胡蝶

橘櫻花

第一章 堅香子《かたかご》


「あにうえ~。おなっていただかされ~」


平家の西八条だい、その奥まった一室で幼い声がする。

扉を閉め切っても陽の光がどこからか差し込んで、薄暗い塗籠の中にいる子供の姿を浮かび上がらせる。

その子供は床に衾を被って横になったままの――これもまたまだ幼かろう子供の身体を揺すり、起こそうと懸命になっていた。


「………うるさい、五郎…」


寝ている少年は鬱陶しそうに応えを返したが、起き上がる気配はない。

五郎と呼ばれた彼の弟は数えでまだ六つ、けれども卯の刻には目覚めて、半尻と呼ばれる子供用の短い狩衣をきちんと着込み、朝課の書の稽古も終えている。

ひとつ違いの兄はそんな彼と同室で生活していたが、まったく頓着無く惰眠を貪っているのだ。

いつものこととはいえ、これでは母に叱られてしまう、と五郎丸は兄を越こしにかかったものであろう 。


「でも、もう辰の刻を半刻もすぎております…」

「……巳の刻まで寝る」

「それでは昼餉の時間になってしまいます~」


半分泣きそうになりながらも、兄の被った衾をゆさゆさと揺らすことを止めない。


「しつこい……あっちへ行っていろ」


四郎丸はまた眠りの園に引きずり込まれていくようだった。

その時、廻廊を巡ってくる足音がして、彼らの房室へやの前で止まった。


「どうした、五郎。何を騒いでいるのだ」

「おおあにうえ!」


房室を覗き込んで、ひょい、と五郎丸を抱き上げたのは、背の高い男だった。

黒々とした髪を結い上げて立烏帽子を被り、深縹こきはなだの狩衣の腋から覗く蘇芳の単と葡萄色の指貫を鮮やかに着こなしている。眉太く、はっきりとした顔立ちで快活に笑う重盛しげもりは、兄弟中でもっとも父に似ていた。

父が四十を超えてできた子である四郎丸や五郎丸を、この長兄の方が父親であるかのように可愛がっている。


「なんだ、四郎はまだ寝ているのか。いい加減に起きねば朝餉を食い損ねるぞ」


五郎丸を下ろしてどかりと枕元に座り込んだ重盛を、ふすまの隙間から眠そうに見やって、それでも四郎丸は起き上がろうとはしない。

長兄に対する礼を失したこの態度に、五郎丸は大慌てで末兄の弁護を始めた。


「…おおあにうえ、あの、四郎あにうえは、もうおならしゃるとおっしゃいました。でも、おからだがお弱さんなので、すぐにお起なれないのです」

「五郎…」


そのいかにも慌てたさまに、重盛は思わず噴き出した。


「そのように必死にならずともよい。君子慌てず騒がず。内心どのように慌てていても、それを外に出してはならん」

「……ごめんなさい…」


叱られてしょんぼりと目を伏せる幼子に愛しさを隠せず、重盛は抱き寄せて膝に座らせた。


「…しかし、お前は優しい子だな。四郎が俺に叱られると思ったのであろう。それで四郎を庇うたのだな」

「だって…四郎あにうえは、わたしのだいじなあにうえですもの」

「そうか。そうだな」


微笑んで重盛は、五郎丸の頭を撫でた。


「よい子じゃ。そうやって、これからも兄弟を大事にするのだぞ。我が一門は、一族大事でここまでやってきた。その繋がりこそが、我らを強くしたのだからな」

「はい」


殊勝気に長兄を見つめて頷く子供にもう一度微笑みかけてから、重盛はふたたび四郎丸に目をやった。


「…四郎。何か言うことがあろう」

厳しい兄は、五郎丸とは年子である四弟にも容赦がない。

幼くとも平家の公達として、守るべき範があるとわかっているはずだった。にも関わらず、弟にその後拭いをさせていいのかと自覚を促す。

さすがにまずいと悟ったか、もそもそと起き上がった四郎丸は、兄弟の前できちんと正座して詫びた。


「………わるかった、五郎。おおあにうえも、ごめんなさい」


膝に置いた小さな手が単の裾を握りしめているのを見、兄は頬を緩めた。もともと誰よりも可愛がっている双子のような弟たちである。窘めることはあっても、本気で怒ることなどないのだった。


「わかればよい。さあ、起きて手水を使って衣服を整えなさい。父上や母上にお叱りを受ける前に、俺と庭に出て剣の稽古でもしよう」




「えいっ!」

「はっ!」


木刀を打ち合わせる音に混じって、子供の甲高い声が庭に響く。

重盛は、同時に二人の弟からの攻撃を受け躱していた。

彼の半分ほどしかない背丈の子供たちは、長兄の右と左から呼吸を合わせて打ちかかり、なかなか巧みな攻撃をしかけてきていた。

さすがに二人がかりとはいっても長兄を打ち倒すほどの力量はないが、その動きは幼いといって侮れるものではない。

ことに四郎丸の切っ先の鋭さは、とうてい袴着前の幼児のものではなかった。


(実のところ――)

重盛は胸の内で呟く。

(あれは総領である俺よりも、武の才に長けているのかもしれん…)


彼の長子惟盛これもりはおろか、正室時子の長子として今や重盛自身よりも一族で重んじられ始めた宗盛よりもさえ、四郎丸は武家平氏の長としてふさわしいようにも思う。

まだ幼いため真剣を握らせたことはないが、木太刀を繰り出す動きの素早さ的確さは、やがて一族の同世代中でも群を抜いた存在になるであろうことは間違いない。

今はまだ、力の強さで兄たちに叶うことはないが、それでも一歳上の惟盛とは比べものにならぬほどに粘り強く剽悍だ。

跡目のことはともかくも、いずれ四郎丸は平家の武の側面をもっとも受け継いでいくことになるだろう、その予感は確かにあった。

反面、己の子でありながら、妻に似た優しげな面立ちで穏やかな性格の惟盛は、重盛にとってはいささか物足りなさを感じる息子であった。

その気持ちが、異母弟である四郎丸や五郎丸に対する期待へと向かわせていることを、重盛自身自覚していた。

無論我が子は理屈なく可愛い。しかしそれよりなお幼い弟たちは、重盛にとって末頼もしく愛おしい存在なのだった。


「そこまでだ。ふたりともようした。手水場で汗を拭いてくるがいい」


小半時ほど経ったところで打ち合いを止めさせ、重盛自身も水で絞った手巾を使った。諸肌脱いで汗を拭おうと半尻の肩を抜こうとしたはいいが、絡まる袖に手間取ってじたばたともがいている四郎丸を見て、笑いながらしゃがみ込んで背中を拭いてやる。


「四郎は太刀を持った時と普段の落差が大きいな。眠れる獅子のようじゃ」


稽古のために上気したまだ丸い頬を膨らませ、 四弟は不満を示す。


「…もう起きております、おおあにうえ」


可愛らしい抗議にまた笑いを誘われ、重盛は立ち上がりながら四郎丸の頭を大きな掌で撫でた。


「わかっている。起きると獅子のように勇ましいと言うているのだ」


大きな猫目で見上げてくる弟に微笑みかける。


「お前はそれでよいのかもしれんな。獅子は一日のほとんどを眠って過ごすそうだ。そして獲物を定めると、全力を持って確実に仕留める。そのようでありたいと、この兄も思うのだが……」


言葉を切った重盛がもう一度しゃがんで目線の高さを合わせると、四郎丸もじっとこちらを見返してくる。


「早う大きうなれ、四郎。そしてこの兄を輔け、平家を武勇で支えてくれ。俺はその日を心待ちにしている」


黙って兄の言葉を聞いていた四郎丸が、やがて口を開く。

「…はい、おおあにうえ」


その瞳に勁い何かを見いだして、重盛は満足げに頷いた。

これでよい。四郎丸はその緩急の差でもって、より強くもなろう。



もとは武辺とはいえ、平家は今や宮中に伺候する殿上人の家となり政事に携わることの方が主となった。

父清盛は権大納言に進み、重盛自身も参議を命ぜられた。同母の弟基盛もともりも、四郎丸や五郎丸の同母兄である宗盛むねもりも、それぞれ若くして高い地位を賜っている。おそらく四郎丸や五郎丸も、早晩蔵人くろうどの地位を頂いて、宮中に伺候することになろう。

しかし重盛は、そうした平家のあり方に何の疑問も抱かずにいるにはあまりに世が見えすぎた。

父のことは尊敬している。あれほどの力と才は、自分などにはとても真似できぬものだと常々感嘆と憧れと――幾分かの妬心も 抱いている。

だが、それだけでは一族の結束や将来に影を落とすだろうとも思うのだ。

武にも文にも偏らず均衡を保ち、外部からの干渉を受けぬこと…それが一門を強くするという彼の考えは、先ほど五郎丸に語ったとおりだ。

そして彼ら宗家の兄弟が一族の重みを分け担うことが肝要と思う。

その武の面をまだ七歳に過ぎぬ四郎丸に期待するのは、いささか気が早いだろうか…と考え込んでいたその時。

二人の兄の様子を側で見ていた五郎丸が突然長兄に抱きついた。


「……だめ!おおあにうえは、わたしがおささえするのです!」


すぐ上の兄ばかりが目をかけられていることに、子供らしい嫉妬を感じたのだろうか、重盛の狩衣の袖をぐいぐいと引っ張って、自分の方へ向かせようとする。その愛らしい仕草にまた笑みが零れて、今度は五郎丸の頭をぽんぽんと叩く。

この二人を見ていると、日に何度笑うことだろう。単に微笑ましいというだけでなく、嬉しさが溢れてくるのだ。


「おお、五郎もな。お前は大きうなったら、俺の軍師だ。必ず勝利に導いてくれよ」


大らかに笑って背を叩く異母兄の袖の陰から、五郎丸はやや淡い光を宿す瞳を見張ったままで四兄を見つめていた。



幾月かが過ぎ、朝夕冷え込む頃となった。

そんな一日、重盛は父に呼ばれ、務めを終えた夜になって六波羅第を訪うた。

折節に西八条やここ六波羅に顔を出し、母や兄弟たちの相手をしては泊まっていくこともあるものの、彼自身の邸宅は六波羅の東、小松殿にある。

このところ宮中のことで慌ただしくしていたために、父と顔を合わせるのは半月ぶり程にもなろうか。もうすぐ五十の声を聞くはずの父上だがまだまだ意気軒昂、房事のほうもお盛んなようだ…と、その血色の良い肌を見て安堵する。



父清盛は重盛・基盛兄弟の母であった最初の妻が病を得て亡くなった後、同じ平でも名流桓武平氏の娘であった時子を正妻に迎えて六人の子をもうけ、女子のことは男子の甲斐性とばかり、他にもあちらこちらで平家の末流を増やしている、らしい。

まあ、お元気ならばそれでよい、と重盛は半ば諦めてもいる。

今夜の父は殊更機嫌が良いようで、頼みにしている長子に杯を差し出して、手ずから瓶子を傾けた。それを受けながら重盛は父を冷やかしてみる。


「何ぞ良いことでもございましたか」

「……ふ。そなた、相変わらず敏いのう。わかるか?」

「それはもうご様子を拝しますれば。これで重盛、父上との付き合いも長うござりますゆえ」


このようなからかいの言葉が許されるのも、気心知れた親子ならでは。余人を交えぬ席だからこそ、重盛も偉大な父に甘えるような言動ができるのだ。

案の定、父は呵々大笑した。


「ははは…!なるほどのう、参りましたぞよ三位殿」


これは余程善き事があったと見える。はてさて、通う女子にまたぞろ子でも出来たか、あるいは褒賞でもいただいたものか。

重盛はそう予想しながら愛想よく父の杯に酒を注いだ。

しかし父が口にしたのは、およそ彼が考えていたようなこととは違っていた。


「四郎をな、童殿上させよとの思し召しだ」


思わず手が止まる。


「四郎を…でございますか?」

「そうじゃ。院お直々の御命での。いずれ官位を授け蔵人として出仕させるのであれば、我が下で暫時仕えさせてみよ、と仰せであった」


当時、元服前の貴族の子弟を行儀見習いの名目で宮中に上げ、雑事をさせる慣習があった。それが童殿上である。

院御所においてもそれは例外ではないが、この際重盛にはある懸念があった。

後白河院は衆道の嗜好がおありで、しかもかなり節操なく周りに手を出しておしまいになる。重盛自身は院の篤い信任を受けてはいるものの、お好みとは違ったらしくそうした関係を迫られてはいないが。

無論父がそれを知らぬはずはない。まして四郎丸は兄弟中でも見目好い子供だった。今はまだ幼すぎて院もさすがに手を出しかねるだろうが…。


「もう四郎には?」

「おお、言うた。承知したぞ」

「…さようでございますか」


重盛とて、そうして院の庇護を受けることを否定する気はない。

それが有形無形の恩恵となって栄達に関わるのは、事実として間違いはないのだ。臣下としては上の御用を承ることこそが本分であると重々理解ってもいる。

だがあれほど幼い子供を、上つ方の気紛れに供することには忸怩たる思いがあるのも確かだ。かといって断れる筋のものでもない。


「あれは何事にも動じぬな。あの幼さで大したものよ」

「では、明日からこちらに移らせて、行儀作法など仕込まねばなりませぬな」


父清盛にとっても重盛にとっても、延いては平家一門にとっても、それは既定の未来であった。

ならば重盛は総領としてなすべきことをするまでだ。

そう思い決め、当面行わねばならぬことを確認したが、父は微妙に言い淀んだ。


「それよ。四郎だけならばよいのだが…」


その困惑の表情を見て取れば、重盛にも父の屈託がいずこにあるか想像がつく。


「…よもや五郎も、と仰せあるのではありますまいな」


四郎丸でさえも幼すぎて院御所に上げるのに躊躇いあるというのに、さらに幼い五郎丸をとは、如何に何でも無理が過ぎる。

しかし続く父の言葉に重盛はさらに渋面を作ることになった。


「いや、儂が言うたのではない。五郎が自分から願い出た」

「…なんと」

「兄上と離れるのはいやじゃ、我も行く、とてえらい騒ぎようじゃった。日頃おとなしいあれがそこまで強請ねだるのは珍しいでな」


敬愛する父の前だが、重盛は思わず呆れた顔を見せてしまった。


「その我が儘、承知なされましたのか、父上」

「…仕方あるまいよ。まあどのみち四郎の一年あとにはあれも元服、すぐに叙位じゃ。年の近い二人のこと、童殿上も共になってもそれはそれでよかろうて」


当惑を見せつつも、基本的に四郎丸や五郎丸に甘い父は、そう言い訳して長男を宥めた。

悪いことをして叱られているような清盛の表情は、不思議に愛嬌があって可笑し味を感じさせる。そんな父の様子に溜息吐きつつ、自身も幼い兄弟たちに甘い自覚がある重盛はうべなうほかはない。


「……では五郎もともに呼び寄せましょう」


実は自分は父にも甘いのかもしれない、とさらに深く嘆息する重盛だった。



女君や子供たちが住まう西八条第と比べ、武家棟梁としての平家の本邸である六波羅第は、日頃あまり女気がないせいか、雅な趣とはほど遠い。

ところがここ半月ほどは珍しくも、あえかな薫物の香りが漂ってくる。

そのわけは清盛の殿のお子方が童殿上のための仕込みにあるそうだ、とは郎党たちのもっぱらの噂であった。

彼らの住む一隅のみは、内裏の如く煌びやかな室礼・調度を取り揃え、まるきり姫君か貴人の房室のようである…と喧伝されている。

それは事実だが、内裏の如くというのはどうか、と重盛は苦笑した。



確かにいざ院御所でまごつかぬようにと、似たものを子供たちの房室に揃えさせてはいるが、内裏の奥を見たことのない者たちの、どこからそのような噂が出たものか。

これで四郎や五郎が惰弱と思われてはかなわぬな、と心に留め置くも、なによりあと半月もせぬうちに子供たちを伺候させて恥ずかしからぬ状態にせねばという気持ちの方が勝ってしまう。

無論、平家の子息とて、これまでも一応の行儀は身につけさせてはいたものの、宮中独特の座礼から御簾の上げ下ろし、歌作法、薫物作法などなど、覚えねばならぬことは山ほどあった。

主上のおわす禁中と違い、院御所ではおそらくさまで難しいことは言われぬだろうとは思うものの、幼い子供のこと、どのような無作法をしでかすかは想像もつかぬ。

ついあれこれ教えようと焦る己を(まるで親鳥のような…)と嗤う気持ちもあれど、何を教えても紙が水を吸うように吸収していく四郎丸五郎丸を見ていると、この際出来る限り様々な知識を教え込みたいとも思うのであった。



実際、あれほどやんちゃだった四郎丸が意外にもきちんと作法や舞楽を覚えていくのに驚かされたし、五郎丸に至ってはひょっとして歌や薫物の才があるのではないか、と兄ながら自惚れたくなるほどの出来映えだった。

武門の子としてどうかと家中の古老たちから責められようとも、父が従二位に、また重盛自身も正三位に叙せられた今、平家がこれから殿上人として宮中に伺候して栄達を図っていく以上は、そうした教養も不可欠となってくる。

そういえばお祖父じじ様、忠盛公も歌詠みとして名を挙げられたな…と今は亡き祖父を思い出した。残念ながらその努力の甲斐もなく、祖父は殿上叶わぬまま世を去ったが。

祖父の宿願を父が、そして自分が叶えたことを誇りに思うならば、今は弟たちをもしっかりとその後を追わせてやらねば、と思いを新たにする。


「……おおあにうえ?」


小さな手に火取と呼ばれる香炉を両手に捧げ持ち、梅花の香を聞いていた五郎が不思議そうに声をかける。

弟たちが薫物を作り焚いている間、広廂に立って庭を眺めていた重盛は、遣戸を開け放った房室へやを振り返った。


「…ん?どうかしたか?」

「あにうえ、なにやらむずかしそうなお顔で、お庭をにらんであらしゃいました」

「そうか?いや、なんでもないぞ」

「眉と眉のあいだに、しわがよっておいででした。こーんなふうに」


自分の眉間に指を当てて、顰めっ面をしてみせる五郎丸に笑い出してしまう。


「お前のほうがよほど怖い顔だぞ、五郎。薫物はうまくできたか?」

「はい、できました。でも四郎あにうえは、ごくろうあそばされているごようすです」

「……よけいなことをいうな、五郎」


ぴしゃりと弟をやりこめて、四郎丸は自分の火取を置いた。双子のように似た面差しに、先ほど五郎丸がしてみせたのとそっくり同じ皺を刻んでいる。


「その通りだ、五郎。余計なことを言うものではない。家うちならばよいが、宮中ではそうはいかぬ。口は災いの元と心得よ」

「はい、しょうちしております」


すまして答える五郎丸を、いったいこの口達者さは誰に似たものか、と呆れたように見やりながら、四郎丸の薫物もきちんと出来たのを確認する。

その時、四郎丸の右手の食指の先が赤く爛れているのを見つけた。


「四郎、その指はいかがした?」

「……さきほど、火箸を当ててしまいました」


香炉の灰を掻くための細い金物の箸で火傷したらしい。痛かっただろうに、一声も揚げずに稽古を続けていたのだろうか。

横にいたのに気づかなかった五郎丸の方は、兄の大事に狼狽えて身を乗り出す。


「四郎あにうえ!だいじょうぶ? ああ、どうしましょうか、おおあにうえ!こんな、まっかになってあらしゃいます!」


まるで自分が負傷したかのようにつらそうな顔をして、口唇を震わせながら訴えかける五郎丸に、当の四郎丸は平然と返す。


「…このていど、なにほどのこともない。そんなにさわぐな」


そうは言うが、小さな指先はじゅくじゅくとしていかにも酷い有様、四郎丸の仏頂面はいつものこととつい見逃してしまったが、これほど赤くなっておれば、さぞ痛むことだろう。


「五郎、厨に行き、蓖麻子ひまし油をもろうて来い」


命じられた五郎丸が、弾かれたように飛んでいくと、重盛はやおら四郎丸を抱き上げて庭に降り立ち、手水鉢に注ぎ込んでいる細いかけいの流れに、彼の手を突き出した。


「……っ…!」


冬近い時節の流水は身を切るように冷たい。それが火傷に当たって、四郎丸は一瞬息を呑んでぎゅっと眼をつぶった。さすがの痛みにじんわりと涙が滲む。

重盛は膝に座らせた小さな弟の背中を、ぽんぽんと叩いてやった。

しばらくそうしていると、熱を持った指先も随分と冷えてきたので、四郎丸の手を水の下から引いて、袂から出した手巾でそっと水気を拭いてやった。


「…よう我慢したの。痛かったであろう」


火傷も痛いが流水の冷たさも相当堪えただろうに、四郎丸は呻き声ひとつ上げなかった。

日頃から口数少なく、大声を出すことなどない弟だが、うっかり火傷した時も側にいる兄にも弟にも何ら訴えず、じっと耐えていたのだと思うと、愛しさといたわしさが込み上げてくる。


「お前は辛抱強い子じゃ。武士としてそれは何より大切なこと。しかしな、四郎」


目尻に残る涙を指先で拭ってやる。


「本当に困ったり辛い時には、この兄には言うてよい。一人で耐えられぬ時は、この兄にだけは打ち明けよ。…よいな?」


四郎丸は黙って重盛に抱きついた。その背を今度はゆっくりと撫でながら、重盛はこの寡黙な弟が決して情の薄い質ではないことを再確認する思いだった。



生まれた時から身体が弱く、母親である時子を悩ませ、周り中の手を借りて育ってきた子だが、それだけに皆に心配かけまいと、幼いながら人一倍頑張っているのを知っている。

いかに父に可愛がられていようとも、これまで六波羅と西八条に別れ住み、同じ西八条にいても姫たちとは違って、母と一日中べったりといられるわけではない。

ましてこのたび、五郎丸ともども突然六波羅に連れてこられ、やがては童殿上もさせられようというのだ。

本当は兄弟の誰よりも情に脆く、甘えん坊であろう四郎丸が痛みにも身体の辛さにも耐え、泣き言も言わずに忍んでいる。

五郎丸の方は、環境の変化にも柔軟に適応しているようで、けろりと六波羅での日々を送っている。

むしろひとつ年上の四郎の方が心配だな…と懸念する反面、そう思われるのがいやで我を張っている四郎丸を思えばただ甘やかすことも憚られ、厳しく接してしまっていた。

だが――。たまにはこうして、甘やかしてやるのもよかろうよ、と結局は弟可愛さに傾いてしまう重盛なのでもあった。



そんなことを思いながら濡れ縁にふと目をやると、厨から戻った五郎丸が蓖麻子油の入った手塩皿を持ったまま立っているのを見つけた。

声をかけようとして重盛は、しかし、五郎丸の表情に瞠目した。

いつもあどけなく笑っていたり涙を見せたりと、くるくる変わる顔を見せる弟の瞳は凍り付いたように冷え冷えとして、長兄と膝の上に抱かれている四兄を見つめていた。

重盛は、背中を冷たいものが滑り落ちていくような心地を覚え、しばらくは立ち上がることも出来ずに、四郎丸を抱いたまま、手水鉢の前にしゃがみ込んでいた。


――雪が、音もなく降り始めている。



    色もなき心を人にそめしよりうつろはむとは思ほえなくに

                  (古今和歌集 巻十四 紀貫之)


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