第四章  世界の終わりとメメントモリ

世界の終わりとメメントモリ(異)

 水面に浮かぶような感覚にとらわれ、視界がゆらゆらとゆっくり揺れる。

 その中を僕は雨合羽をまといながら懸命に走っていた。麻酔でも効いているか、全てがスローモーションの中にある。

 それでなんとなく、ああ、夢の中にいるんだ、と理解できた。


 目に映る景色は、とにかく異常だった。

 空は薄暗い雲で覆われて、ざあざあと雨が降っている。足元の地面は雪が降ったように白い。

 冬? 違う。

 肌を撫でる空気は生温かく、碁盤目状に広がる水田では植えられたばかりの稲が雨粒に打たれている。六月なのだ。雪が降るはずがない。


 ――ユウ、消防団のイサオじいさんを呼んで来い!


 頭の中で父さんの指示を思い起こす。

 カズハの家が火事なのだ。この田舎にはどうにも馴染まない白い無機質な立方体は、その材質か、窓の少なさのためか、雨だというのに火の勢いは一向に収まらなかった。


 カズハは、ガクは無事なのか。


 どれだけ冷静になろうとしても、蓋をした隙間から不安がぬるりと滑り出て、心臓をドクンドクンと揉みしだくばかり。


「じいさああん! イサオじいさああん! 火事だああ!!」


 イサオじいさんの家は近い。事情を伝えたら、すぐに消火が始まるものだと思っていた。だけど肝心のイサオじいさんが見つからない。いや、それどころか人っ子一人見当たらないのだ。


「誰かあ! 誰かいませんかあ!!」


 家々の間を走りながら、叫んでも叫んでも、聞こえてくるのは雨の音。


 いったい皆どこへ消えたのか。

 焦りと不安で頭が飽和しかけた、その時だった。

 視界の片隅、石造りの塀の影で、何かが動いた。そんな気配を感じた。


 ……何だ?


 音はない。恐る恐る覗き込むと、人が一人、両足をこちらに向けてうつ伏せに倒れていた。

 大丈夫ですか、と駆け寄ろうとして即座に思いとどまる。


 頭が……ない……。


「うわああああっ!?」


 奇怪な死体の姿にたまらず悲鳴をあげた。あげてしまった。


「ゲゲ……ギゲゲエ……?」


 何かが視界の先で一斉に振り向いた。

 そいつらは一様に苦悶の表情を浮かべて、影のような真っ黒な身体をしている。

 四体、五体……いや、もっと。まるで群れだ。


 だけどその瞬間、さらに奥の光景に僕は目を奪われていた。

 奴らの後ろでは蛸足のような黒い触手が何本も蠢いて、その一つが一人の老体を捕えていた。すでに衣服はおびただしい出血でどす黒く染まり、はたして内側に血の一滴すら残っているかどうか……。

 しかし触手は構わずそのむくろを絡めとって振り回し、卵のような形をした先端がぐわりと大きく口を開けた。

 そして喰った。白髪の頭を。

 なんの躊躇もない。まるで葡萄の房から一粒を摘み取るように、いとも簡単に頭を喰いちぎってみせた。まだ残っていた血液が行き場を求めてあふれ出し、辺りに赤錆びの雨を降らせる。

 それだけじゃない。その卵が続けて何かを砂利道へ吐き出した。生まれ落ちたそれは発芽するようにもごもごと動き出し、こちらを向いた。


 イサオじいさんだ。


 探していた、まさにその顔だった。

 首の切れ目から新たに黒い身体が生えている。今、ぞろぞろと僕に向かってきている奴らと同じ……!




「うああああああああああああああああっ!!」




 叫んだ。

 腹の底から。脚をわなわなと震わせながら。


 一瞬のもとで理解した。

 何かが町のみんなを喰っている。そして化け物を生み出しているのだ。

 よりによって喰った人の頭を使って!


 走った。逃げた。

 すでに周りは化け物で埋め尽くされようとしていた。

 何本も伸びてくる黒い手の中を必死ですり抜ける。生存本能だけを働かせて、無我夢中で走り抜けた。




 やがて緑に囲まれた道にたどり着いて、奴らの姿が見えなくなった。

 代わりに前方から見知った姿が近寄ってくる。

 この雨の中で傘も持たず、ゆっくりと歩み寄ってくるその姿は、


「カズハ……よかった。生きてた」


 がくりと砂利道に膝をついて彼女の細い身体にすがりついた。

 こびりついた恐怖と、一握りの安堵で、僕の頭はほとんどおかしくなっていたかもしれない。


「大変なんだ。町のみんな、殺されちゃって。あいつが元凶だ。黒い親玉がいてさ、一人ずつ奴に喰われて、取り込まれて、みんな化け物なっちまうんだ。あれは……あれはまるで――」

「……世界の終わり」


 ぼそりと呟いたカズハの目は、少し癖のある前髪に隠れて僕からはよく見えなかった。


「あっ」


 カズハはそれ以外何も言わず駆け出した。

 僕が走り来た方角だ。あっちには、まだ……。


「カズハ! そっちはダメだ! 化け物が!」


 だけどカズハは止まらない。振り向きすらしなかった。

 小さい背中がますます小さく遠ざかっていく。


 何をやっている。追いかけて、引き戻せ。カズハが殺されてしまうぞ。


 僕の中の何かがけしかける。だけど僕は立ち止まったまま、どうしてもその方角へは足を踏み出せそうになかった。


 その弱さにみ込まれて反対方向へ振り向いた時、その方角にもう一つの人影がぽつんと立っているのを見つけた。

 待て、よく見ろ。人のようで人じゃない。

 あの頭は黒毛の山羊か? ゴツゴツとした二本の角が生えている。


 あるいはあれも化け物の仲間なのかもしれない。あの触手だって食べるのは人間だけとも限らない。

 だけど、その山羊頭やぎあたまはこちらに歩み寄るでもなく、ただ静かにずっとこちらを見ているようだった。

 なんだか薄気味悪い。


 ガサ――


 と、すぐ近くの茂みで音がした。

 びくりと身体を震わせて振り返る。


「ユウ……君?」


 姿を見せたのは、白化した落ち葉の乗ったポニーテールだった。学校の制服はすっかり泥まみれになって、顔のあちこちに擦り傷を作っている。


「コハル!」

「ユウ君!」


 コハルは目に大粒の涙を溜めて僕の胸に飛び込んできた。


「……っと、無事だったんだな、よかった」

「ううん、ううん」


 コハルはしきりにかぶりを振って否定する。


「みんな……みんな死んじゃった。パパも、ママも……」


 コハルは堪えきれず滝のように涙を流していた。

 雨が容赦なく僕らに覆いかぶさってくる。


 どうしたらいい。このままではきっとコハルも僕も殺されてしまう。

 僕がコハルを守らなきゃ。そんな決意が胸で燃え上がる。


「コハルはまだ生きてる。ここで泣いてちゃ駄目だ」


 コハルのつぶらな瞳が、僕を見た。

 僕の身体の奥の方から、


「だいじょうぶ。生きよう」


 そんな言葉がまっすぐに湧いて出た。あるいはそれは僕自身への言葉だったか。


「……うん」


 コハルが小さく頷いて、僕らはどちらからともなく手を繋いで走り出した。

 いつの間にか、そばで見ていたはずの山羊頭の姿は、今は影も形もなくなっていた。







 ……そこで目が覚めた。

 堅いシートの上に横になっている自分に気付いたその瞬間、不意にガタンと床が跳ねて、僕はしたたかに頭を打ち付ける。目覚ましとしては下の下といったところだ。いや、そうでなくても感覚全部がふわついて、どこか気分が悪い。


 ガチャリ。


 両手首に触れる鋼鉄の冷たい感触で、後ろ手に拘束されていたことを思い出す。

 前を向けば金属製の網が張られ、その先に運転席と助手席が二つ並んで、フロントガラスに雨の住宅街が流れていた。僕はバンか何かの後部座席に放り込まれているらしい。

 助手席に座った男がこちらに気付き、「おい、もう起きたぞ」と運転席に慌てて声をかける。


 今のは……夢?


 まどろみの中の出来事が鮮明に頭に居座っている。

 いや、あるいは記憶の想起か。一年前、あれが本当に起きたことだと……。

 様々な想いが脳内を巡り、ろくろのように徐々に一つの意思を作り上げていく。


 コハルを守らなければ。


「あの――」


 声を上げた瞬間、助手席の男が振り返った。黒縁メガネ越しの険しい目つき、加賀美かがみ刑事だった。


「動くんじゃない!」


 いつぞやのリプレイだ。金網越しに銃口がこちらを睨みつける。

 運転席の警官が一瞬だけ振り返った。

 フロントガラスの景色は、大雨に打たれながら、今まさに線路の下を潜り抜けようと暗闇の中へ。

 いや、今一瞬、そこに、誰か立っていたような。


「うわっ」


 突然の急ブレーキ。

 身体が投げ出され、金網に向かって突っ込んだ。

 加賀美刑事もこちらを向いた状態で逆向きに引っ張られて、シートベルトが絡みついたままひっくり返る。


 が、よく見えたのはそこまでだ。線路の真下に入ったのか、車内は互いの顔も判別できないほどの暗闇に落ちた。


「おいっ、何で止まった!?」


 加賀美刑事のいらついた声が車内に響いた。

 雨の音は遠い。フロントガラスの向こうに四角く出口が見えた。

 いつのまにか、そこは血のような赤に染まっていた。


「す、すいません! 今、前に人が立っていた気がして……」

「何ぃ? どこにもいないだろ、早く出せ」


 ガコッ……ガコッ……。


 ペダルが空を切る力のない音が二度、三度。


「お、おい。エンジンはどうした。バッテリーでもあがったのか?」


 カチ……カチ……カチカチカチカチッ!!


 乱暴にキーを回す音がしばらく続いて、止んだ。


「か……かかりません……」


 そう答えた警官の声は、大の大人とは思えないほどに震えていた。

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