近くのバス停へと向かう。この時間になると、まだ少し肌寒く感じた。
夕日に照らされたバスに揺られること二十分、落ち着いた雰囲気の大通りに到着する。バスを降りると道の左右には、おしゃれな雑貨屋や、カフェが立ち並んでいる。
そこから歩くことさらに五分、辺りもすっかり暗くなった頃、オレンジ色の灯りに照らされた、小さなイタリアンレストランが見えてきた。
「目的地って、あそこに見えるレストランか」
「そうそう」
何やらスマホを確認しながら答える。
「もう先に着いてるって、急ぐよ」
「待って、そんなに急がなくてもさ……。最後に一回聞くけど、変な人に会わされるのは嫌だからな」
何故だか嫌な予感がする。自分の意識が、ここから進むべきではないと警告しているようだ。
誰に会わされるんだろうか。
「心配しなくても、一人は知ってる人だから大丈夫よ。ほら早く」
「……はぁ、分かったよ。信じる」
そう言いつつ、レストランの扉を引く。店内に閉じ込められていた、トマトやバジル、オリーブオイルの香りが僕を包み外へと流れていった。
母さんがウェイターに、待ち合わせをしている旨を伝えると席へと案内される。その後に着いていき店の奥へと進む。
「あちらになります」と、示されたテーブルには人影が二つ。そのうちの一人が振り返り、手を振った。聞き覚えのある声がする。
「桜、こっち」
「ごめんね、待った?」
「いやいや、全然。ほら、紫苑くんも座って」
そうだ、結衣さんの声だ。母さんの知り合いだったのか。
結衣さんに促されるままテーブルへと着く。母さんが結衣さんの前に座り、僕はその横に座った。目の前には、髪の長く白いワンピースを着た女の子。
硬く、緊張したような顔をしている。
「元気だったか」
「……おかげさまで」
五十嵐と何時間ぶりの再会。
顔を上げた五十嵐と目が合ったので呟くように声を掛けた。ほんの一瞬目を見開いた後、僅かに安心した表情をみせる。多分、僕も同じように安心した表情をしているだろう。
「どうしてこんなことになったんだ」
「私が知りたいわよ」
どうしてだろうか、と二人で顔を合わせる。
イタリアンレストランで五十嵐と向かい合っている状況を、未だに受け入れていない自分がいる。それは五十嵐も同じようで、お互い自分たちの親の様子を静かに窺っていた。
「そうだそうだ。久しぶりだね紫苑くん。紹介するの忘れてたよ、この子が朱音。って、もう仲良いのかな」
「いや、仲良いなんて……そんなことないですよ」
「そうなの? さっきの様子を見てたら、てっきり仲良いのかと思ったんだけどな。そっか、でも、親の私が言うのもあれだけど、この子可愛いと思わない?」
「んー……結衣さんと似てるなって思いますよ。可愛いっていうか綺麗ですよね」
テーブルの下でコツっと靴を蹴られた。
そういうことを言うなと、すぅっと細めた目が訴えかけている。その心底嫌そうな冷たい目が本当に綺麗ですよ。本当に。
「よかったね、朱音。綺麗だって」
「別に嬉しくないわよ。篠崎君、こういうの誰にでも言ってるから」
誤解されるようなことを言わないで欲しい。誰にでもは言わないし、そんな普段から言っている気も無いのだけれど。
隣から「あら」と声が聞こえ、絶対に良くない流れになるのが目に見える。
「この子、普段からそんな事言ってるの。駄目よ、言うタイミングは考えないと。今みたいに信じて貰えなくなるし、喜んで貰えなくなっちゃうから」
「でも桜、紫苑君みたいな子に綺麗って言われたら、何回でも嬉しくなると思うよ」
「それもそうね。この子、外見は悪くないのよね」
ほら、酷い流れ。
結衣さんと母さんの二人が、自分の話題で盛り上がってるこの空間から逃げられないだろうか。事の発端となった五十嵐は、その様子を見て笑っている。これはさっきの仕返しだ。
どうしようかと悩んでいると注文していたカプレーゼが出され、幸いなことに話が中断された。
小さく五十嵐の靴を蹴って、モッツァレラチーズと真っ赤なトマトに手を伸ばした。瑞々しくて美味しそうだ。
「そういえば、母さんは五十嵐に挨拶しなくていいのか?」
「忘れてた、私が紹介するね。朱音、この人が桜。私の友達、っていうより紫苑君のお母さんって言った方が分かりやすいかな」
「このタイミングならどっちも変わらないわよ。初めまして桜さん、朱音です」
「朱音ちゃんは、結衣に似て本当に綺麗になったね」
「ん? その言い方だと前に五十嵐と会ったことあるのか」
「もちろんよ。結衣とは、あなたたちが子供の頃に仲良くなったんだもの」
「そうだったね、桜とあった頃は二人とも小さくて可愛かったな。それにしても、やっぱり二人は覚えてないんだね」
そんなことを話されても、全く記憶になかった。五十嵐に聞いても、僕と同じように覚えていないようだ。
母さんたちが口裏を合わせ、僕らをからかっているのかと思ったが、それは違うだろう。この二人の話が事実なら、四人で食事をしているというこの状況にそれなりの説明が付くからだ。
それに、一つ疑問に思っていたことが解決しそうだ。
きっかけ小さな小さな違和感。
皿に残っていた最後のカプレーゼを食べながら、考えをまとめた。
「もしかして結衣さんが引っ越しの挨拶に来た時、篠崎って苗字を聞いて驚いてたのは、この辺りに住んでいるはずの友達の苗字と一緒だったから?」
「そんなこともあった、あった。近くに住んでいるのは聞いてたんだけど、まさか桜があそこに住んでるとは思わなくてね。あれは驚いたな」
「最後に僕の名前を聞いて『よかった』って言ったのは、確信したってことですか」
「おっ、正解だよ。そんな会話、よく覚えてたね」
そういう小さな会話は覚えているのに、五十嵐と会ったという記憶はすっかり抜け落ちていた。思い出そうとしてみるがはっきりとせず、頭の中に霧がかかったように考えが進まない。
「桜さん、その頃の話は聞けないの? 篠崎君とどこで会っていたかとか。全然思い出せなくて」
「僕からもお願いするよ。五十嵐との記憶が全然ないんだけど」
「教えても良いけど……ねぇ、結衣」
「ふふ、分かる分かる。そうだよね」
「二人ともが、名前で呼び合うくらい仲良くなったら教えてあげるよ」
「うんうん、苗字だと私たちも反応しちゃうからね」
そんなわけないだろと言いたくなる気持ちを抑え、五十嵐のことを名前で呼ぶ姿を想像する。
朱音か。
まだしっくりこない。
「あらら、二人とも固まってるね。面白いなぁ」
「早く二人が仲良くなってくれれば良いな。ね、結衣」
「そうね」
五十嵐と見つめあったまま、お互い何も言葉を発しない。
テーブルの上には、いつの間にか出されていたラザニア。惜しむことなくかけられたパルメザンチーズの香りが、僕らの意識を現実に戻した。
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