世界の終わりとメメントモリ(詐)

「もう、だいじょうぶだよ」


 突然、何もないところから、コハルの声が優しく耳に流れ込んできた。

 その声で我に返ると、重苦しい世界の泣き声はすでに止んでいる。今はただ暴風の力を借りた雨粒が公園のあらゆる存在を滅多打ちにしていて、プラスチックか何かでできた円柱形の遊具が、横倒しの空洞に僕を包んだまま無機質なドラムロールを続けている。

 その中で聞こえてきたコハルの声は渓流のせせらぎを思わせる透明さで、川を辿ったどこか遠い彼方から届いているようにも思えた。


「コハル!? いるのか!?」


 にわかには信じられなかった。コハルがそばにいるだなんて。




「もう、頑張らなくてもいいんだよ」




 また聞こえた。

 這うように外に出て、滑り台をずり落ち、泥だらけの地面に立ってあたりを見回す。


「コハルーっ!」


 口に雨粒が次々と飛び込んできた。

 もう陽は落ちたのか。電灯がうっすらと明かりをもたらし始めてはいるものの、空は黒い雲に覆われて、あたりは墨に沈んだようにどんよりと暗い。




「あたしのことは、もう気にしないで」




 また声だけが響く。


「そんなこと言うなよ!」


 考えるよりも先に口が動いていた。


「そんなわけにはいかないだろ! コハルだって、諦めるなよ! そりゃ、確かにまだわからないことだらけだけどさ……。でも、最後まで諦めなければ、きっとなんとかなるはずなんだって! 希望を捨てるなよ!」


 ガサリ。植え込みが音をたてた。

 そこか? いや、違った。風で動いただけ。

 今度は立木の裏に……ここも違う。くそ、風が紛らわしい。


「なあ、いったい君に何が起きているんだ。教えてくれ。絶対、僕は見捨てたりなんかしないから!」


 その言葉をとがめるように、痛みがズキリと頭を支配する。この期に及んで、本当にいまいましい。こんなもので僕は止まれない。止まってなるものか。


 コハル、どうして姿を見せてくれないんだ。笑顔が見たいよ。直接会って話がしたいよ。それで僕の力は何万倍にだってなるはずだ。何か、姿を見せられない理由でもあるのか。まさか、あの変異が、今の現実世界の君にまで及んでいるとか。

 一瞬、黒い触手とコハルの姿が頭の中で重なって、その妄想をすぐに打ち捨てた。そんな想像をした自分にどうしようもなく腹が立って、許せなかった。


「コハル、本当だ。今の君に何が起きていても、僕は味方だ」


 本心だった。紛れもない心の底からの言葉だ。だけど、




「生きて。あたしの分まで」




 その言葉は、一番聞きたくなかった。

 コハルの口調はどこまでも透明で、他の全てがすり抜けて行くように、ずっとずっと同じままだった。きっと深い哀しみから生み出されているに違いない。


 僕の言葉じゃ響かない。届かない。何一つ変えられない。

 つまり、僕じゃコハルを救えない。


 その事実を突きつけられたような気がして、悔しくて、歯がゆくて、頭をガリガリと掻きむしりたい衝動に駆られて、代わりに背中で手錠をガチャガチャと鳴らして、無力感が胸の中で馬鹿みたいに膨れ上がるのを止められなくて、


「コハル! 僕は、ほんどうに……たすげだいっで!!」


 ひざまずいて叫んだ声は嗚咽おえつ混じりで、泥をかぶったように濁ってしまって、




「カズハちゃんを、もっと大事にしてあげて」




 コハルの心とはどうしようもなくすれ違って、かけ離れていくばかりだった。

 それがつらくて、受け入れたくなかった。信じたくなかった。

 何も言い返せないまま、




「ほら、ユウ君、なにやってるの」




 とうとうその声を最後に、コハルの声は聞こえなくなってしまった。

 僕が守ると決めたはずなのに、逆に僕の方が捨てられた子供のような、どうしようもなく孤独で、絶望的な気分になった。


 公園のあちこちへ、わらにもすがる思いで探し回ったのだけど、ついにそのポニーテール姿を見つけることはできなかった。代わりに赤色灯を回した車両が一台、遠目に公園脇を通りかかるのを見て、思わず樹木の影に隠れてうずくまる。


 本当に、僕は何をやっているのだろう。


「警察から近隣の皆様へお知らせです。凶悪犯がこの付近に逃げ込んでいる可能性があります。不審な人物を目撃した方はただちに警察へ通報してください。戸締りを確認し、無用な外出は――」


 警察車両が拡声器らしきもので周りの家々に警戒を呼び掛けている。

 僕はもう完全に凶悪犯扱いになってしまったようだ。


 何が正解だったのだろう。

 あのまま警察署にとどまって、潔白を主張し続ければよかったんだろうか。でも、そうしたらコハルはどうなる? 世界の浸蝕しんしょくは次々と人を巻き込んでいる。それは、変異したコハルの姿を多くの人が目にするということだ。すでに瀧川たきがわには見られてしまった。

 そしたら次は? コハルが犯人扱いされて、コロサレテ――


 そんな未来は絶対に許しちゃならない。


 幸か不幸か、僕が犯人扱いされている間は、皆の目をコハルから逸らせるかもしれないということだ。その間にコハルの謎を解くことができれば、全てがうまくいくんじゃないだろうか。

 問題はこの手錠だ。僕の行動がかなり制限されてきている。次はどう動いたものか。


 警察車両が過ぎ去った道を、再び樹木の影から覗き見る。暗くてよく見通せないが、この風雨もあって人影は全くない。車ですらほとんど見当たらない。

 あ、いや、待て。向こうから一台近づいてくる。街灯の光を浴びて照らし出されたその色は、特徴的なライムグリーンだった。今ならまだ間に合う。


 瀬尾せおさん……。


 瀬尾さん……。


 瀬尾さん……。


 走りながら、その名を頭の中で呼び続けた。

 米粒大の流線形が徐々に大きくなってくる。公道をゆくにしては、その速度はいささかゆっくりと抑えているようにも思えた。


「瀬尾さああん!!」


 だから、そう叫んで、身体を投げ出すように車線に飛び出した僕の身体ギリギリで、この一年間慣れ親しんだ軽自動車は止まることができたのだった。ひっきりなしに左右に動き続けるワイパーの裏で、瀬尾さんが両手で口元を抑えている。

 すぐ運転席のドアが開いて、


「ユウ君……ユウ君なのね!」


 その問いに、コクリと縦に首を振る。

 後ろ手に手錠がはめられているのを見られたくなくて、努めて自然を装ったものの、それにも限りがあった。

 にもかかわらず、瀬尾さんは「乗って」とだけ言って、後部座席のドアを開けてくれた。びしょびしょの服で綺麗な白いクッションを汚してしまうことに少しばかり罪悪感を覚えながら、この先どう瀬尾さんに協力を仰いだものか、幾つかの台詞が頭に浮かんでは消えていった。

 瀬尾さんは運転席に戻って、シートベルトを締め直し、雨に濡れた丸メガネを丁寧に拭き始める。


「こんなところにいるなんてね。聞いていないのかしら? 避難勧告がでているのよ。川が氾濫するかもしれないって」

「そうなんですか、知らなかったです」

「……ほんと、こっちを念のため探しておいてよかったわ」


 瀬尾さんはハザードを点けながら、携帯電話を取り出した。


「あ、カズハちゃん。ユウ君、見つかった。……公園脇の道、うん、そう。……これから警察に行くわ。カズハちゃんも早く家に戻って。絶対よ。……それじゃ」

「瀬尾さん、警察って……」


 しかし、軽自動車は有無を言わさずゆっくりと動き出して、僕の身体を運んでいく。

 瀬尾さんは前を見据えたまま、


「ユウ君、警察に行きましょう。あなたがどうして逃げているのか知らないけれど、犯人ならこれ以上罪を重ねないでほしいし、そうでないなら……なおさら」

「でも、瀬尾さん! 僕じゃないんだ! 信じてもらえないかもしれないけど、黒いバケモノがみんなを襲ってるんだ! それに、コハルにも変異が起こっていて、僕が彼女を助けてあげないと――」

「いい加減に目を覚ましてっ!!」


 瀬尾さんが叫んだ。ほとんど金切り声だった。


「いい、ユウ君。逃げちゃ駄目よ。このまま逃げ続けていたって、どこかで袋小路になるわ。そうなる前にちゃんと――」


 しかし、そこで急ブレーキがかかった。本日二度目ながら突然のことで対応できず、運転席の後ろに思いっきり顔をぶつけてしまう。手錠のせいでズキズキと痛む鼻っ柱を押さえることもできない。


「どう……したんですか?」


 僕の質問に答えは返ってこない。すでに瀬尾さんはドアを開け、豪雨の中へ歩き出していた。

 ワイパーが拭くフロントガラス越しに人影が見える。四人……だろうか。行く手を遮るように車道の上で仁王立ちをしている。

 そのうちの一人、あの坊主頭はハヤトだ。警察署の暗がりから、ここまで追いかけてきて何の用だろうか。


 少なくとも穏便な話ではないのだろう。その右手には、銀色の金属バットが握りしめられていた。

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