あの日の初恋に一輪の花を

すぐり

運命

プロローグ

 匂いを嗅ぐと、ふと思い出す記憶がある。

 たぶん、多くの人がそんな記憶を持っているだろう。

 酸っぱいレモンの香りや雨が降った後の柔らかな土の香り、そして、じりじりと湿っぽい日差しの下で、すぅっと香る制汗剤の匂い。他にも、帰り道にどこかから漂ってくる、作りかけの肉じゃがの優しい匂いなんかもあるかもしれない。

 こんなものは、人の数だけあると思う。

 十人十色。いや、十人十香。

 こんな事を言っている僕は、水の匂い、塩素の匂いを嗅ぐと思い出す記憶がある。これは、僕の初恋の香り。忘れたくない思い出、消してはいけない想い。

 いい歳して未だに初恋を引き摺っているのかと思うかもしれないが、僕にとっては一番の宝物だ。そして、あれを最初で最後の恋にしようと決めたんだ。

 僕には誰かを幸せにすることなんて出来ないから。



 なんて重々しいことを考えている僕は、絶賛風呂掃除中。

 改めて考えてみると、すごく恥ずかしいことを考えていたような気がする。何が初恋だよ。何が、最初で最後の恋だよ! もう何もかも、この塩素系漂白剤が悪いんだ。この塩素の香りが変な記憶を思い起こしてくるせいなんだ。このまま頑固な黒カビと一緒に、今までの恥ずかしい独白も綺麗さっぱり消してしまいたい。

 恥ずかしさのあまり、体に変な力が入ってしまう。

 あぁ、穴があったら入りたい。いっそのこと、このままバスタブの中で冬眠をする熊のように眠ってしまおう。

 丸々一年、来年の春までおやすみなさい。



 こんな風に一人で勝手に身悶えていると、


「ピンポーン」


 インターホンを鳴らす音が聞こえた。




 「はーい」


 急いで風呂掃除で使っていたゴム手袋や、捲っていた袖や裾を正しながら玄関へと向かう。

 洗面台の上に乗せておいたスマホには、午後三時と表示されていた。


 「こんな時間にお客さんか、珍しいな」


 普段は滅多にない来客に、疑問を感じながらも玄関に向かう。その途中、居間に掛かっている時計が目に入った。時刻は午後二時で止まっている。もしかして壊れたか? だが今はそんなことを気にしている暇はない。

 はやく誰が来たのか確かめないと。 


 そういえばインターホンの音は、マンションのエントランスからではなく、部屋の入口に付いている方の音だった。ということは、エントランスを自由に通過できる人間か、誰かが鍵を開けた後に入った人間だ。

 突然のホラーな展開に緊張する。後者なら慎重に行動しないといけないな。


 「こうなると宅配便でもないだろうし、誰だ……」


 ドキドキしながらドアの覗き穴を見てみると、その向こうには人の良さそうな笑顔を浮かべた2、30代くらいの女性がいる。さらにその奥には、引っ越し用の養生が貼られた壁。

 あっ、なるほど。少しだけ全身の緊張が解けた。


 「どちら様でしょうか」


 と、さっきまでの警戒心を相手に悟られないように自分の持つ最高の笑顔で扉を開く。顔は引き攣っていないか、大丈夫かな。いつだってそうだ、初対面の人と話すのは緊張する。第一印象。第一印象が大切だ、ここで失敗するわけには……。


 「あっ、こんにちは。この度、隣に引っ越してきた五十嵐結衣です。よろしくお願いしますね」

 「こんにちは。えっと、篠崎です。こちらこそ、よろしくお願いします。ちょっと今、母は仕事でいないんですよ。あー、そうだな、母にもよろしく伝えておきますね」


 うわぁ、最悪だ。何を言おうか考えていなかったせいで、言葉が継ぎ接ぎ状態。第一印象はダメダメ。


 「えっ、シノザキさん? あっ、もしかして……でも、そんな」


 どうしてだろうか結衣さんが、戸惑ったようにチラチラとこっちを見てくる。何か勘違いでもしていたのかな。

 んっ? 勘違い。勘違いか、そうなると……。一つ思い当たった節があり、ドアの横を見る。なるほど、このせいか。

 SHINOZAKI とローマ字表記していた表札だったが、頭文字の S が抜け落ちて HINOZAKI になっていた。

 誰だよヒノザキって。いつの間にこんな風になっていたんだろうか、今まで気付かなかった。


 「この表札、Sが消えてヒノザキになってましたね。すみません」

 「あっ、いえ大丈夫ですよ! こちらこそ、取り乱してごめんなさいね。そうだ! これ、引っ越し蕎麦です。他にも、洗剤とかもあるので使ってください」


 渡された紙袋の中には、蕎麦や洗剤、柔軟剤などなど、引っ越しの挨拶とは思えない量が入っていた。その中には、さっきまで使っていた塩素臭いカビ用の洗剤も。

 というよりも、こんなに貰って良いのだろうか。右手にかかる重さが不安を誘う。


「あの、こんなに貰っちゃって良いんですか? 気持ちだけでも充分なんですけど」

 「ははは、良いの良いの。私がね、蕎麦かな? 洗剤かな? って何を渡そうか迷っていたら、娘に『全部渡せば?』って言われてね。だから、全部渡すことにしたの。だから気にせずに受け取って下さい!」

 「じゃあ、お言葉に甘えて……ありがとうございます」


 照れたように笑っている結衣さんに対し、不覚にも少し可愛いなと思ってしまった。きっと、結衣さんの娘も綺麗な笑顔をするんだろうな。

 羨ましい。

 幸せそうな家族だ。



 と一人考えていると、結衣さんの後ろを忙しなくダンボールを抱え、行ったり来たりしていた引越し業者が、足を止めてこっちを見た。どうやら、搬入が一段落して、こちらが話し終わるのを待っているらしい。


 「搬入が終わったようですよ」

 「あら、本当だ。長話しちゃった、ごめんね。じゃあこの辺りで、失礼しますね」

 「こちらこそ、今後ともよろしくお願いします」


 簡単な挨拶をして別れた。結衣さんが隣の部屋へ帰る途中、「最後に一つ」と振り返って言った。


 「最後に、篠崎くんの名前を聞いてもいいかな」

 「紫苑です。花の名前と一緒です」

 「紫苑くんか、良い名前だね。あぁ、良かった。お母さんにもよろしく伝えて下さいね」


 そうして手を振りながら、結衣さんは再び歩き出す。僕は、その後ろ姿をぼうっと眺めていた。



 玄関の扉を閉めると、仄かな花の香りとダンボールの匂いが漂っていた。

 いつかこの匂いを嗅いだときに、今日の事を思い出す日が来るのかな。



 こうして春休み最後の一日が過ぎていった。明日からは高校生活が始まる。不安もあるし、少しだけ楽しみもある。

 まぁ、あまり期待はしないけれど。




 運命というのは生まれたときから決まっている。それは多くの人の人生が交わって、絡まって必ず一つの結末へとたどり着く。そう、ドミノみたいに。


 

 何だか今日は、いままで止まっていた時が動き出したような気がした。

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