幽霊猫
やんばるくいな日向
第1話・幽霊猫と白桜荘
「――困るんだよね」
小太りの大家さんは入り口から俺の部屋を見回す。
1Rのさほど広く無い部屋。見回すだけですべてが確認出来る。
「お隣さんから猫の声がするって苦情が来てるんだよ。飼ってない?」
「……」
俺は一瞬言葉に詰まった。
猫。
小鉄は普段はあまり鳴かない猫だ。だけど俺が仕事を終えて帰宅すると大喜び。甘えた声をひとつふたつ上げる事もある。それ以外は基本的に静かな猫なのだ。
でも、小鉄は少々特殊な猫だ。飼っている、とはちょっと、言えない。
だがそれを説明するのも、かなり、嫌だ。
「……大家さんの想像する猫は、飼ってません」
ようやく答えたのはそんな言葉だった。
大家さんは鼻を鳴らし、更に首を部屋に突っ込み、見回す。
キッチン横の壁際。そこに置かれた、猫のトイレが目に入ったのだろう。鬼の首を取ったような表情になった。
「大野さん」
大野――大野 基樹。それが俺の名前。嫌いな名前ではないが、こういう嫌な声で呼ばれるのは好きじゃないな。
大家さんは太い指で猫トイレを示した。
「あれ、なに?」
「掘るのが好きなんですよ、使いもしないのに」
「はぁ?」
何言ってんだコイツ、と言う顔をされた。
呆れ顔もすぐに消え、大家さんは言葉を続ける。
「猫のトイレでしょう、アレ。猫飼ってるんだ、やっぱり? 此処がペット禁止だって知ってるよね、大野さん」
「いえ、でも、大家さんの考えているような猫は飼ってません」
ああ、どうしようか。
全部説明したら信じてくれるだろうか。
その時だった。
にゃん、と。
可愛らしい子猫の声がした。
大家さんと俺の視線が動く。
猫の声は、大家さんの足元。玄関先から聞こえた。
だがそこには誰も居ない。
僅かに風が動くだけ。
「……」
外に遊びに行っていたのが帰ってきたらしい。
大家さんは辺りを見回している。
猫の声がもう一度、した。今度は俺の足元。俺の目にも何も見えない。
だけど、すり、と俺の足に擦り寄る気配はあった。
挨拶を終え、そのまま行くのは多分――猫トイレだ。
ざ、と。
砂を掘る音。
ざざ、と砂を掘る音が続く。
姿は見えない。だけど、何か――例えて言うのなら、小さな猫が、砂を掘っているような状況が、俺たちの目の前で繰り広げられる。
俺はひとつため息。
手で猫トイレを示し、言った。
「……これが、俺の飼っている猫です」
どすん、と。
目をまん丸に見開いた大家さんが、腰を抜かした。
『幽霊猫と白桜荘』
夏には少し早い、過ごし易い季節。今日はとても良い天気。散歩日和だ。
……散歩ならいいんだけどね、と俺はこそりとため息を付いた。
「小鉄」
俺の呼び声に、にゃん、と小さな声。
だけど姿は見えない。
鳴き声と、俺のスニーカーを履いた足に絡まる気配だけが、小鉄の存在を示す。
小鉄。それが俺の飼猫。
小さな子猫。甘えん坊だが頭が良く、人の言葉も理解する。餌に関しても我侭は言わないし、とても良い子だ。
ただし、幽霊。
そう、小鉄はとっくの昔に死んでいる。
俺が小学生の頃、お隣さんで子猫が生まれた。
その一匹を貰う約束を取り付けていたのだが、子猫は俺の家に来る前に死んでしまった。
子猫が家族になるものだと思い込んでいた俺は泣きながら子猫の死体に繰り返した。
――幽霊でもいいよ。幽霊でもいいからうちにおいでよ。
人の魂は四十九日間、人の世に留まるらしい。
それは猫も一緒だったらしく、死んだばかりの子猫の魂は俺の元へやってきた。
鳴き声と、小さな気配だけを伴って。
猫が居ると嬉しそうに騒ぐ俺を、親は子猫を失ったショックから来る症状だと思い込んでいたらしい。
それも、家の中で起きる奇妙な現象の前には考えを改めたようだが。
可愛らしい鳴き声。夜中に廊下を走る軽快な音。そして、擦り寄ってくる気配。
生きている子猫と何の変わりも無い。ただ見えないだけだ。
気味悪がる家族との長い争いは別の話で――とにかく、小鉄は俺の家族となった。
あれから、もう十年以上が過ぎた。
小鉄はいまだ俺の傍に居る。ずっと、ずっと。俺がどんな場所を選んでも、傍に、居てくれた。
「なぁ、小鉄」
俺は足元に視線を送る。
「新しいアパート、見つかると思うか?」
にゃん、と。
小鉄は可愛らしい声を上げるだけだ。
俺と小鉄はあのアパートを追い出された。
正しく言うと今週末までに追い出される。
今すぐ出て行けと言う大家さんを説得の結果、何とか今週末まで期限を延ばして貰ったのだが――
新しい部屋は見つかりそうも無い。
仕事は休みを貰ったし、今日一日掛けて探す予定だったが、半日過ぎた現段階では希望の部屋は見つかる様子もみせない。
条件は、家賃が安い事。恥ずかしい話だが安月給。高いアパートなんかには住めやしない。
それから。
出来るんだったらペット可。小鉄が鳴いても怒られない場所にしたい。
「なぁ、小鉄、そうだよな?」
そこで気付いた。
小鉄の気配が無い。
「……小鉄?」
考えながらも俺は歩いていた。先ほどまで小鉄は散歩が嬉しいのか、ご機嫌の様子で俺と一緒に歩いていた。
迷子になる筈も無い。
考え、俺は振り返る。
少し後方。
道の真ん中に男が屈みこんでいた。
「……」
一瞬、引いた。
派手な和柄のシャツに、鮮やかな金髪。
人を見た目で判断するのは好きじゃないが、正直に言えば俺の苦手とするタイプの気配が満々。
そいつは俺に背を向けて地面に屈みこんで――
「――タマ、タマ」
なんて声を掛けているのだ。
………タマ?
嫌な予感。
俺はそっと近寄る。
男の背後から手元を覗き込めば、そこには何も居なかった。
ただ男の手が動いている。
まるで、子猫を撫でているような手付きで。
「………あの、スイマセン」
「……ん?」
男が顔を上げ、肩越し、俺を見た。
蒼い瞳と真っ向からぶつかる。
青空と同じ色の瞳を細め、男は怪訝そうな表情。
「……なに?」
「え、ええと」
俺は男の手元を指差した。
「……タマじゃありません」
「………」
「小鉄、です」
「……」
男はじっと自分の手元を見る。
小鉄を、見ている。
「いいじゃねぇか」
男からの反論。「猫はタマ、犬はポチ。それでいいじゃねぇか」
「よくありません。小鉄は小鉄。ちゃんと俺が付けた名前が――」
「気にするな五郎」
「……五郎って」
「日本人なら五郎だろう」
「訳の分からん事言わないで下さい」
何だこの人。
それにどうして、小鉄の存在に気付いて――
気付いて?
俺はようやくその事実に気付いた。
慌てて男の前に回りこむとその両肩に手を置く。
逃がさない、覚悟。
「なんで小鉄が見えてるんですか」
「……は?」
男の蒼い瞳は更に細められる。呆れ果てた色。
手はいまだ小鉄を撫でる手付き。耳を澄ませば、ごろごろと喉を鳴らす音が聞こえてくる。
小鉄は男の手に撫でられてご機嫌になっている。
「小鉄は幽霊なんです」
「……」
「今まで見えた人は一人も居なかったんです」
俺の言葉に。
男は、ふぅん、と鼻を鳴らした。
それからもう一度小鉄を見て、少しだけ、笑った。
「こんなに可愛いのにな」
勿体ねぇ、と呟いた。
凄い情けない話だけど。
男が小鉄を褒める言葉を聞いて、俺は、思わず、ぼろぼろと泣き出していた。
男は俺の顔を見上げている。
呆れ果てた色ではなく、ちょっとばかり口元に笑みを与えて、俺を、見た。
それからすぃっと視線を逸らすと、地面の小鉄を抱き上げた。
俺には見えない猫を抱いて、男は俺が泣き止むのを待ってくれた。
男は俺が泣いた事に関しては何もコメントしなかった。
小鉄の話ばかりを聞きたがった。
道の端。男はガードレールに腰掛けて俺の話を聞いている。何やら布製の袋に納められた長い物を手で弄びながら、ずっと。
小鉄は甘えた声を短く上げて、俺と男の間を駆け回っていた。
「――で」
話を聞き終えて、男は顎に手を当てて呟いた。
「五郎はタマのせいで部屋をおん出されたって訳だな」
「五郎じゃありません。大野 基樹」
「そっか。――で、部屋は見つかったのか、五郎」
全然人の話聞いちゃいねぇ。
まだ出会ったばかりだが、諦めた方が良い気がしてきた。
俺は訂正もせずに答えた。
「まだ見つかってません」
「見つかるアテは?」
「ありません」
ふぅん、と男は長く頷いた。
考え込む表情。
ぽん、とガードレールから降りて、男は手に持っていた長い物で己の肩をぽん、と叩いた。
そして笑顔を俺に向けて口を開く。
「一万円」
「………は?」
「部屋は8畳一間。風呂トイレキッチンは共同。食事代は別。メシは美味いぞ。和食しか出ねぇけど」
「え?」
「一万円の別に、イベント用集金が月千円。春は花見、夏は花火、秋は月見で冬は温泉」
それから、と男は、更に笑みを深めて言葉を続けた。
「それから――勿論、ペット可」
俺はもう少しだけ考えて、ゆっくりと男に問い掛けた。
「……それって、部屋を紹介してくれる、って言ってるんです、よね?」
「そうじゃなきゃアレか? 俺が自分の住んでいる場所自慢をてめぇにしてると思ってんのか?」
「ちょ、何で急に喧嘩腰なんですか!」
この人、本当によく分からない。
蒼い瞳を半眼に、男は俺をもう少し見て、それからついっと歩き出す。
付いて来い、とは言われなかったが、小鉄が可愛く鳴くものだから、俺も黙って男の後を付いていった。
歩いた距離は大した事無かった。
俺たちが行き着いた先は、古い個人病院だった。
「………え?」
俺は高い塀に囲まれた病院を指差す。「此処……病院ですよね」
「昔はな」
門に付けられた『白井病院』と書かれたプレートを拳で軽く叩き、男が言う。「もうとっくの昔に廃院になって、今は安アパートだ」
門をくぐれば庭は思った以上に広かった。見事な大木が青々と葉を茂らせている。
「桜だ」
男からの説明。「春はこの下で花見」
春になればさぞ見事だろうと思わせる樹。その樹の下を歩き、病院にしか見えない建物へと近付く。
入り口の前に、女の人が一人、箒を手に掃除をしていた。
俺たちに気付くと、彼女は掃除の手を止め、にこりと笑顔を見せた。
「竜さん」
りゅう、さん。竜さん?
そこで俺はようやく男の名前を知った。
「竜さんお帰りなさい。――御友達?」
後半は俺に向けての台詞。
竜と呼ばれた男は肩に担いだままの長物で俺を示し、言った。
「部屋を探しているんだってよ。八号室、開いてたよな?」
「えぇ、御神楽さんが出て行ってしまってから、ずっと」
「ならこいつが入りたいって」
「あら」
女の人が笑顔で俺を見る。
綺麗、と言うよりも可愛らしい顔立ちの人だ。随分と小柄で、せいぜい150センチぐらいしか無いように思える。
その小柄な身体を包むように、黒髪が長く長く伸びている。首の後ろで緩く結んでいるが、腰よりも長く伸ばされているのが確認出来た。
「初めまして、此処の管理人、桜井 茜です」
「俺は――大野です、よろしくお願いします」
「そちらの可愛い子はお名前なんて言うのかしら?」
桜井さんの視線は俺の足元に向いていた。
小鉄。
まさか、この人、も?
竜さんを見たのなら彼は小さく頷いた。
「多分、此処の住人はみんな見える」
良かったな、と。「タマの遊び相手も増える」
「あら、タマちゃんって言うのね」
「違います、違います! 小鉄、小鉄です!!」
「小鉄ちゃん? あら、可愛いお名前」
桜井さんは竜さんの言動に慣れているのか、にこにこと可愛らしく笑っている。
その笑顔のまま、彼女はドアを開いた。
「さぁ、どうぞ。中で色々とお話しましょう? 大野さん」
「は、はい!」
俺の返事に微笑んで、桜井さんはゆっくりと言った。
優しい、声で。
「ようこそ、白桜荘へ」
ドアの横。
よく見ればそこに小さな表札。達筆の墨字で、『白桜荘』とくっきりと描かれていた。
そして、俺は白桜荘の住人となった。
病院を改造したこのアパートは面白い作りとなっている。
でもまぁ、それはまた別の話。
「小鉄」
俺のベッドの上に丸いくぼみ。小鉄がそこで丸くなっている証拠。
俺が仕事に行っている間は誰かが小鉄を構ってくれているらしい。小鉄はとても此処が気に入ったようだ。
「良かったな」
くぼみの形が変化。小鉄が寝返りを打ったらしい。
俺は小さく笑った。
終
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