♯140 銅貨二枚(剣聖の慟哭)
『棒引き』という遊びがござる。
一本の棒の両端を互いに握り、相手の身体に触れる事なくその場から動かせば勝ちという、至って単純なものにござる。
大通りの片隅でその大道芸に参加したのは、ほんの気紛れにござった。特に何を思った訳でも、修行の一環という訳でもござらん。ただ何となく、幼少の頃をふと懐かしんだ。ただ、それだけの事にござった。
「今、噂の剣聖ゼンの強さは正に本物っ! されど勝負は剣にあらずっ! さぁさぁっ! 誰かいないかっ! ここでやらずば男がすたるっ! 話のネタに一つっ! 我こそと思う者は名乗り出てくれっ!」
胴元の大道芸人が道行く人々に声を張り上げる中、拙者は、少なくない人垣の中心で棒を片手に、有頂天になっていたのでござる。
すでに剣聖として名を広めつつあった拙者は当然の如く連勝を重ね、挑戦者達を尽く返り討ちにしてござった。
小遣い程度の挑戦料であっても、それを99戦も重ねればそこそこまとまとまった賞金にも届くもの。周りを強面で睨み付けてはいても、予定外の小遣いに今宵の晩酌は多少奮発してみようかと、胸中では秘かに算段をつけてござった。
慢心と言えばその通りにござる。
事実拙者は、そこで名乗りを上げた100人目の挑戦者の顔も、まともに見る事すらしていなかったのでござる。
ただ小柄であると。これで100人分の賞金は貰ったも当然だと。そんな愚かな皮算用をしてござった。
されどそれが、一瞬にして、天地がひっくり返ったのでござる。
「油断し過ぎだよ? 剣聖さん」
正に鈴の音を転がすような声にござった。
何が起きたのかさっぱりな拙者は、ただ呆然と地面にひっくり返ったまま、声の主をゆっくりと見上げたのでござる。
小柄だと思ったのも当然。拙者を見下ろしていたのは目も覚めるような美しき容貌をした、女子にござった。
どこか異国風の着物を身にまとい、抜けるような白い肌に、顎の辺りで切り揃えた絹のような黒髪。小さく小振りで、それでいて意思の強そうな口元は軽く微笑み、愛嬌のある大きな黒目は、どこか困ったモノを見るかのように優しさに満ちていたでござる。
拙者は思わず、言葉を忘れて見惚れてしまっていたのでござる。
それが、リンフィレット殿でござった。
「ま、待たれよっ! しばしっ!」
しばらくの間我を忘れてただ呆然としていたのでござるが、ふと我に返り、拙者はリンフィレット殿を追いかけたのでござる。
何かを言いたかった訳でも、したかった訳でもござらぬ。……強いて言えば、ただ追いかけずにはいられなかったが真意。
リンフィレット殿は唖然とする周りの者達に軽く愛嬌を振り撒きながら、100人分の賞金を受け取ると、さっさと立ち去ってしまったのでござる。
慌てて後ろ姿を追いかけたのでござるが、何故か歩いてるだけのハズの女子に追い付く事が叶ず。
大通りをとうに過ぎ、四辻を周り、見世の軒の連なる小路に差し掛かってようやくそこで、声をかけるだけで拙者は必死でござった。
リンフィレット殿は立ち止まり、一つ大きくため息をつくと、呆れたような面差しで拙者に振り返ったのでござる。
「……どこまで着いて来るんですか。見苦しいですよ? 勝負は勝負なんですから諦めて下さい」
美貌を微かに歪めてねめつけられれば、心の臓もドキリと跳ね上がり、言葉の一つも出ては来ず。
元々言いたい事があった訳でもなく、衝動にかられて追いかけてきただけにござれば、二の句も告げられずは当然至極。
「……いや、特に文句がある訳ではござらん」
一つだけ言い訳じみた物言いをこぼし、それで拙者は押し黙るしかすべをもたなかったのでござる。
「そうじゃなけりゃ……、あれか。今日は臨時収入もあったし、お客さんを取る気はなかったんだけどな……」
どこか観念したように小首を傾げるその様子に戸惑っていると、リンフィレット殿はすぐさまあっけらかんとして、拙者の側へと歩み寄ってござった。
ついっと、形の良い鼻先を突き出して拙者の顔を下から覗き込むには戸惑うばかり。
「剣聖さんには稼がせてもらったし。いいよ。一晩付き合ってあげよっか」
「……一晩、でござるか? ……何を」
「何をって……。わざわざずっと追いかけて来たんだから、そう言う事なんでしょ?」
「……そう言う、事。……どういう事でござるか」
「……こらこら。いい歳した大人が何言ってるんだか。一晩いくらかで抱かせろって事でしょって言ってんの。……大丈夫?」
……。
……。
正直、拙者はそこで、思考が飛んでしまったのでござる。
剣に生き、剣のみを求めてきた拙者の半生において、女人との経験など全くもってあろうハズもなく。……恥ずかしながら、思いもよらぬ展開に頭が真っ白になってしまったのでござる。
……抱く? 誰が、何を。
……。……一晩?
ばばんがばんばばん?
リンフィレット殿は春をひさぐ事で生計を立てていたのでござる。
彼の御仁からすれば、拙者のようにその器量に惚れて言い寄る男衆などそれこそ有象無象。全くその気がなかったとは言え、その容貌に見惚れてしまっていた拙者も同じ穴の何とやらでござる。
そうも思えば急に恥ずかしくも情けなくもなり、古今東西に剣の名を轟かせた拙者が、見るもか細き女子を前にして何も言うに言えず、すっかり面目を失ってしまったのでござる。
木石のように固まってしまった拙者に愛想が尽きたのか、不審げな表情を浮かべつつも、リンフィレット殿はその場から立ち去ってしまったのでござる。
そこから寝所としていた庵にどうやって戻ったのかは、さっぱり覚えてござらん。ただ、それまで感じた事の無いもやもやした感情に、頭の中がいっぱいいっぱいにござった。
それから数日を過ごしたのでござるが、気がつけば、拙者はいつのまにか町へと繰り出し、最後にリンフィレット殿と別れた小路の周辺をただ歩き回ってござった。
忘れられなかったのでござる。
鈴の音を転がすようなその声も、どこかあけすけな物言いも、愛嬌のあるその大きな黒目も。日を越せば越す程にどこか落ち着かない気分が募り、もしかしたらもう一度会えるかもしれぬと言うかすかな偶然のみにすがり、……漠然と探し回っていたのでござる。
当然、町は人の入れ替りもあれば、偶然会っただけの、どこの誰とも分からぬ女人に再び出会えるような幸運などあろうハズもなし。
……焦がれた思いだけが募るばかりにござった。
「……大丈夫? どこか痛いの?」
歩き疲れたのと空腹とで、橋のたもとに寄りかかり、うつらうつらとしていた時の事でござった。
余程酷い顔に見えたのでござろう。かけられた声にはっと目を覚ましてみれば、至極整った顔立ちの女童が、拙者を心配して覗きこんでいたのでござる。
「……ご心配かたじけない。ちと空腹のあまり休んでいただけにござれば、心配無用にござるよ」
とんだ情けない姿を晒してしまったと恥入り、顔を背けた先で……。再び、出会う事が出来たのでござる。
「はは様っ、この人、お腹が空いて動けないのだそうです」
女童がはは様と呼ぶその先にいたリンフィレット殿は、驚いたような呆れたような顔をして……、頭を抱えていたでござる。
「……何やってんですか剣聖さん。こんな所で」
「……面目次第もござらん」
ようやく出会えた嬉しさも半分、一体自分は何をしているのかという思いもあり、ただ恥じ入るばかりにござった。
その女童、幼き頃のリーンシェイド殿の提案もあり、拙者はそれから、リンフィレット殿の自宅へと招いてもらったのでござる。
「ま、剣聖さんにはいつかのお返しもありますし。……でも、子供の前で仕事の話はしないで下さい。お願いします」
ささやかながらも、貴重な食事を別けて貰い、そっと小声で念を押すリンフィレット殿に拙者も頷きを返したのでござる。そもそも、そんな事などすっかり忘れていたのでござる。
聞けばリンフィレット殿には兄と妹、二人の子がおり、女手一つで育てているとの事。
すでに既婚の子持ちであった事に、酷く驚きもござった。
驚きもござったが……、どこか諦めに近い安堵を感じていた事もまた、事実にござる。
自身の中にあるこの思いは、もしやすると恋慕に当たるものでは無いかと。……そう自覚するも、すでに誰かの妻であり、二人の子の母であるならば素直に諦めもつくと。思いを忘れる言い訳になると、……安堵も感じていたのでござる。
どこか踏ん切りのついた拙者はそこで立ち上がり、テーブルの上に銅貨を二枚、差し出したのでござる。
「……好意で振る舞った食事に対価を払うって言うのは、ちょっとどうかと思うけど?」
露骨に眉をしかめるリンフィレット殿でござったが、拙者も、そのつもりで銅貨を出したのではござらん。
軽く否定を返して、勝負を願い出たのでござる。
「これは挑戦料にござれば、今一度、『棒引き』の相手を願い申し出たい」
「棒引き……?」
「拙者、これでも剣聖の称号を受けた武人なれば、敗北を敗北のままに据え置く事も出来ぬのでござる。どうか今一度、お相手願いたいのでござる」
「……へぇ。敗北は敗北って認めちゃうんだ」
「事実から目を逸らした所で己の道は極まらぬでござる。敗北は敗北。なればこそ、打ち勝って進む事こそ真道にござる」
恋慕の情も育つ前であれば断ち切る事も出来よう。いや、断ち切るべきと意思を強めたのでござる。
ここで敗北を
そのつもりでござったが……。
「……そういうの、嫌いじゃないけどさ」
外に出て棒を掴んだ瞬間、訳も分からぬまま、再び天地がひっくり返ったのでござる。
「剣聖さんが勝てるかどうかは、別だからね?」
呆然とする拙者に不敵に微笑むリンフィレット殿は、どこか楽しげでもござった。
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