第2話 あなたと暮らします
…何の冗談だ。そう問い詰めようと思った。今日から住む場所、と言いながら僕の住所を見せてくるとは手の込んだいたずらか質の悪い冗談か、そんなものだろう。
バカにしているというかそういう次元を通り越して恐怖すら感じる。
「何かの間違いじゃないか…?だってほら、この住所、俺の家と一緒だし」
明らかに間違いだ。この年の少年少女がどんな事情があって一つ屋根の下で暮らすようになるのか、見当もつかない。
だが当の少女は目をぱぁっと輝かせて。何を思ったか俺に飛びついてきた。
俺より身長が十センチほど低く、その少女の髪から香る花のような匂いが鼻孔を擽る。それと同時に、眩暈がしそうなほどのいい匂いに、どこか懐かしさを感じた。
「やっと会えたぁ…。ひのと、にぃだよね?会えてうれしぃよぉ、ひのとにぃ…!」
大きな丸い瞳に涙さえ浮かべながら俺の真新しい制服に頬ずりしてくる少女。
だが、その仕草、匂い、呼び方、声、すべてが俺の幼き日の記憶に当てはまる存在が居た。
「…大丈夫か?丁。警察、呼んどくか?」
「ステイ拓海。同い年、よって、セーフ」
「にしたって抱き付くのはうらやまけしからんだろ、捕まれ。
っつーか知り合いか?お前の彼女ってわけじゃないだろ」
「ほう、一度でも僕に彼女がいたっていう話があったなら聞こうじゃないか」
「それ、中学時代の七不思議の一つ。何故丁に彼女がいないのか。意味が分からな過ぎて挙句の果てに俺と噂が立ってたぞ。やめて」
「願い下げ」
勿論この少女が俺の彼女なわけがない。だってこいつ会うのはそもそも八年ぶり、そのころは携帯電話すらお互い持っていなかった。お互いの家にアポなしで押しかけ、遊びの約束を当日持ち掛ける。
そんな時代が僕にもあったわけだが。そんな時によく遊んでいた少女がこの目の前にいる少女。
「…馨、か?ずいぶんと白くなったじゃねえか気づかんかったぞ」
「よかった、気づいてなかっただけなんだよね?忘れてたとかじゃないんよね?」
「覚えてるっての」
だが問題はこれからだ。僕のことを覚えているということは何でもかんでも忘れてしまうわけでは無いらしい。かといって行きで乗ってきたであろう電車に乗れないというのもまた不思議だ。髪が白くなってるとかの疑問点はまだまだあるがそんなのは家に帰って落ち着いて状況を把握してからでも解決するのは遅くない。
「とりあえず電車に乗るよ。うちに住むって本気で冗談かと思ったんだけど冗談であんな田舎からここまでやってくるなんてできないだろうし、とりあえずは全部言ってること信じて行動する。お家に着いたらまたいろいろ確認する」
流石に僕としても…そうですか、とはいかない。何故ならうちの家庭がどういう状況になっているのか自分でも把握しきれていないのだ。こんなぐちゃぐちゃになった家庭にどうしてこんな純粋無垢の塊みたいなやつがやってくるのだろうか。
「えっと、そのことなんだけどね?ママが、『丁くんのお父様と結婚するからあなたは丁くんのお家に行って二人で暮らしなさい』って」
「…そうか。もういい、二度とその話はするな」
最悪な気分だ。懐かしき日々を共有した少女と過ごせることが嫌という訳ではない。むしろそういった事実は思わぬところで幸運を手にしたようなもので個人的には嬉しいし魅力的な提案だ。
…だが、なんだこれは。この少女は無垢だ。どこまでも白く、透き通っているのかと錯覚すらしそうなほどの純白。それ故に薄汚れた大人の事情など知らないのだろう。
あまりに純粋無垢というのも時に毒だが、それもまた彼女の魅力。これが損なわれることがあってはならないし、失われる要因があるならば僕には全身全霊を以て彼女からそれを遠ざける義務がある。
見え透いた浮気性の大人の濁った心など見通せないままでいいのだ。
このようなことを考えている時点で僕自身純粋ではないし、そもそも純粋だと一度も考えたことは無い。
僕という人間自身もある一種の観点から見てみれば黒だ。濁り切った淀みの黒に違いない。けれどもそれは僕にとっての最適解であるとともに、偽りなき自らへ課した矜持の具現。嫌われても疎まれても、また、どこまでも底辺に落ち、薄汚れたとしても彼女は幸せなままで、僕のような一種の最低な人間にならないようにしてもらわねば困るのだ。何故なら彼女は幼いころに親の不倫が発覚、学級内でいじめを受け、蔑まれていた僕に手を差し伸べてくれた、否、それだけでは飽き足らずともに踊り、笑顔さえ覗かせた。その笑顔にどこまでも救われ、支えられ今の僕がある。
ならば迷いはない。この身が砕けようとも、心が裂かれようともすべてをささげると誓った少女のために、努力は惜しむつもりはない。
不幸中の幸いとでもいうべきか。親は責任をもって俺たちにある程度の生活を保障していくつもりらしい。実に嘆かわしい。変なところで律儀になるくらいならもっと節度をわきまえた交際をしてほしいところだが、今さら何を言っても変わらない。
声を上げた程度で変化が訪れるのであればそもそも最初からこういうことにはなっていない。
何度もこうして諦めを繰り返してきた。きっとそれは変わらない。
静かに家に上がり、電気をつける。よく言えば綺麗に。悪く言えば無機質に掃除をされた部屋はどこか退廃的な印象をもたらす。
時が静止したとでもいおうか。時計の針が時を刻む音は聞こえるけれども、時の経過を感じない。どこまでもフラットな二次元的空間を想起させるこの家が僕は大っ嫌いだ。
「綺麗に片付いてるねひのとにぃ。お掃除はおばさんが?」
「あぁ、そうだよ。掃除上手だからね。といってもこれからはほとんど帰ってこなくなるとは思うけど代わりに僕が掃除とか料理とかするから心配しないで」
「んー!ひのとにぃ、すき!」
「いいかい馨、好きっていうのは簡単に言っちゃいけないんだよ。この世界は馨が思っているほど綺麗じゃない。悪い大人もいるんだから」
ここは釘をさしておく。いついかなる時も大人という忌々しいものの視線は拭えない。疎ましいとも心強いとも言われる視線だが、幼いころから汚れた世界に片足を突っ込んでいる僕からすれば喜色悪いことこの上なかった。
けれども目の前の白髪の少女は何処までも無邪気に微笑む。それが正しい。狂っているのはお前だと突き付けられながらその笑顔と対面する。この年代の少女に似つかわしい晴れ上がるような笑み。陽光を直視したかのように眩暈を起こす僕に――。
「だって大好きなひのとにぃが守ってくれるでしょ…?一生守ってやるって言ってくれたもん!」
「……ああ、もちろん。幸せにするよ」
そんなことも言ったな、と自嘲めいた笑いを心の奥に秘め、僕は虚ろな笑みを張り付けた。
記憶にまつわるエトセトラ。 いある @iaku0000
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